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北朝鮮の「愛国者」はこうして金正恩氏に背を向けた

高英起デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
金正恩氏(労働新聞)

悪名高き北朝鮮の治安機関の恐喝まがいの取り締まりが、一人の「愛国者」を「裏切者」に変えた。

北朝鮮は世界でも類を見ない監視国家だ。上からの監視のみならず、住民同士を互いに監視させ、少しでも「異常」な言動が見られれば、すぐに当局に報告される仕組みが築かれている。この監視システムを支えるのが警察にあたる人民保安省(保安省)であり、秘密警察の国家保衛省(保衛省)だ。

とりわけ保衛省は、拷問、処刑などの人権侵害が常態化している強制収容所も運営しており、住民から恐れられている。

(参考記事:北朝鮮、拘禁施設の過酷な実態…「女性収監者は裸で調査」「性暴行」「強制堕胎」も

平安北道(ピョンアンブクト)の定州(チョンジュ)で生まれ育った女性のAさんは、咸鏡北道(ハムギョンブクト)に引っ越して20年間暮らした。そして2015年の夏に脱北し、その翌年に韓国にやって来た。

Aさんは、北朝鮮では比較的恵まれた暮らしをしていた。軍人の家系で、実の兄は金正日政権時代、軍隊に豚肉12トンを提供したことで国から二重英雄の称号を授与された。血筋(出身成分)もいいことから、人民班長(町内会の会長)を20年間務め、結婚した夫も幹部だった。

ところがある日、次女が忽然と姿を消した。脱北して中国に行ったものと思われたが、特に問題になることはなかった。そして今度は、長女一家も姿を消した。このことがきっかけとなり、国に忠誠を尽くしていたAさんの人生が狂い始める。

恐喝ビジネスも

北朝鮮では、一家全員が行方をくらますと、脱北したものとみなされる。身内から脱北者が出ると、連座制で収容所送りになりかねない。韓国のNGO、北朝鮮人権情報センターの調査によると、政治犯収容所には連座制による収容者が約3割に上ると見られるという。

(参考記事:連座制で「この世の地獄」強制収容所送り…暴かれる北朝鮮の人権蹂躙

ある日、保衛局(保衛省の地方組織)と保安局(警察署)の担当者が突然Aさんの家に上がり込んできて家宅捜索を始めた。彼らは、タンスの中はもちろん、布団を破り、壁紙を剥がし、天井やオンドル(床暖房)の中までひっくり返した。

長女一家にスパイ容疑をかけ、なんとかしてその証拠を見つけようとしていたのだった。保衛員らは取り調べで罪状を軽くするのと引き換えに容疑者をしゃぶり尽くす、いわば恐喝ビジネスを収入源にしている。

(参考記事:口に砂利を詰め顔面を串刺し…金正恩「拷問部隊」の恐喝ビジネス

保衛員の横暴に対してAさんは「こんなやつらの下で、ペコペコしながら国のためと思って頑張っていたのか」と怒りを覚え、国に対して疑念を抱くようになった。その疑念は、取締官によるさらなる横暴を目の当たりにしていっそう深まった。

取締官は、家を没収すると言い出したのだ。他人の家に間借りして暮らしていた取締官にとって、マイホームを手に入れる絶好のチャンスだったのだろう。当局も、この取締官にAさん宅に住むことを許す居住許可証を出した。末娘の家族は最後まで抵抗して家に居座り続けた。業を煮やした取締官は、荷物を外に放り出して、斧を手にして「出て行け」と迫った。

Aさんが、コメが1トン近く買える150万北朝鮮ウォン(3600元、当時のレートで5万円〜5万5000円)もの貯金をはたいて購入した家は、保衛員に奪われてしまったのだ。

Aさんの災難はさらに続く。長女一家が姿を消してから、Aさんは20年間務めた人民班長の地位も奪われた。住民に「脱北者が出ないように監視の目を光らせよう」などと伝える立場なのに、家族が脱北したとあっては何を言っても説得力がない。そう悩んでいたところに、上部から解任するとの連絡が来た。それも「娘が脱北したので強制的に解任する」と、理由を公にしての解任だった。

財産も地位も奪われたAさんは、人々から後ろ指を指されるのが怖くて、家に閉じこもるようになった。あれほど忠誠を尽くしたのに、こんな酷い仕打ちをする国で、これ以上暮らしたくないという気持ちが高まった。

国に尽くす気持ちを完全に失ったAさんは、カネ儲けに専念した。家に機械を入れて、食品加工業を始めた。やがて従業員も雇えるほどに店を大きくしたが、保衛局の監視は続いた。

ある日、Aさんは従業員から信じられないような話を告白された。保衛局に命じられて25日もの間、Aさん一家の動向を監視させられていたというのだ。固く誓った国への忠誠が、完全に消え去った瞬間だった。

国への忠誠心をなくしたのはAさんの夫も同じだった。

Aさんが脱北した娘と電話で話したり、送金を受け取ったりしただけで「通報する」と大騒ぎするほど、国への忠誠心が高かった夫だが、その娘のために、幹部の職を解かれてしまったのだ。酒びたりとなり、夫婦仲は悪化。絶望したAさんは、「人民を死なぬように生きぬように苦しめるのが社会主義なのか」と思った。

それでもなお、Aさんは脱北した娘に「戻ってくればいい、そうすれば許してもらえる」と帰国を促していた。

しかし2015年7月の初め、電話で「このチャンスを逃したらもう会えないかもしれない」と言われた。従業員から監視されていたことを知り、国への忠誠心も期待も失っていたAさんは、二つ返事で韓国に行くと答えた。ダメ元で脱北を提案した娘は、母の言葉に驚いたという。

その年の7月、北朝鮮では地方人民議会代議員選挙が行われた。当局は選挙の際、選挙人名簿を元に住民の動向調査を行い、行方不明者がいれば脱北を疑って調査に乗り出す。そんな敏感な時期をやり過ごしたAさんは、選挙が終わった直後に北朝鮮から脱出した。

デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。

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