Yahoo!ニュース

古巣チェルシー戦も、アザールは出番なし。レアル・マドリード伝説の背番号7に久保建英は?

小宮良之スポーツライター・小説家
(写真:なかしまだいすけ/アフロ)

チェルシー戦は出番なし

 4月12日、欧州チャンピオンズリーグ(CL)、レアル・マドリードはベスト4進出をかけ、チェルシーとのファーストレグを戦い、2-0と先勝したが、古巣を相手にしたエデン・アザールに与えられた時間は0分だった。

 ベルギー代表FWが輝かしいプレーを見せることは、もう望めないかもしれない。かつての神がかった一瞬のスピードは失われた。ケガもあって腰回りに肉がつき、シュートの踏ん張りもきかなくなった。ジネディーヌ・ジダン、カルロ・アンチェロッティ監督から様々なポジションを与えられたが、どれも生かし切ることはできなかった。

 2019-20シーズン、マドリードはチェルシーから移籍金1億2000万ユーロ(約144億円)を叩いてアザールを獲得し、背番号7を与えている。本人はそれまでと同じ背番号10を希望したと言われているが、7番はこの上ない栄誉だった。ファニート、エミリオ・ブトラゲーニョ、ラウル・ゴンサレス、そしてクリスティアーノ・ロナウドと、錚々たる面子がつけてきたエースナンバーだ。

 しかし、アザールはクラブ史上、最もふさわしくないナンバー7の一人と言われるだろう。

 マドリードの7番にふさわしい選手とは?

背番号7の始まり

 背番号7の栄光の始まりは、1950年代に活躍したレイモン・コパと言える。コパはポーランド系フランス人アタッカーで、「ナポレオン」と異名を取った。アルフレッド・ディ・ステファノと共に、欧州5連覇(現行のチャンピオンズリーグを1955-56から1959-60まで制覇)した伝説の初期を担っている。

 その後、長く7番を背負い、エースナンバーとして定着させたスペイン人が、「魔術師」アマンシオ・アマーロだ。

 アマンシオは1960-70年代のサンティアゴ・ベルナベウを享楽の境地に誘っている。アルフレッド"ドン"ディ・ステファノがベテランの域に入った時、若手として台頭。栄光の時代を分かち合い、後を引き継いだ。

 右サイドでの幻惑的ドリブルがトレードマークだった。ルイス・フィーゴを引き合いに出せば、分かりやすいか。相手を化かすようで、トリッキーなドリブルが得意で、右サイドを蹂躙した。

 当時2部だったデポルティーボ・ラ・コルーニャでプロ人生をスタートさせ、2部得点王となってチームを1部へ導く。非凡さが伝わり、FCバルセロナからもオファーが届いた。しかし1962年、22歳のアマンシオはマドリード移籍を決断している。

「ベルナベウはコロシアム(グラディエーターが戦った古代ローマ時代の円形闘技場)のようだった」

 2005年のインタビュー取材で、アマンシオはそう回想している。彼の握手はとても力強かった。

「マドリードでは、勝利は至上命令。加えて、観衆を楽しませなければならない。コロシアムで戦うのは、強烈なプレッシャーだった。だけど、重圧に身をすくめるような選手は白いユニフォームに袖を通せない。私もデビュー戦だけは参った。何せ、それまで所属していたデポルではナイターを経験したことがなかったから(当時は照明設備がなかった)。田舎の小さなスタジアムから10万人の観衆の前でプレーするのは、痺れる緊張感だった」

 アマンシオはテクニックだけの選手ではなかった。ゴールセンスにも恵まれていた。勝負を決められる剛胆さを持ち、1970年代には1部でも2度、得点王になっている。

「1965-66シーズン、欧州チャンピオンズカップ(現行のCL)準決勝、インテルを破った試合は最高だったよ。決勝では2-1(アマンシオは同点ゴールを決めている)とパルチザンを下して王者になったが、あれは栄光の瞬間だった。インテルは当時、名将エレニオ・エレーラが率い、ルイス・スアレスという天才がいてね。欧州最強を誇っていたが、それを打ち負かした。しかも、マドリードは外国人なしだったんだ」

 アマンシオはそう言って、顔に皺を作った。欧州5連覇を達成したディ・ステファノが退団した後で、中心選手としてチームを欧州王者に導いた。その後の32年間、マドリードは欧州の頂点に立てなかった。どれだけのことをやってのけたか、伝わるだろう。

