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キリンはいかにしてサッカー日本代表を応援するに至ったのか。ー無名ペケ社員の陰徳ー

木村元彦ジャーナリスト ノンフィクションライター
2019年キリンチャレンジカップ(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

 2021年、2月26日。コロナ禍においてJリーグが開幕した。6府県の緊急事態宣言の前倒し解除は発表されたものの、完全収束に向けての見通しはまだ厳しいものがある。スタジアムがサポーターで埋まる日はいつになるのだろうか。ふと、今年6月のキリンチャレンジカップの対戦相手はどうなるのか、思いを巡らしていた。この時期に海外からの代表チームを招くということについては、折衝や運営もリスクも含めてあらゆることへの想定を余儀なくされるであろうが、スポンサーであるキリンビールの磯崎功典社長からは「ここで勝利して本大会に向けてはずみをつけて欲しい」との力強い言葉が発せられた。無観客、中止、例え何が起ころうともブレない。それは長い支援の歴史に裏打ちされたものと言えようか。

キリンビールがサッカー日本代表のオフィシャルパートナーとしてスポンサードを始めたのは、1978年のこと。当時のことを、キリンのHPはこう記している。

 1978年のある日、ご近所の挨拶として当時、日本サッカー協会の専務理事を務めていた長沼健氏(故人/第8代日本サッカー協会会長)が、

キリンビール本社を尋ねてきます。長沼専務理事の対応を受けたのは、当時取締役社長の小西秀次でした。―中略―また、1970年代はオリンピックにも出場できない“冬の時代”であったこともあり、

「日本ではなかなかサポートしてくれる人がいない」という日本サッカー協会の話を

聞き、キリンとしても“社会貢献”としての活動を模索していた時期でもあり、

そして、なにより「ご近所」という縁を感じ、この話を引き受けます。そして、同年5月、本格的な国際大会として“ジャパンカップ”が開催され、スタート時からの支援を行ったのです。キリンとサッカーの長い歴史はここから始まります」

 なるほど。長沼専務理事の働きかけでスポンサードは決まったのである。しかし近所にオフィスがあったとは言え、飛び込み営業よろしく、いきなり協会の幹部が本社に支援のお願いをしたわけではない。いったい誰が小西、長沼を繋いだのか?生前の長沼さんに2007年頃に代々木の岸記念体育館の一室で直接聞いたことがある。「それはねえ、キリンさんが原宿に本社があった頃、うちの協会の審判に社員がいたんですよ。彼が動いてくれたおかげです」

 当時のことを知りたくて、その社員、久保田秀一さんに何度も会いにいったことを思い出した。今、回顧しても面白い人だった。久保田さんは今、何をしているだろうか。

1962年のキリンビール

 一橋大学のサッカー部主将だった久保田さんは1962年にキリンビールに就職する。本人は一滴もアルコールを飲まない全くの下戸だったが、自社で作った製品を自国で売るというメーカーに魅力を感じていたのだ。入社試験は一橋のサッカー部を作った大先輩、松本正雄がキリンの顧問弁護士をしていた関係で、フリーパスだった。人事部長の「君のことは松本先生から聞いている」とのひと言で決まった。キリンには一橋閥というものがあった。松本が顧問弁護士をしていることに加えて、当時の営業部長の高橋朝次郎は、その松本とサッカー部の同期だった。入社式で高橋朝次郎に会った。

「お前サッカー部か? 何かあったら来いよ」と声をかけてもらった。

興味深いエピソードがある。久保田さんは東京支店に配属されて、ここでもサッカー部に入ってプレーを続けていたが、キリンの福利厚生用の運動場には、当時の競技人口を反映してか、サッカーゴールがなかった。久保田さんは厚生課長宛てに文書で依頼を出した。久保田さんは几帳面な人で文書のコピーを持っていてそれを見せてくれた。文書にはこうあった。

