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「スパイは今この場にいる!」北朝鮮国民が凍り付く恐怖の講演会

高英起デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
金正恩氏(朝鮮中央通信)

かつて、韓国のいたるところにはこんな看板が立てられていた。

暗闇の中で震えずに

自首して光明を求めよう

スパイ通報は113

北朝鮮のスパイに自首を促し、住民にはスパイの通報を促すもので、地下鉄の車内でも「スパイを通報しましょう」といった内容の放送が行われていた。また、公民館などでも同様の教育を行う行事が開かれていた。それらは2000年代以降、急速に姿を消していったが、軍事境界線の北側では、今でも反スパイ教育が行われている。

咸鏡北道(ハムギョンブクト)のデイリーNK内部情報筋は、保衛部(秘密警察)が住民政治事業(思想教育)を強化する動きがあるとし、実際の講演会の内容も伝えた。

情報筋は場所を明らかにしていないが、ある企業所では労働者を集めて保衛部からやってきた人が3時間に渡って講演を行った。この3時間というのは異例の長さだそうだ。

この手の講演会では、ありきたりの内容が繰り返されるため、居眠りしたり、ワイロを払って代返を頼んだりする人が人が続出する。しかし、この日ばかりは雰囲気が違ったという。それもそのはず、講演者は客席に向かってこんなことを繰り返し言ったというのだ。

「内部情報を南朝鮮に渡しているスパイどもは今この場にいる!」

「このような反党反革命分子の異常動向が察知されればすぐに通報せよ!」

館内の空気が凍りついたのは言うまでもない。スパイ罪に問われれば公開銃殺などの極刑を免れないからだ。

(参考記事:女性芸能人たちを「失禁」させた金正恩氏の残酷ショー

さらに講演者は、資料を読み上げた上で、具体的な行動指針を書き留めるように指示を下した。

◯スパイはわれわれのそばにいる。

◯それは信じている友達かもしれないし、隣人かもしれない。

◯常に警戒心を持って周囲を見回し疑え。

◯気づいたことが正確でなかったとしても、少しでも異常な動きがあればためらわずにすぐに報告せよ。

講演会に出席した人は、中国や韓国との非合法の通話を自粛している。スパイ罪に問われるような行為をしていないとしても、講演会を聞いた周囲の人々が疑心暗鬼に陥り、少しでも普段を変わった行動をすれば通報しかねないからだ。

情報筋は、実際に何らかのスパイ事件が起きて、保衛部はその洗い出しを行うために、心理的に締め付ける作戦を行っているのではないかと見ている。実際にどのような事件が起きているのか、そもそも事件があったのかは今のところわからないが、各地で様々な事件が起きているのは事実だ。

今年6月1日、両江道(リャンガンド)保衛部は、金正淑(キムジョンスク)郡在住の送金ブローカーのチェ氏とその家族6人を緊急逮捕した。韓国の情報機関、国家情報院と内通し、政治講演会の資料、提綱(レジュメ)、市場、マンション、鉄道などの写真を手渡した容疑だ。家宅捜索の結果、チェ氏の家からは15万元(約224万円)もの現金が発見された。

また7月末には、脱北して中国で暮らしていたチェ氏の20代後半の長女が、連絡係をしていた容疑で摘発され、北朝鮮に強制送還されている。

韓国や中国に住む脱北者が北朝鮮にいる家族に送金する際に手助けをしていたチェ氏。多額の手数料を取り、普段からカネの使い方が派手だったという。保衛部はその動向を注視し、何度も逮捕に乗り出そうとしていたが、そのたびに郡の保衛部の政治部長から「あいつは外部との連絡を取る秘密情報員だ、自分が任務を与えている」と止められたという。

そのことを、上級機関の両江道保衛部情報課に報告したところ、道保衛部が直接、チェ氏一家の逮捕に踏み切った。どうやらチェ氏は政治部長にワイロを送っていたようで、双方とも政治犯収容所送りになるのではと見られている。

秘密警察内部の逮捕者は他にもいる。昨年10月、穏城(オンソン)郡保衛部の幹部が、市場などの画像、動画を撮影し、外部に流出させた容疑で、協力者3人と共に逮捕されている。保衛部はその直後にも、住民を対象とした思想教育を行っている。

当局は、締め付けの強化と重罰化で対処しているが、それでもスパイ事件は後をたたない。背景には、国際社会の制裁による経済難があると言えよう。例えば、対外的には秘密になっている国家機関の電話番号が掲載されているなど、国家機密満載の電話帳を海外に売り払おうとした容疑で平壌市民6人が銃殺される事件があったが、リスクを犯してまでそんなことをしようとしたのは、かなりの高値で売れるからだろう。

デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。

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