CONIFA「在日でも」ではなく「在日だから」出場できる世界大会で魅せる堅守。ミンチョルとヨンギ

大会関係者から高評価を受けたUKJキャプテン、ソン・ミンチョル 撮影ホ・サンホ

 CONIFA第三回ワールドフットボールカップもすでにグループリーグが終了し、決勝トーナメントと順位決定戦が行われている。5試合が消化した中で在日コリアンのチームUKJ(ユナイテッド・コリアンズ・イン・ジャパン)の堅い守りが対戦チームや関係者の中で称賛を集めている。

 UKJはグループリーグDで、同組の対戦相手西アルメニア(トルコ北東部に居住するアルメニア人の代表)とカビリア(アルジェリアに居住するベルベル人の代表、ジダンやベンザマもここにルーツを持つ)にそれぞれ0対0のスコアレスドロー、前回大会準優勝のパンジャブには1対1で引き分けた。無敗で勝ち点3はゲットしたものの惜しくも一点差で決勝トーナメント突破はならず、プレースメントマッチに進んでいる。

 結果は残念ではあったが、目利きであるロンドンの観衆はサッカーの内容について必ず言及してくる。「UKJの6番はいいじゃないか」と。それこそが最終ラインを統率するキャプテンのソン・ミンチョルの背番号である。6月5日の4試合目のツバル(南太平洋ポリネシアの英国連邦加盟国)も5対0で完封。ますます評価は高まった。実際、ミンチョルが仕切る4バックのラインは常に高いポジションを保ち、相手に付け入る隙を与えない。カビリア戦では、5つのオフサイドを奪って記者たちから喝采を浴び、そのカビリア相手に8ゴールを叩き込んで猛威を振るったパンジャブの攻撃陣もまたPKによる一失点に抑え込んだ。パンジャブの9番アマルは前回大会の得点王であるが、これも封じ込み、流れから崩された失点は0である。ミンチョルは対人に強い上に、落ち着き払ったラインコントロールで周囲に安堵感を与えている。上下動を繰り返し、決して慌てずにむしろ飄々とした佇まいから、さっと右手を上げると、それを待っていたかのようにオフサイドフラッグが上がり、ホイッスルが鳴らされる。パンジャブは後半、ロングボールを蹴るしかなくなり、シュートはゼロだった。監督の安英学が、在日代表を招集するにあたって「彼が来てくれれば、ディフェンスは全部任せられる」と明言したミンチョルはその期待に違わない活躍を続けている。「海外経験が豊富なんで、何があっても動じないと思っていたら、やはりその通りでした」(安)

 ミンチョルは、2003年に京都朝鮮高校が初めて高校選手権の全国大会に出場したときに二年生ながら先発の座を確保していたメンバーである。当時の京都朝高は監督の金栄周とコーチの権忠義の施策で、世代ごとの強化が図られており、まず徹底的にフィジカルを鍛えられた。素走りのトレーニングメニューは必須で、西京区の松尾大社にある学校から左京区の大文字山までの往復を繰り返した。

厳しい練習は実を結び、3学年男女合わせて全校生徒が300人に満たない学校でサッカー部員の数も28人という、強豪校に比べれば圧倒的に少ない中、予選をノーシードから勝ち進んだ。ミンチョルは準決勝の城陽戦でゴールを決めて、ファイナル進出へ貢献する。決勝は桂高校で、1対1で延長に入り、後半も終了間際というところで金日字のゴールが決まり、劇的な全国大会出場を決めた。この快挙に当時、京都朝鮮総連の琴基都国際部長は「普通の学校の普通の生徒が、努力で全国への切符をつかんだ。それだけのことですよ。同胞に希望をもたらしたのはもちろんですが、全国の無名校すべてに、希望をもたらしたと思っています」と専門誌にコメントしている。ミンチョルはこの頃から、サッカーでプロになることを意識し始めていた。高校卒業時は日本の大学への進学を視野に入れていたが、朝鮮大学校に進むことを決意する。きっかけはほぼ同期のメンバーが、朝大に行くということ、そして二学年上の鄭大世(清水エスパルス)の存在だった。日体大との試合を観に行ったミンチョルの目の前で、劣勢の中で大世は目の覚めるようなオーバーヘッドキックを決めていたのである。「この人と一緒にサッカーをして成長したい」と考えて進学を決めた。