 厚生課長殿

 ゴールポスト(サッカー)建設について(依頼)当社の登戸運動場にサッカーのゴールを1つ作っていただきたいと思います。

 ゴールは2本の柱を立て、その間隔を8ヤード(7,32m)にし、その柱の上にクロスバー(横木)をわたし、その下端の高さを地上から8フィート(2,44m)にし、ポスト及びバーの幅と厚さは5インチ(12.7cm)とするのが、規定になっております。(他にゴールの後ろ側にネットをかける鉄のパイプを要す)設置場所については野球場のセンターの一番奥の場所が望ましいと思いますが、よろしくお取り計らいをお願い申し上げます。

東京サッカー部  久保田秀一   

これに対する厚生課からの回答も持っていた。日付は昭和40年3月11日。凄い回答だった。

東京支店 サッカー部御中

登戸運動場にサッカー用ゴールポスト設置について申し入れのあった表記の件について検討いたしましたが、下記の立場から設置しない方針でありますので、ご通知します。

         記

登戸運動場は野球、テニス、バレーボール用の施設であり、サッカーは会社が具合が悪いと認める場合は中止してもらう条件で、昨年からグランドを荒らさぬ程度で使用を認めているものです。このために施設を設けることは考えられない。         以上

考えられない、である。けんもほろろに切って捨てて、「以上」である。

 昭和40年のキリンビールのサッカーに対する理解度はこのようなものだった。そこで久保田さんは大学のサッカー部の先輩にあたる高橋朝次郎に直訴したのである。入社時に営業部長だった高橋は常務取締役になっていた。ヒラ社員の久保田さんは手紙をしたためると厚生課からの回答文書とともに役員室に行って高橋の秘書に預けた。これもコピーが現存した。 

 常務取締役高橋朝次郎殿

登戸運動場のサッカーゴールポスト新設の申請を厚生課に提出致しましたが、別紙の如き回答がありました。今後、ご機会がございましたら、強力な御力添をいただきたく切にお願い申し上げます。

           東支サッカー部

           主将久保田秀一  

 ペーペーが何段階も頭を越えての常務への直訴である。翌日、久保田さんは東京支社長の小西秀次に呼ばれた。同期社員が「あいつ何かやらかしたのか?」とささやく中、支社長室に入ると「君、こんなことは俺に言え。ゴールは2週間で作らせる」小西は人に対する無類の面倒見の良さがあったという。実際、2週間で登戸のグラウンドに本当にゴールが建った。たかがゴールだが、この案件成立は後に日本のサッカー界に大きな意味を持つ。

週末審判員

 6年後、久保田さんは大阪支社の営業課へ転勤になると、現役を退き、ここで審判員として活動を始める。3級審判の資格を取って大阪のサッカー協会に出向いて売り込んだ。

「どこへでも行きますから、土日の試合は僕に裁かせて下さい」当時の審判員の報酬は一試合吹いて300円から500円というものだが、それでも名乗りを上げて来た熱心な若者に大阪協会は喜んで仕事を与えた。しかし、これは逆に久保田さんにとって切実な願いだった。久保田さんはギャンブル狂でもあった。

 東京勤務時代は浦和の寮にいたので、戸田競艇場、浦和オートに通い、関西に移ってからは仁川の阪神競馬場の常連だった。給料が車券や馬券で消えてさすがにカネがなくなってきた。そこで休日にサッカーの審判をすることでスケジュールを埋めてしまえば、博打に行かずに済むと考えたのだ。やがて2級を取り、関西社会人の大会で笛を吹いた。

 1973年、久保田さんは再び東京支店に戻ると、広報部制作課に配属された。販売促進用のPOPやポスターを作る仕事である。これも関東大学の各サッカー部の主務たちが大会前にキリンにやってくると久保田さんは「キリンの名前さえ少し入れればいいから」と協賛を決めて、無料でポスターやパンフレットを制作してあげた。当然ながらプロの広告デザイナーが作るポスターは評判になった。審判としては1級を取得して、委員会の庶務担当となってサッカー協会とのつきあいが本格的に始まった。マラドーナが鮮烈な印象を残したワールドユース日本大会(1979年)では、渉外として各国代表団の受け入れを担当した。予算の無い中で通訳に東京外国語大学と上智大学から学生を募って対応したことが成功し、岡野俊一郎(当時日本サッカー協会理事)から「久保田君、よくやってくれた」と称賛された。

