第二次大戦中、母オードリーはレジスタンスの闘士だった。ルカ・ドッティ インタビュー

ローマの自宅で母オードリーの想い出を語るルカ・ドッティ(撮影/田形千紘)

 人には人生を決定づける出来事、体験がある。しかし、寡黙な人は真実を語りたがらないものだ。オードリー・ヘプバーンもそうだった。オランダ貴族直系の家系に生まれ、彗星の如くハリウッドにデビューし、妖精スターとしての道を極める一方で、いつも家庭の幸せを模索していた人。そして、晩年を悲願でもあったユニセフ親善大使として慈善活動に捧げた人。それらは、あまりにも語り尽くされて来たライフストーリーだ。だが、オードリーの人生に最も強い影響を与えたのは、実はオランダでの戦争体験だったことが、次男、ルカ・ドッティによって明かされた。以下は、今年5月、かつて母オードリーと共に暮らしたローマの自宅に住まうドッティを訪ねた際の貴重なインタビューである。

ーーあなたの著書"オードリー at Home"に記されているレシピ集の中でも、特にお母さまのスパゲティ・アル・ポモドーロの部分が印象的ですね。

ドッティ 母が色んな国に旅していると、各国の一流のイタリアンシェフがやって来て、手の込んだイタリア料理を作ると言ってくるらしいんです。でも、母のオーダーはいつも決まってスパゲティ・アル・ポモドーロでした。ユニセフの仕事で貧しい国に旅行する時には、スーツケースの中にスパゲティとオリーブオイルとバルメジャーノ・レジャーノを詰めていましたよ。トマトの缶詰はだいたいどこの国でも手に入りますからね。そうして、現地で食べる物がない時は、母は自分でスパゲティを作って食べていたんです。一度、家族でジャマイカに旅行した時にも、スーツケースの半分は食料品だったんです。僕たち兄弟(義兄のショーン・ヘプバーン・ファーラー)がお腹を空かさないように。それは、第二次大戦中の食糧不足を経験している母らしい考えです。とにかく、食べ物さえあれば安心する。そんな母でした。

ーーお母さまはご自分の戦争体験について、あなたにどう話されたのですか。

ドッティ 母はとても語り上手でした。子供にとって難しい話題でも、残酷な部分は避けて、とても分かり易く話してくれましたよ。そう、母の思い出話は、いつも戦争の話でした。食料が著しく不足していたことや、学校に通うのが困難だったこと等です。でも、母は常にみんなで団結して、微笑みを絶やさず、前に進んでいくという徹底したポジティブ思考の人でした。戦争で経験したことを糧にして、泣いてばかりいないで、前を向く。そんな哲学の持ち主だったのです。

ローマの自宅に今も残るオードリーがオランダ時代から使っていた椅子(撮影/田形千紘)
ローマの自宅に今も残るオードリーがオランダ時代から使っていた椅子(撮影/田形千紘)

ーーオードリーにとって最も大切なのは、いつも家庭だったと言われます。息子としてそのことを強く実感されましたか。

ドッティ 母には人生の中で常に優先順位あったんです。子供を産んだら家庭に入って子育てをする。その間、何度か映画にも出演しましたが、子育てが最優先事項だったんです。だから、家ではいつも母は母でしたよ。だって、子供の頃は母が大女優なんて知らなかったんですから。友達から「君のママはオードリー・ヘプバーンだよね?」って聞かれた時、「いや、 ドッティ夫人(当時の夫はローマの精神科医、アンドレア・ドッティ)だよ」って、普通に答えていましたから。夏休みを利用して「ロビンとマリアン」(76)のロケを見学に行った時も、セットでの母はいつもの母でした。何も演じていないし、声のトーンも同じで。母は学校で先生の面談にも来てくれたし、お稽古事にも付いてきてくれました。あの頃は本当に幸せでしたね。

ーーそんなお母さまが晩年、ユニセフの親善大使として世界中を旅するようになった時、どう思われましたか。

ドッティ 当初はメキシコ、コロンビア、バングラデシュと、向かった先は危険な場所ではなかったのですが、後半訪れたソマリアやスーダンは紛争状態にありました。その頃から母に疲れが見え始めたんです。目の前で子供が亡くなるのを見たりしていましたから。そのことが母の心を次第に傷つけるようになったのです。ソマリアから戻った時、いつもポジティブは母の口から意外な言葉が出ました。「私は地獄を見た」と言ったのです。

