インドネシアで一番有名な日本人に聞く、「世界で戦う人材育成」【小尾 吉弘×倉重公太朗】第1回

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今回のゲストは、ブカシ・ファジャール・インダストリアル・エステート(BeFa)社長の小尾吉弘さんです。小尾さんは、大阪外国語大学卒業後、総合商社「丸紅」に入社。以来30年にわたり、海外不動産案件に従事しました。83年より同社のジャカルタ支店に駐在し、89年には、MM2100工業団地開発の立ち上げから携わります。丸紅退職以後も、MM2100開発・運営会社社長として、企業誘致、労使関係の改善に取り組んでいる小尾さん。なぜ、日本人がインドネシアで街を作ることになったのか、その経緯について伺いました。

<ポイント>

・なぜ海外に興味を持つようになったのか?

・丸紅の教育方針により、入社2年目でジャカルタに駐在

・労働組合の委員になって知った「会社の人事に公正はない」ということ

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■インドネシアで一番有名な日本人

倉重:きょうの対談はインドネシアで一番有名な日本人と言われています、小尾 吉弘さんにお越しいただいています。なぜ有名なのかという点も含めてだんだん明らかになっていくとは思いますが、まず簡単に自己紹介をお願いします。

小尾:今インドネシアでMM2100工業団地の開発管理をしている、ブカシ・ファジャール・インダストリアル・エステート(BeFa)という会社の社長をしております、小尾と申します。

倉重:「MM2100」というのは、工業用地を企業に販売している会社ですが、単に土地を取得して売るだけではなくて、水道、電力、ガスなどのインフラからすべて作られているのですよね。

小尾:そうです。自社で作っているのは給水と排水処理だけですが、発電する会社を誘致してきて、発電所を作ってもらいました。また、通信会社を引っ張ってきて光ケーブルによる通信網も整えています。工業団地ですので、工業団地の中で操業されるメーカー、製造業に必要なインフラはすべて整えています。

倉重:日本のようにインフラが自動的に整っているわけでもないので、ゼロから町を作っていくという感じですね。

小尾:インドネシアの行政は日本のようなレベルまでインフラは整えられないので、民間のわれわれが出てきて、ファシリティを全部整え、企業を誘致しています。われわれの究極の目的は雇用を生み出すことで、大きな意味があると思っています。

倉重:工業団地だけではなくて病院やホテル、タワーマンション、オフィスビルも造られて、「リアル・シムシティ」をされている状態です。モスクも造られていますよね。

小尾:はい。モスクもインドネシアでは必要な社会的施設ですので造らなければいけません。

倉重:小尾さん自身もイスラム教に改宗されたのですね。

小尾:そうです。工業団地自体は90年から始まったのですが、わたしが社長になった2003年まで13年間、誰もモスクを造っていませんでした。そのモスクを造るときに何を間違えたかイスラムの世界に飛び込んだのです。

倉重:間違えたわけではないと思いますが、なかなか本気で改宗までする人はいないでしょうね。

小尾:いろいろなご縁がありまして、自分でもいいかと思ってイスラムの世界に飛び込んだというのが正直なところです。

倉重:小尾さんが作った職業専門高校も敷地内にもあって、非常にハイクオリティな教育をされています。そこの卒業生の就職率もいいのですね。

小尾:学校も必要なファシリティの1つです。なかなか地元の人が団地内で働けないような環境が長く続いていたので、「ぜひとも工業団地や日系企業、工場で働けるようにしてあげたい」ということはずっと考えていました。一緒に事業を手掛けてくれる仲間と巡り合えて9年目を迎えています。

倉重:たくさんの卒業生が地元で就職しているということですね。会社に留まらず、本当に1つの町・社会を作っているので、インドネシアで一番有名な日本人だというのもうなずけます。どのようにして今日の小尾さんが出来上がったのかをお聞きしたいと思っています。まず、ご出身は奈良ですか?

小尾:はい。実家は奈良公園の近くで旅館を営んでいました。

倉重:The 日本という感じの環境で育って、どのように外国に興味を持たれたのでしょうか?

