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1999年2月のゼロ金利政策の背景、黒田前日銀総裁との認識の違い

久保田博幸金融アナリスト
(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

 今月の日本経済新聞の「私の履歴書」は前日本銀行総裁の黒田東彦氏が書いている。19日の「私の履歴書(18)デフレの始まり」のなかで次のような指摘があった。

 「1998年3月、速水優日銀総裁が就任した。速水氏はゼロ金利政策を導入し、不況と金融危機に対処した。だがデフレの状況が続いているにもかかわらず、日銀は2000年8月にゼロ金利政策を解除した。私はこの決定は間違っていると思った。」

 ここでいうところのゼロ金利政策とは1999年2月に導入されたものである。1998年5月にロシア危機が発生していた。ロシアの金融危機がユーロに影響を与え、またメキシコが大幅な金融引き締めをせざるを得なくなったように中南米へと影響が広がり、資金の貸し手となっていた欧米などの債権者は大きな損失を蒙った。これにより先進国で唯一景気がしっかりしていた米国にも影響が及んだ。

 ただし、このロシア危機による影響は金融危機と呼ばれるほどのそれほど直接的な影響は日本ではなかったはずである。ちなみに山一証券の自主廃業は1997年であった。経済情勢はたしかに良くはなかった。このため1998年9月に日本の長期金利が初の1%割れとなっていたこともたしかである。

 ただし、それらが1999年2月のゼロ金利政策の背景にあったのかといえば、それは違う。これは当時を知る債券市場関係者以外ではピンとこないかもしれない。日銀がゼロ金利政策を決定せざるを得なかった要因は、1998年末に起きた日本国債の暴落、いわゆる資金運用部ショックにあった。それを当時、財務省の国際金融局長の黒田氏が知らなかったとは思えないのである。

 つまりゼロ金利政策の導入の経緯を知っていれば、資金運用部ショックによる長期金利の上昇が収まれば、その解除に向かう動きは当然であった。当時とすればゼロ金利政策そのものが異次元緩和のようなものであったためである。いまはそれどころの緩和策ではないが。

 2000年8月のゼロ金利政策の解除は、結果として時期尚早であったとの見方は、あとからみればそのように思われても不思議ではなかった。米国でいわゆるITバブルの崩壊が起きたためである。しかしそれをゼロ金利政策解除当時に見越していたことは考えづらい。

金融アナリスト

フリーの金融アナリスト。1996年に債券市場のホームページの草分けとなった「債券ディーリングルーム」を開設。幸田真音さんのベストセラー小説『日本国債』の登場人物のモデルともなった。日本国債や日銀の金融政策の動向分析などが専門。主な著書として「日本国債先物入門」パンローリング 、「債券の基本とカラクリがよーくわかる本」秀和システム、「債券と国債のしくみがわかる本」技術評論社など多数。

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