 アマンシオは、マドリードの戦いを天下に示した。リーガでは9度にわたって優勝。王冠が似合う背番号7のルーツだ。

「マドリードでは多くのことを学び、得ることができる。もし、子供がここに入れば、出るときには大人の男になっているだろう。そういう場所だ」

 彼は優しい声で語った。

「マドリディスモを胸に戦うことで、自分以上になれる。このクラブに入団する選手は優れた能力を持つが、クラブの持つ歴史や栄光は、どんな選手の力をも凌駕し、別次元のものと言える。選手はその歴史に触発され、『マドリードに生かされている』と感じた時、力を得るんだ」

 アマンシオは現役引退後、指導者としてマドリディスモを選手たちに伝えている。

 1983-84シーズンには、カスティージャ(マドリードのセカンドチーム)を率い、2部リーグで優勝するという離れ業をやってのけた。その決定戦となった試合には、10万人の観衆が足を運んだという。チームの主力だったエミリオ・ブトラゲーニョがナンバー7を背負い、ミチェル、マヌエル・サンチスらと、80年代にマドリードでリーガ5連覇の栄光を作った。

エムバペは背番号7を断った

 コパ、アマンシオ、ファニート、ブトラゲーニョ、ラウル、C・ロナウドは背番号7を背負って、栄光をもたらしてきた。

 その点、アザールの体たらくは見ていられない。

 次の背番号7にふさわしい選手は誰か?

 本来は、フランス代表キリアン・エムバペになるはずだった。圧倒的な馬力、シュートの迫力、スキルの高さ、そしてエースとして試合を引っ張る胆力。すべてを兼ね備えていた。

 交渉は最終段階まで進み、あとは本人がサインするだけだったが、急転直下、パリ・サンジェルマン残留を発表した。「年俸の大幅アップ」「クラブのエースとしてタイトルを取れるチームに、という約束があった」「マドリードではトップにベンゼマ、左サイドにヴィニシウスがいて、右サイドや控えに回されるのを嫌った」など、理由はいくつも囁かれるが、真相は分からない。

 一つ言えるのは、エムバペがマドリードのナンバー7を背負うことを断った事実だ。

 エムバペ以外では、なかなか見つからない。

 新時代のエースは、やはり20代前半の選手であるべきだろう。エムバペの他に、アーリング・ハーランド獲得にも失敗。レンタル組では、ACミランでチャンピオンズリーグベスト8進出の立役者になったスペイン代表ブライム・ディアスが力をつけつつあるが…。

 レアル・ソシエダに完全移籍した形だが、久保建英は7番候補にどうか?

久保の可能性

 半年前までだったら、やや荒唐無稽な話だった。しかし、今のプレーを続けていれば、”ない話ではない”。レアル・ソシエダでは、主力として堂々と攻撃陣を引っ張っている。守備の強度が高まり、どのポジションでも順応できるタフさも見せ、例えばルカ・モドリッチの後継者として有力だし、ロドリゴやマルコ・アセンシオとは異質の貢献もできる。

 久保はスペイン人のようにスペイン語を使い、コミュニケーション力が高いこともアドバンテージになる。過去にマドリードには、マイケル・オーウェン、デイビッド・ベッカム、ガレス・ベイルなどスーパースターが在籍したが、彼らはスペイン語を習得できずに適応できなかった。単純な語学力や選手付き合いの良さは、スペインで意外にも命運を分ける要素だ。

 久保を買い戻すには、少なく見積もっても5000万ユーロが必要になる(違約金上限は6000万ユーロ。金額が同じ場合、マドリードが優先権を持つ)。つまり、70~80億円だ。これだけの札束を投じた場合、必然的にエース候補として迎えることになる。

 もっとも、久保にとって、少なくとも来季はレアル・ソシエダでプレーするべきだろう。22歳でCLの舞台を経験してからでも遅くはない。ダビド・シルバのような有力選手たちに囲まれ、能動的なプレーができる環境は、なかなか他にないものだ。

 ただ、2年もあれば状況は変化する。2024年6月末、アザールの契約は満了だ。

「白いユニフォームを纏う選手は、何かを求めてはいけない。己のすべてを捧げる。それが本当にできたら、何かを与えられる」

 今年2月、83歳でこの世を去ったアマンシオの訓示である。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

小宮良之の最近の記事