小尾:中学校から英語を勉強し始めまして、旅館に来られた外国人のお客さんと会話するようになったのです。それがきっかけで、英語や外国に興味を持ちました。中学からずっと英語が好きで勉強していて、「外国の方と交流をしたい」と思っていたのです。高校生のときに交換留学の機会を得たので、1年間アメリカに行って違う世界を見てきました。

倉重:身近に外国の方がいらしたので外国に興味を持ったということですね。大学は外大に行かれたのですか?

小尾:はい。引き続き外国についてもっと勉強していきたいと思いまして外大に行き、スペイン語を勉強しました。

倉重:スペイン語は今使っていますか。

小尾:全然使っていません(笑)。

倉重:何となく「海外のことをしたい」という感じで大学に進学されたということですか。

小尾:「海外で何かの仕事をしたい」というのは中学以降の自分の夢でした。一番手っ取り早かったのが総合商社だったので、卒業後は丸紅に就職しました。

倉重:最近まで丸紅の社員だったのですよね。

小尾:2012年の末に辞めましたのでもう辞めて8年過ぎました。

■インドネシアで街を築くことになったきっかけ

倉重:では、どうしてインドネシアで町を築くことになったのでしょうか? 丸紅に入ったからといって今のような仕事が最初からできていたわけではありませんよね。

小尾:丸紅もご存じのとおりいろいろな部署があります。たまたまわたしは、海外に橋や学校、病院、オフィスビル、商業施設等を造る「海外開発建設部」という部署に配属されたのです。そこが1つのターニングポイントで、今の自分が始まりました。

倉重:海外で箱物を建てるという経験はわりと若いうちからされていたのですね。

小尾:会社に入ってそれしかしていません。商社に入ったのに貿易実務をしたことがないのです。インフラ整備や、商業施設の建設、不動産開発などを30年間していました。

倉重:インドネシアにも入社してすぐにご縁があったのですか?

小尾:入社してすぐに担当したのがインドネシアのプロジェクトでした。本当に丸紅は良い会社で、若いうちから先輩の下について、OJTのような形で鍛えてくれるのです。すぐにインドネシアの案件を担当し、入社2年目でジャカルタに行きました。

倉重:早いですね。

小尾:はい。普通の会社員は、海外出張をしてから駐在すると思うのですが、わたしの場合は入社2年目からいきなり駐在でした。

倉重:そういう希望を出していたのですか。

小尾:出していません。

倉重:たまたまなのですね。

小尾:丸紅という会社の良いところだと思いますが、若手の教育方針がそれぞれの部署に任されていました。わたしが入った部署は、海外で不動産の仕事をするところですから、現地にいないと分からないことが多いのです。

倉重:そうですよね、勉強してもダメですよね。

小尾:今でこそインターネットで情報にアクセスできるようになりましたが、当時は現地に行かないと分からない情報が多かったので、「海外で勉強してこい」という教育方針だったのです。

倉重:とりあえず現場に放り込むという教育方針だったのですね。

小尾:そんな感じでした。わたしも振り返ってみて、非常に感謝しているところです。

倉重:いきなり現地ですと、無理にでも成長しないと死んでしまいますから、めちゃくちゃ頑張りますよね。2年目以降はジャカルタにいたのですか?

小尾:はい。1989年まで6年間ずっとジャカルタにて、いろいろなオフィスビルや商業施設を建てる仕事を、先輩についてさせてもらいました。

倉重:その後はどういう転機を経ていったのですか。

小尾:1989年に一度日本へ帰れという命令が出て、本社に帰りました。海外開発建設という部署に戻った後も、引き続きインドネシアを担当していたのです。

倉重:やはりご縁があるのですね。

小尾:そういうときに「インドネシアに工業団地を造ろう」という話が出てきて、わたしが担当になりました。インドネシアに通ってあちこち回り、土地の選定から規模感、誰とパートナーを組むのかを決めたのです。まだ入社8年目ぐらいだと思いますが、インドネシアについては知識があったので、いろいろ走り回って、今のMM2100を作るに至ったという感じです。

倉重:最初に工場団地のために土地を取得したり、インフラを作ったりするときは相当な苦労があったのではないですか。

小尾:最初は何も分からないままでした。丸紅としてはインドネシアの前に、タイで1987~88年にかけて工業団地を造っていたのです。そういう経験をされている先輩のところに話を聞きに行ったり、いろいろなコンサルの人に教えてもらったりしながら、自分なりにスキームを作りました。

倉重:順調に立ち上がったのですか?

