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中田敦彦とYouTubeで共演した古舘伊知郎がしゃべり続ける理由

ラリー遠田作家・お笑い評論家

オリエンタルラジオの中田敦彦のYouTubeチャンネル『中田敦彦のYouTube大学』で、7月24日に公開された動画に古舘伊知郎が登場した。中田にとって古舘は憧れの人物だった。古舘の1人しゃべりのイベント「トーキングブルース」を見て、その技術と熱量に魅了され、大きな影響を受けてきたという。

動画の中で古舘は、幅広いジャンルの情報を発信し続ける中田のYouTubeでの活躍ぶりを称賛し、自分たちはしゃべらずにはいられない「トーキングシンドローム」という同じ症状を持つ仲間同士だと語った。

もともとアナウンサーはしゃべるのが仕事である。だが、しゃべりそのものを芸の域にまで高めて、それを売りにしている人間はそれほど多くはない。その頂点に位置するのが古舘伊知郎である。膨大な知識と豊富なボキャブラリーを武器にしたプロレスやF1などの実況で話題になり、独自の地位を確立した。

2016年に『報道ステーション』の司会を終えたときには、バラエティ番組でゲスト出演する機会も増えていた。各番組で水を得た魚のように、いや、刑期を終えた受刑者のように怒濤の勢いでしゃべりまくり、衰えを知らない圧倒的なパワーを見せつけた。その後も、テレビだけでなくラジオやライブでも精力的に活動している。そんな古舘はいかにして現在の地位を築いたのだろうか。

1954年12月7日、古舘伊知郎は東京都北区滝野川で生まれた。テレビ放送が始まって間もない同年2月には、力道山・木村政彦ペアとシャープ兄弟のプロレス史に残る「世紀の一戦」が放送されていた。

古舘自身が冗談めかして語っていたところによると、彼の父はその戦いを見て興奮さめやらぬままに事に及び、そこから十月十日後に生まれたのが自分なのだという。のちに古舘がプロレスをこよなく愛し、テレビの世界に身を投じることは出生の時から運命づけられていたというわけだ。

ただ、今から考えると意外な感じもするが、幼少期の彼はそれほどおしゃべりではなかったのだという。家族の中で口が達者だったのは母と姉の方だった。家では2人が絶え間なくしゃべり続けているせいで言葉を発する隙も与えられず、古舘はむしろ気弱で無口な少年として育っていった。

そんな彼を変えたのがプロレスだった。鍛え上げた肉体でぶつかる男同士の勝負に魅了され、好きが高じて200人以上のプロレスラーの名前を暗記しまくった。

それを母に披露したところ、映画好きの母は外国の俳優や女優の名前を言い返してきた。そこから母と子の不毛な記憶力勝負が展開され、これをきっかけにして古舘は少しずつしゃべることの楽しさに目覚めていった。

中学生の頃、古舘が憧れていたのが徳光和夫である。アナウンサーがほかのタレントと並んでバラエティ番組に出るということがほとんどなかった時代に、徳光は日本テレビのアナウンサーとして『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に出演。

悪役プロレスラーのザ・デストロイヤーに4の字固めをかけられながら、真面目な口調でその様子を実況してみせる姿が話題になっていた。バカバカしいことをあえて真剣に語ってみせると、その落差から笑いが生まれる。古舘はこの構造をいち早く理解して、のちにそれを自らの芸にも取り入れていった。

古舘にとって、もう1人の師匠と言えるのがみのもんたである。徳光とみのに共通するのは、ユーモアのある話術を得意とするアナウンサーであるということ。そして、どちらも立教大学出身だったということだ。古舘は彼らに憧れて立教大学に進学した。

1977年、古舘はテレビ朝日に入社。熱のこもったプロレス実況で話題となり、古舘は瞬く間に局の看板アナウンサーになった。「燃える闘魂・アントニオ猪木」などと、独自のキャッチコピーを付けてプロレスラーのキャラクターを際立たせていく手法は、他の追随を許さないものだった。

1984年にテレビ朝日を退社してフリーになった古舘は、ますます活躍の幅を広げていくことになる。そのきっかけになったのは1985年から『夜のヒットスタジオ』の司会に抜擢されたことだった。

独自のプロレス実況芸で人気を博していた古舘は、当時はまだ一種のキワモノというイメージが強かった。そんな彼が、伝統ある音楽番組の司会を任されたのだ。古舘はこの大役を見事にこなし、その後のバラエティ進出の礎を築いた。

『夜のヒットスタジオ』での成功が認められた結果、『FNS歌謡祭』『MJ』などフジテレビの音楽番組のMCを任されるようになった。そして、1994年から1996年にはついに民放アナウンサー出身者として始めて『NHK紅白歌合戦』の白組司会を務めた。

中でも、上沼恵美子が紅組司会を担当していた1994年と1995年は「東西を代表するおしゃべり司会者の共演」ということで大いに話題になった。

バラエティ番組、音楽番組、スポーツ番組など、あらゆるジャンルの番組で司会をこなし、持ち前の才能を発揮してきた古舘が、1つだけ手を出していない分野があった。それが「報道番組」だった。実は、古舘は民放アナウンサーでありながら、スポーツ実況の担当をしていた時期が長く、報道番組に真正面から取り組んだ経験がほとんどなかった。

そんな古舘のもとに『ニュースステーション』の後継番組『報道ステーション』の出演依頼が来た。引き受けるべきかどうか古舘は迷った。月曜から金曜までの帯番組である『報道ステーション』をやり始めたら、今あるほかのバラエティ系の仕事をやっている余裕はなくなる。

ただ、古舘の中には「成長したいなら得意技を捨てろ」という持論があった。得意なことばかりやっていたのでは成長ができない。自分にとって報道は大の苦手分野であることは百も承知の上で、あえて彼はこのオファーを受けた。

そして、2004年に『報道ステーション』が始まった。それまでの古舘は、自由奔放に即興で印象的なフレーズを並べ立てる実況芸を売りにしていたのだが、この番組ではその一切が封じられてしまった。予定された台本の通りにニュース原稿を読み上げるのが精一杯で、アドリブで好き勝手に意見を差し挟むことも許されない。たまに自分の考えを出してみせると、「お前の意見が聞きたいわけじゃない」という視聴者からの批判の声が殺到した。それでも、古舘は「成長」のためにこの場に踏みとどまり、2016年3月までの12年間、司会をまっとうした。

その後の古舘は、『人志松本のすべらない話』『しゃべくり007』など、今まで出ていなかったようなバラエティ番組にもゲストとして出演。今をときめく芸人たちを相手に他流試合を挑んでいった。

そして、2016年11月には『フルタチさん』がスタートした。日本テレビのバラエティ番組やNHKの大河ドラマなど裏番組が強い日曜夜の枠で、真っ向から勝負をすることになった。ここでは自らが日常で疑問に思ったことなどを自由に発信していった。

アントニオ猪木をはじめとする歴代の名プロレスラーたちから古舘が学んだのは、自らの体を張って未知の領域に一歩を踏み出すあくなき探求心だった。古舘というタレントの本当の強みは、しゃべりのテクニックではなく、還暦を過ぎた今も新しいことに挑戦し続ける貪欲さなのだ。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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