 ワールドユースでの活躍で協会との関係がさらに深くなると、日常的なご近所つきあいが始まる。何しろ当時のキリンビールは原宿にあり、協会の入っていた岸記念体育館は目の前である。

 久保田は「うちの会社に食べにおいでよ」と協会の職員をよく本社に招き入れた。キリンの食堂は味が良いことで評判で、この招きは大いに歓迎された。

ジャパンカップを支援せよ

 1978年。協会は定期的な国際大会を日本で催すことを決定しジャパンカップを開催した。ボルシアMG、パルメイラス、韓国代表、タイ代表、コベントリー・シティ、1FCケルンと招いて行われた第1回大会はボルシアMGとパルメイラスの優勝で幕を閉じた。

 大会は日本テレビのテレビ中継も入り、それなりに盛り上がったが、収支としては大きな赤字を出してしまった。あくまでも推定であるが、その額は約6000万円と言われている。

 スポンサーを見つけないと継続は絶対にできない。協会は急遽、検討委員会を開いた。ちょうど1979年に、資生堂が東京国際女子マラソンの協賛をして話題を集めていた。大会名に企業名を付して、支援をもらう、いわゆる冠大会しかないのではないか、との意見が多く出た。

 長沼健(当時サッカー協会専務理事)の記憶では「会議で冠をお願いするならキリンさんがいいんじゃないか。好不況の波がないし、年間200億位の宣伝費を使われている。何しろご近所だ」ということになったという。

藤田一郎、平木隆三らサッカー協会幹部の並ぶ席上に久保田さんもいた。そこで、長沼は、「お前キリンじゃないか。誰か偉い人知らないか」と声をかけた。「うちはアルコールでですけど、いいですか?」「いいも何も俺は毎朝窓から、あそこが応援してくれたらと念じて眺めている」

久保田さんは翌日に出社すると、直属の上司にあたる広報制作課の上長に相談した。

「ジャパンカップの冠スポンサーになってもらえないかという意向が、日本サッカー協会の方からあります」 数日して部長から回答が来た。

「今はまだ、時期尚早である」

久保田さんは別段ショックを受けなかった。想定内で諦めてはいない。忸時があった。この1979年、キリンビールはバスケットボール協会の依頼でキリンワールドバスケットを開催していたのだ。

「バスケットに先に冠を付けられて、黙っていられるか」

次の日、久保田さんは丸の内総合法律事務所に電話を入れた。

「どうした。まあ、来いよ」

受話器の向こうは自分をキリンビールに入社させてくれた松本正雄弁護士だった。オフィスを訪ねると冠スポンサーの話をした。

松本は「ああそうか、分かった」とだけ言った。その間、約5分。しかし、これで歴史は回った。 

翌週、案件を蹴飛ばした部長がすっ飛んできた。

「社長が、『僕のところにサッカー協会から冠協賛の話が来たら、断れない。だから君たち研究しておくように』と言われた。ぜひとも、前向きにしっかりやってくれ」

このときの社長は小西秀次。あの登戸の運動場にゴールをすぐに作ってくれたかつての東京支社長である。松本弁護士がアクションを起こしたことは間違いなかった。

久保田さんは、会社の目の前にある協会事務所に走って行き、長沼に「社長が会うと言っています」と報告した。

長沼にすれば、まさか社長がいきなり出て来るとは思ってもいなかったが、このチャンスを逃す手はない。

「分かった。岡野(俊一郎)も連れて行く」

あっと言う間に会見は組まれた。これが、先述の二人の出会いの場面へと繋がる。

長沼も岡野も小西社長を前に、企業メリットだの、協賛することの費用対効果がどう、などと、小賢しいことは一切言わなかった。虚心坦懐で臨んだことが、心を動かした。

小西はサッカーについては素人であったが、「何か面白い奴らが来た」と側近に漏らし、キリンビールはジャパンカップの第3回(1980年)から冠スポンサーになることが決定した。