ーーお母さまの活動を止めようとなさらなかったのですか。

ドッティ 兄と2人で何度も止めるように言いましたよ。でも、止めなかった。母のプロ意識がそうさせたのだと思います。辛かったと思います。母自身が、戦時中、目の前で子供たちが亡くなっていくのを見ているわけですから。

ーーそこが、オードリーの強さでもあるんでしょうね。彼女の中に"サバイバルギルト"のようなものはなかったのでしょうか。

ドッティ 生き残ったことの幸福感と罪悪感、その両方があったと思います。そのバランスがとても難しかったのではないでしょうか。実は、今年の4月15日にアメリカで発売になった話題の評伝"Dutch Girl AUDREY HEPBURN and World War II"には、過去の評伝では詳しく書かれてこなかった大戦中の母のレジスタンス活動について事細かく記されています。僕は前文を寄稿しているのですが、よく、母の秘密を聞かせてくれと言われますが、まさにこれが秘密の部分だと思います。10代の前半を第二次大戦下のオランダのアーネムで過ごし、平和な町が一転してナチスと連合軍が対決する激戦地に変貌する中、いかに母が対ナチスのレジスタンス活動に貢献したかが、とても詳細に綴られていますから。アーネムは北ヨーロッパで最もレジスタンス活動が盛んだった場所なんですよ。僕は、その体験がオードリー・ヘプバーンという人間の根幹を作ったのだと考えているのです。

ーーバレリーナだったオードリーが戦火の下、トゥシューズに密書を隠して味方に届けたというのは、よく知られていますが。

ドッティ それには2つ間違いがあります。まず、母は普通の格好をして、ブーツを履いて、レジスタンスの資金を集めるために密書を左右に運んでいたんです。普通のオランダ人の少女(ダッチガール)になりすましてね。そうして、母はコンサートでバレエを踊って、そこで集めたお金がレジスタンスの資金に回されていたんです。当然、秘密のコンサートですから窓は閉じられていて、観衆は拍手1つしてはいけなかった。だから、母はいつも言っていましたよ。「私の観客はみんな静かだった」と。

ーーご家族として、そのような衝撃的な事実が記された評伝の発売を、よく許可されましたね。

ドッティ 本の中に書かれていることは、実は秘密ではなく、母がよく私に語っていたことですから。そして、今こそ、母の体験を若者たちに知らせたいのです。この地上に戦争ほど酷いものはないということを。戦争が1人の人間の性格を形成したということを。戦争は人間の最も愚かな行為です。それを語るには、戦争を経験した人間を介することが最も効果的なのではないでしょうか。今は個人主義が罷り通っています。でも、私たちは同じ地球、同じ大地に暮らしているのです。だからこそ、平和の大切さを分かって欲しい。母は最後にこんな言葉を私たち家族に遺しました。「大人が戦争をする時に一番苦しむのは子供たちだ」と。母はまさしく、戦争を体験した平和の天使だったのです。

「ローマの休日」の永遠の微笑み
「ローマの休日」の永遠の微笑み

 米作家、ロバート・マッツェン著の"Dutch Girl"は、ほぼ全編が戦争ドラマのような構成だ。その中には、ナチスに傾倒していたオードリーの両親に纏わる衝撃の事実や、それを娘のオードリーがどう受け止めていたか、そして、オードリーが父親のように慕っていた叔父、オットーがナチスに銃殺されたこと、また、オードリー一家が暮らしていたアーネムが、映画「遠すぎた橋」(77)でも描かれたナチスvs連合軍の激戦地だったこと等が、詳しく綴られている。感動的なのは、まだ15歳の少女だったオードリーがレジスタンス活動の傍らで、オランダ人ドクターの助手として銃弾で傷ついた子供たちを甲斐甲斐しく手当てしていたという部分だ。それは、ルカ・ドッティが言うように、オードリーのその後の人生を決定づける、痛々しくも意味深い体験だったのではないだろうか。

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