小尾:実はそうでもありませんでした。89~90年はまだ日本もバブル崩壊前だったので、作り始めたころは、日本で営業をしていても「1億ぐらいなら買っておくか」という人が結構多くいました。

倉重:景気のいい話ですね。

小尾:ところが、工業団地が出来上がった91~92年に営業に行くと、誰も話を聞いてくれなくなりました。

倉重:出来上がったころにちょうどバブル崩壊で全然売れなくなるわけですね。

小尾:そうです。最初は良かったのですが、93~94年ぐらいからなかなか売れなくなりましたのでそこは苦労しました。

倉重:営業面で苦労しますよね。その後はどのような感じですか。

小尾:歴史的に言いますと96~97年というのは、日本が超円高になったころで、1ドルが90円ぐらいになっていました。製造業が日本から東南アジアに移転する、第2か第3の大きな波があったときです。インドネシアにもどんどん進出していただいたので、工業団地が完売しました。97年ぐらいには第3期のプロジェクトが立ち上がったのですが、わたし自身はそのころは違う道を歩んでいたのです。

倉重:何をされていたのですか?

小尾:93年から丸紅の従業員組合の専従委員になりました。

倉重:労働組合ですね。

小尾:はい。労働組合の専従で副委員長を1年、委員長を1年しました。

倉重:工業団地の経営から労働組合とは、全然やっていることが違うのですね。それはそれで面白さを感じていたのでしょうか?

小尾:人に頼まれると断れない性格なので。入社して10年目ぐらいというのは仕事も面白いですし、なかなか専従委員をする人がいなかったのです。同期の委員に「お前しかいない」と言われ、その誘いに乗ってしまいました。

倉重:なるほど。

小尾:そのときの部長がとてもいい人で、わたしをメンターとして導いてくれた先輩で、今も本当にお世話になっています。その方に「長い会社人生で1年や2年は違うことをしてこい」と背中を押していただきました。丸紅の従業員組合は、もちろん賃金や福利厚生の交渉も会社とするのですが、どちらかと言いますと「一緒になって会社をよくしましょう」という傾向が強く、経営陣といろいろな話をしました。

経営者サイドも、われわれ組合の話を聞いてくれるという文化が培われていたころで、「これは面白い」と感じました。丸紅はさまざまな仕事をしています。それまで、海外不動産という小さな単位でしか仕事をしていなかったのですが、組合の役員になることで、ほかの事業部のしている仕事や、世の中の動きを見ることができたのは非常に良い経験になりました。

倉重:インドネシアの工業団地でも労使の紛争もありますからね。

小尾:そうですね。ですからその組合の委員長をした経験はその後にとても役立ちました。

倉重:その後はどのような感じですか。

小尾:2年組合役員をしている間に学んだのが「会社の人事に公平はないのだ」ということです。人間がしているので「これが本当に公平だ」というのはなかなか見つけられません。労使がお互いに話をして、納得性を追求していくのが大事だと組合時代に勉強しました。

倉重:それは真髄ですね。今でも通用する話です。

小尾:それをもって工業団地の運営をしています。

(つづく)

対談協力:小尾 吉弘(こび よしひろ)

1959年、奈良生まれ。大阪外国語大学イスパニア語科卒。

82年総合商社“丸紅”に入社。30年にわたり、海外不動産開発案件に従事。

83年よりジャカルタに駐在。ジャカルタ中心地でのオフィスビル・商業施設の開発を担当。

89年には、“MM2100工業団地”開発の立ち上げから携わる。

93年より2年間、専従として従業員組合副委員長1年・委員長1年務める。

96年より、フィリピンにて “リマ工業団地”開発を新規に立ち上げ、リマ工業団地開発・運営会社の副社長としてフィリピンに駐在。

2003年インドネシアに移り、MM2100開発・運営会社社長を務める。2012年総合商社退職。

現在も引き続きMM2100開発・運営会社社長として企業誘致、投資環境や労使関係の改善に取り組む一方、病院、高層住宅、商業施設を誘致し、MM2100を工業団地から、複合都市に変貌させた。

2012年、工業団地内に職業専門高校を設立。即戦力となる人材育成にも注力。インドネシアの若者への教育に情熱を傾ける。

2006年イスラム教に入信。MM2100でのモスク建設に関わる。2019年メッカに巡礼(ハッジ)。