かくしてキリンカップは誕生した。(1980年から1984年まではジャパンカップキリンワールドサッカーという名称)

ジャパンカップにスポンサードを決めた小西秀次社長 キリンビール提供
ジャパンカップにスポンサードを決めた小西秀次社長 キリンビール提供

社史には登場しないサッカー版 浜ちゃん

 一度は「時期尚早」と言われて流れかけたものを成就させたのは、ペケ社員の久保田さんだった。トップに直接話を持ちかける荒技。会社の顧問弁護士とのホットラインを持っていたことが何より大きかった。

私はこれをサッカー版「釣りバカ日誌」と名付けた。ヒラでペケ社員の浜ちゃんが、スーさんこと鈴木社長と釣りを介して出会い、会社の職制とは異なったパイプで結びつく。浜ちゃんは釣りであったが、久保田さんの場合はそれがサッカーであった。

当然ながら、キリンビールの社史にはこの話は登場しないが、久保田さんは確かに存在した。その後、久保田さんは北海道キリンレモンサービスに出向し、1986年に現地法人の社長に首を切られ、再び本社に舞い戻って来た。

今度の役職は本社役員室付だった。ここで久保田さんは専務に命じられて「企業とスポーツの関係について」をテーマ全ページ92枚に渡る分厚いリポートを書きあげている。その中で「企業にとってそのスポーツ協賛は、継続できないよほどの理由がない限り、やめたり、降りたりするべき性質のものではないのである」との一文を寄せている。

ジャパンカップ協賛の決定は、トップダウンであった。ではそのトップが変わったときにはどうなるのか? 危機管理の意味で楔を打ち込んでおく必要があると、久保田さんは考えていた。やがて久保田さんは52歳でキリンビールを退社する。

この年齢は、早期退職金優遇制度で最も金額が出る。久保田さんはカネが必要だったのだ。理由はあれほど警戒していたギャンブル熱が再燃し、借金で首が回らなくなっていたのである。その額約6000万円。ジャパンカップ第1回の赤字とほぼ同額であるが、さすがに個人の借金返済に冠スポンサーはつかない。久保田さんは退職金と株で返済した。

 その後、久保田さんは農業に目覚め、63歳で一念奮起して東京農大を受験する。孫のような学生たちと机を並べて土壌学を学び、67歳で卒業。農薬汚染の問題に取り組み、自らも八王子で農業を始め、有機農法学会でも発表していた。2008年に私が話を聞いたのも八王子だった。当時の取材メモにはこんなやりとりが記されている。

久保田 キリンとサッカーが繋がったのはオープンマインドな小西さんの人柄ですよ。例の長沼・岡野が飛び込んできた時も、何か面白い奴が来たよというように、メリットでなくて人柄で心を開くんです。私に言わせれば、あれ(キリンカップ)は松本・小西杯だったですね。

――久保田さんは長く一級審判として活動されていたわけですが、顧問弁護士や社長と同等に距離を保ちながらつきあっていたのは、そういう審判の中立的なメンタリティーに起因していますか。

久保田 審判の職業意識として思い当たるのは、みんなの前でジャッジして、そのレベル、内容、トータルの試合結果に公益を及ぼすことが良いわけです。自分がPKだと思って笛を吹く時に上司は要らないですよね。誰がいようと、自分が正しいと思ったことはそれに従って行動する。だから僕は嫌われるのかな(笑)

 この取材をしてから13年。キリンチャレンジカップの告知を見ると、必ず久保田さんのことを思い出している。

ジャーナリスト ノンフィクションライター

中央大学卒。代表作にサッカーと民族問題を巧みに織り交ぜたユーゴサッカー三部作。『誇り』、『悪者見参』、『オシムの言葉』。オシムの言葉は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞、40万部のベストセラーとなった。他に『蹴る群れ』、『争うは本意ならねど』『徳は孤ならず』『橋を架ける者たち』など。

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