北朝鮮による日本人拉致が白日の下にさらされたのは、今から12年前の2002年。訪朝した小泉純一郎元首相と故金正日国防委員長の間で行われた首脳会談で北朝鮮側は、「絶対認めないだろう」と思われていた「日本人拉致」を認めた。その後、一部の被害者家族が帰国したが、いまだに全面解決とは言いがたい状況が続いている。

2014年に入ってから日朝交渉は再開され、解決に向けて少しずつ前進しはじめているが、予断は許さない。拉致問題は、なぜ12年もかかって解決の道が見えないのか。そもそも、拉致事件は数十年間も置き去りにされてきた。「発生」から「発覚」に至るまで日本人拉致事件に対する日本社会の関心は極めて低かったのである。

日本社会において「拉致問題」がどう扱われ、どのように変遷してきたのかについて改めて振り返ってみたい。

拉致問題~発生から発覚まで~

金正日の指令によって日本人拉致が頻繁に行われていたのは、1970年代から1980年代だ。事件発生から発覚(2002年)まで30年以上かかっていることになるが、2000年頃まで、拉致疑惑に切り込もうとするマス・メディアやジャーナリストはごく一部だった。また、世間一般では「真偽不明の怪しい事件」、または「都市伝説」のごとく語られていた。

北朝鮮の工作員が、海岸から極秘に侵入し、誰にも悟られずに一般市民を北朝鮮へ拉致。また、その市民になりすましてスパイ網を構築するーー まるで、スパイ映画や小説に出てくるような話は、あまりにもリアリティに欠けていたことから、戦後の平和になれきった日本社会において、にわかに信じがたい話だった。一方、単発的ではあるものの、一部ではかなり早い段階で日本人拉致疑惑は報道されていた。

1985年6月28日付けの朝日新聞(夕刊)は、以下のように伝えている。

『日本人ら致 なりすます 北朝鮮スパイ拘束』

記事の内容を要約すると、韓国国家安全企画部(現:国家情報院)は、後に北朝鮮の大物工作員として知られることになる辛光洙(シン・グァンス)を拘束。辛は、日本人になりすます、いわゆる「背乗り」を目的に、大阪の中華料理店に勤務していた日本人コック原敕晁(ハラタダアキ)さんを北朝鮮に拉致。その後、日本人「原敕晁」として対南工作のため、韓国へも渡航し工作活動に従事したが、発覚して拘束される。辛は、原さんを拉致する過程においては、朝鮮総連に所属する商工人李三俊(リ・サムジュン)と李吉柄(リ・キルビョン)が幇助したことと、日本と韓国で北朝鮮工作員として暗躍していたことを自供していた。

当時の朝日新聞は、名前が挙がった二人の在日朝鮮人にも直撃しているが、いずれも「身に覚えはない」と応えている。後に明らかになるが、朝日新聞が伝えた報道内容は、ほぼ事実どおりだったが、「原敕晁拉致事件」は、それ以上の広がりを見せなかった。

工作員「金賢姫」の衝撃的証言で拉致問題が再浮上

再度、拉致疑惑が浮上するのは、辛光洙が拘束されてから3年後の1988年。前年(1987年)に起きた大韓航空機事件の実行犯として金賢姫(キム・ヒョニ)が拘束され、彼女の口からは流ちょうな日本語で、李恩恵(リ・ウネ=田口八重子さん)という女性から言葉を学んだと語られた。

この衝撃的な証言を受けて、国会でも拉致疑惑が議題にあがる。当時の国家公安委員長だった梶山静六氏は、日本共産党の橋本議員の答弁に応える形で、「国内の行方不明者が北朝鮮に拉致された可能性がある」とはじめて政府の公式見解として明らかになった。

拉致された疑いのある被害者のなかには、地村夫妻や蓮池夫妻(両夫妻とも後に帰国)なども含まれており、この時点で、日本政府と公安当局が拉致問題についてある程度把握していたことがうかがえる。しかし、国会答弁で議題になったにも関わらず、日本社会の反応は鈍かった。

理由としては、北朝鮮という国の情報がほぼ皆無だったことや、拉致の理由が不明だったことがあげられる。

確かに、北朝鮮からわざわざ工作船で日本海近郊まで近づき上陸。そして、日本人を拉致して北朝鮮へ連れて帰るという荒っぽいやり口は、あまりにもリスクが高い。いくら、北朝鮮がラングーン爆破事件や大韓航空機爆破事件というテロ行為を犯したとしても、「そこまではしないだろう」と見られていた。当時、まだ影響力が強かった左翼陣営を中心に、二つのテロ事件すらも「韓国軍事独裁国家がねつ造した謀略劇」とまことしやかに語られていたのである。

重ね重ね惜しまれることだが、この時期に、辛光洙事件や田口八重子さん拉致疑惑が検証されていたら、かなり早い段階で拉致事件の真相は明らかになっていたと思われる。2002年に帰国した拉致被害者の曽我ひとみさんによれば、辛光洙は横田めぐみさん拉致にも関わっていた疑いもあるのだ。

