どんな人の人生もそれほど特別ではない。超一流の経営者もモデルもアスリートも、トイレに入って用を足すし、家では爪を切ったり顔を洗ったり歯を磨いたりしている。人生の大半を占めるのは当たり前の日常だ。ほとんどの場面では普通のことが普通に行われている。

歴史上の偉人の伝記では、その人が家具の角に足の小指をぶつけて悶絶したり、人前でくしゃみと一緒におならが出てしまい恥ずかしい思いをしたりする場面は描かれない。伝記にあるのは人の心に刺さりやすい下積みの苦労とその後の成功の物語だけだ。

人はいつでも影よりも光に目を奪われがちだ。地味な日常よりも派手な非日常に惹かれてしまう。それをさらに煽るのが、SNSを駆けめぐる意識高い系成功者たちの言葉だ。「死ぬこと以外かすり傷」だの「多動力」だのと言われると、派手に生きていない自分が劣っているような気がしてくる。

自家用ジェットも持っていないし月旅行に行く金もない自分は、なんてつまらない人生を過ごしているのだろう。そのような「初めから負け組」という気分がこの時代の支配的な空気になっている。

2019年、そんな風潮に一石を投じる本が出版されて話題を呼んだ。ハライチの岩井勇気の著書『僕の人生には事件が起きない』(新潮社)である。読書家からの評価も高く、処女作にして累計10万部を超えるベストセラーになった。タイトルにある通り、大した事件が起きない地味な日常を淡々とした筆致でつづったエッセイ集だ。

この本に描かれている岩井が体験した出来事は、華やかな舞台に立つ芸能人のものとは思えないほど小さくて他愛もないことばかりだ。組み立て式の棚を買ったけど組み立てるのが面倒で手がつけられない。通販で届いた段ボールがどんどん溜まっていく。30代、独身、独り暮らしの等身大の実生活のひとコマが切り取られている。

しかし、ありふれた日常を描いたこの本は決して退屈な内容ではない。日常の中のささやかな怒りや焦りなどの心の動きを巧みに描いていて、読み応えは十分。じわじわと心にしみていくような面白さがある。

この爽やかな読後感の秘密は、誰よりもまず、岩井自身がそんな平凡な日常を心から楽しんでいるのが伝わってくるからだ。派手なイベントも大きな失敗も人生には不要。ただ、普通のことを普通に面白がる感性さえあればいい。物事を斜めに見る「腐り芸人」のイメージが強い岩井だが、その心根はどこかポジティブなのだ。

そんな岩井の生き方を読み解く鍵となるのが、彼の「忘れっぽさ」と「器用さ」という2つの資質だ。この本にも記述があるのだが、岩井はたびたび忘れ物をしたり、人と会うための約束を忘れたりすることがあるという。

忘れっぽいのは世の中では欠点だと思われがちだが、嫌なことを引きずらないですぐに気持ちを切り替えられるのは利点でもある。忘れっぽい人間は過去の記憶が薄いだけではなく、未来の自分にも期待していない。岩井は今を生きている。瞬間瞬間ごとに目の前にあるものに向き合い、それを味わっているのだ。

また、岩井は持ち前の器用さで、どんなことをやってもすぐにコツをつかみ、短期間でそこそこの成果を出すことができる。学生時代はサッカーやピアノが得意で、お笑いを始めてからもすぐにブレークを果たした。エッセイを書くのもこの本が初めてだったが、すでに高い評価を受けている。

過去とも未来ともつながっていない岩井がそこそこ世渡りができてしまうのは、この器用さがあるからだ。初めての状況に出くわしても、すぐにそれを受け入れて、コツをつかみ、楽しむことができる。そうやって岩井は今この瞬間だけを味わう生き方を貫いてきた。

過去を振り返らず、未来を目指さない生き方は危なっかしく見えるかもしれない。だが、そもそも私たちはいつでも「今」にしか生きていない。今だけに向き合う岩井の生き方こそが、真の意味で地に足がついているとも言えるのだ。

2021年9月には2作目となる『どうやら僕の日常生活はまちがっている』(新潮社)も出版された。文章はさらに洗練され、切れ味が増している。

他人と自分を比べない。過去を悔やまない。未来に期待しない。誰よりもクールで現実的な考えを持つ岩井は、今日も当たり前の日常を当たり前に楽しんでいる。