渋沢栄一と銀行券誕生との関係
明治政府が目指したのは、西洋諸国に対抗するため、産業や資本主義の育成を行い国家の近代化を進めることであった。この積極的な殖産興業政策を行うため、日本が独立国家として世界から認知されるためにも、統一した貨幣制度は必要不可欠なものとなった。
明治政府は1868年に純正画一な貨幣を製造することを決定し、1869年の大隈重信の建議により、新貨幣は十進法によるものとし、その価名を「円」とすることを決定。大隈重信はその建議の中で、「第一に外国貨幣が円形で携帯に便利であり、この際旧来の方形を円形に改むべきである、第二に両分朱は四進法のため計算上非常に不便であるから、各国にならって十進法とすべきである」とした。
1871年には、最初の貨幣法である新貨幣条例が公布され、日本の貨幣の単位として円が正式に採用された。これによって、近代的な貨幣制度の枠組みが整った。しかし、新貨幣の鋳造は進まず、明治政府は緊急の必要に応じるため「太政官札」「民部省札」などの、いわゆる不換紙幣を発行していた。金銀貨による幣制の統一を目指していたものの、貨幣素材の不足や造幣能力の不十分さもあって、金銀貨の鋳造はなかなか進まなかった。その結果、金銀貨に代わる支払手段として不換紙幣の発行に依存せざるを得なかった。
銀行の設立も明治政府にとっては大きな課題となる。民間からも銀行設立の願いなどが相次いだ。しかし、政府内ではこの銀行設立を巡って、米国のナショナルバンク制度をモデルにした地方分散型の発券銀行制度を主張した伊藤博文と、イングランド銀行をモデルにした中央銀行制度を主張した吉田清成の間で銀行論争が起こっていた。伊藤案を起案した人の中に、のちに銀行界の中心的な人物となる渋沢栄一がいた。
結果的には伊藤案が採用されたことで、国立銀行条例が発布される。国立銀行といってもナショナルバンクを日本語に直したものであり、これは国営ではない。あくまで国立銀行条例に基づき設立された民間の銀行であったが、発券機能を有していた。当初は銀行券の発行条件が厳しかったことなどから、設立されたのは第一国立銀行など4行だけとなった。
その第一国立銀行の設立に関して「三井組」と「小野組」というふたつの組織を合併させた中心人物が渋沢栄一であり、渋沢は大蔵省をやめて第一国立銀行の初代頭取に就任した。第一国立銀行は日本最古の銀行であり、日本最初の株式会社でもあった。
その後、条例の改正などにより、全国的に銀行設立ブームが起こり153行もの国立銀行が誕生する。これら国立銀行の多くはその後、普通銀行に転換した。現在の第四銀行や七十七銀行などの名称は、この国立銀行時代の名前が残ったものである。第一国立銀行はのちに勧業銀行と合併し、その後、富士銀行、日本興業銀行とともにみずほ銀行として統合された。
国立銀行が発行した紙幣は、1883年の国立銀行条例の改正により兌換銀行券である日本銀行券に置きかえられることになる。1899年には政府紙幣とともに通用停止となり、日本における流通紙幣は日銀券に統一された。