犯罪捜査において最も重要なのは初動捜査といわれる。拉致疑惑に限って言うのなら、事件発生の段階で大幅に出遅れていたわけである。この出遅れが、今なお拉致疑惑の進展において致命的な打撃となっていると筆者は見る。

一歩前進、二歩後退する拉致問題

遅遅として進まなかった拉致問題だが、90年代初頭から徐々に動き始める。在日朝鮮人を主体としたNGO団体「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」は、先の辛光洙事件に関する韓国の判決文を入手。判決文をもとに独自に調査を開始し、限りなく真実に近いことを突き止める。同団体に所属していた筆者も、調査の過程で拉致事件が真実であることを確信するとともに、「なぜ、この問題が放置されていたのか」と衝撃を受けた記憶がある。

さらに、一部のジャーナリストや報道機関も積極的に拉致事件の追求を始め、真相はさらに明らかになっていく。その中でも、とりわけ注目されたのが「横田めぐみさん拉致事件」だった。

1977年に拉致された疑いが極めて高いとされためぐみさんの両親である横田夫妻は、当初「実名で拉致被害を訴えたら北朝鮮にいる被害者に危険が及ぶかもしれない」と、実名公表には躊躇していたが、このままでは解決できないと判断し公表に踏み切る。この判断が功を奏して、めぐみさんのケースは、日本社会全体に衝撃を与え、「北朝鮮による日本人拉致事件」は、ようやく広く知られることとなった。

こうした動きのなかで、1997年には、拉致被害者が主体となって救出運動を行う「家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)」が結成される。また、超党派の議員による「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」(旧拉致議連)も設立され、自由民主党衆議院議員の中山正暉氏が会長となる。ところが、中山氏は同年に訪朝してから、急激に態度を豹変させ、拉致事件否定説をとなえはじめる。政治家が動き始めたことによりようやく拉致問題に進展があると思われたが、またもや停滞を余儀なくされるのである。

急転する拉致事件と切り札「経済制裁」

自体が急転するのは、2002年。北朝鮮工作船の日本海侵犯と銃撃戦の発生や、脱北者の瀋陽大使館が駆け込み事件などを通じて、北朝鮮問題が大きくクローズアップされる。また、前年から水面下で進められていた日朝国交正常化にむけた交渉においても、「拉致問題が明らかにならない限り、正常化は進まない」というスタンスは、よほどのことが無い限り自らの非を認めない北朝鮮政府を動かす。

そして、同年9月15日の日朝首脳会談において、金正日の拉致を認め謝罪するのだ。

その後、被害者の一部家族は帰国したものの、生存の可能性がある拉致被害者に対する調査や、北朝鮮の不誠実な姿勢に対する世論の反発は高まり「拉致解決のためには経済制裁によって北朝鮮に圧力をかけなければならない」と、第一次安倍内閣は、2006年に経済制裁発動に踏み切る。制裁によって北朝鮮側も「拉致は解決済み」と頑なな姿勢を貫くが、2014年に入って日本側が投げたボールを受ける形でやっと日朝交渉にたどり着くことになった。

結果的に制裁が功を奏したと思われがちだが、発動から8年経ったことを考えると必ずしもそうとは言えない。制裁は北朝鮮の姿勢を変える特効薬のように主張され、「経済制裁発動で北朝鮮は、すぐ音を上げて日本側に歩み寄ってくる」と言われていた。

北朝鮮が軟化した背景に、金正日国防委員長の死去や、金正恩第一書記が最高指導者となるなどの国内的な変化、そして、中朝、南北関係をはじめとする国外政治外の政治的環境の変化が大きい。いずれにせよ、自らが置かれた立場に危機感を募らせたことから、日本側への歩み寄りで外交的突破口を図ろうとしていると見られる。

40年以上もたった拉致事件の解決に向けて

拉致事件は「発生」から「解決の入り口」にたどり着くまで、実に40年以上もかかったことになるが、まだ解決はしていない。現在、進められている日朝交渉も必ず紆余曲折があるだろう。

解決に向けて、まずは実行した北朝鮮側がどれだけ日本人拉致の真相を明らかにするのかにかかっている。逆に言えば、日本側がどれだけ北朝鮮側から真相を引き出せるか。真相究明できず、中途半端な幕引きでは、日本の世論も納得しない。

拉致問題は、実行した北朝鮮に最も責任があることは言うまでもない。一方、ある程度、事件の概要を把握しながらもその時々の政治的判断により事実を明らかに出来ず、また明らかになってからも十分な対北外交が出来なかった、もしくは積極的に取り組んだにも関わらず結果を出せなかった歴代政権にも反省すべき点はなかったのか。

同じ轍を踏まないためにも、今一度振り返る必要がある。