 卒業後は、FC琉球、FCコリアを経て、インドIリーグのシロン・ラジョンFCに単身渡って海外でのキャリアをスタートさせる。就労のビザが下りてから、2週間後が開幕戦で相手はリーグ優勝3回を掘る強豪モフン・バガンだった。ここで対峙したのが、ナイジェリア人とオーストラリア人の二人のストライカーだった。パワフルなFWであったが、マンマークで付いて完封し、試合も下馬評をひっくり返し、2対0で勝利した。かつてスクデット連覇中のユベントスを相手に2ゴール決めた中田英寿の例を挙げるまでもなく、外国人の新人選手が評価されるのは格上相手のデビュー戦で結果を出すことに過ぎる。この活躍でメディアの注目を浴びた。あいつは誰だ?どんな奴だ?在日コリアンとは何か?その存在を記者に話すことで、ミンチョルは自らの属性をアピールすることができた。これがターニングポイントになった。チームに不可欠な選手として、試合に出続け、日本にいては到底できないような経験もサッカーを通じて重ねていく。ヒマラヤ山脈に連なり、古くはチベット王家が統治したシッキム州にあるシッキムユナチテッドとの一戦では、標高1700mにあるスタジアムでプレーをした。飛行機の窓から眺めたヒマラヤの荘厳な眺めは神々しささえ感じられた。チームにはそのシッキムから来ていたチベット人の選手もいて、ダライ・ラマ法王の訪問を受けることもあった。

 シロン・ラジョンでプレーした3年間は、ミンチョルに大きな経験と自信をもたらした。「やはり、すごくポジティブになれました。日本とのギャップ、それは食文化や人やお金に対する価値観もそうですけど、すごく感じました。それから貧富の差。それらに直面する中でこんなに広い世界があるんだと、人生に前向きになりました。海外に住むことで日本に対しても朝鮮や韓国に対しても第三者的に客観的に見られるようになりましたね」2015年にムンバイに移籍。それからタイリーグを経て、現在は香港でプレーを続けている。ミンチョルのこの多様な海外体験がUKJの最終ラインを構築している。ほとんどぶっつけ本番に等しいが、4バックは彼のやり方に即時対応した。

 

 堅い守りにはGKのキム・ヨンギの存在も大きい。神戸朝高から桃山学院大学を経て湘南ベルマーレに入団したヨンギは、経験が求められるポジションにおいて一年目から、レギュラーとして活躍、ベルマーレサポーターに愛された。「僕にとっても湘南というクラブでの時間は貴重でした」(ヨンギ)6年間、在籍しその後も大分トリニータ、アビスパ福岡、長野パルセイロと渡り歩いた。10年をプロとして過ごした経験を最後尾からのコーチングで伝えている。

ヨンギは現在、カルペソール湘南で指導の道に入っているが、今回はCONIFAのために現役に一時復帰した。パンジャブ戦では、開始早々に取られたPKを見事に止めており、早い時間の失点で瓦解しかけなかったチームの危機を救っている。

 ミンチョルとヨンギ、高校が京都と神戸でそれぞれ互いの存在は知っていたが、同じチームで戦うのは初めてであった。それでもマークの受け渡しなど、呼吸のあったところを見せているのは、常に声を出し続けているコミュニケーション能力の高さ、プロとしての矜持であろう。ミンチョルは流ちょうな英語でイギリス人記者に「アリランは我々にとって特別な曲です」とアンセムの由来を説明し、円陣では常に在日の代表としての鼓舞を図る。ヨンギは試合の流れを読んでのコーチングでピッチに安定をもたらす。二人はCONIFA出場に際して、同じ思いを口にした。「英学さんに誘われたら、断る理由は無いよね」

 6月9日、UKJの最終試合は、チベットとの一戦。くしくもインドでプレーする選手が多いチームである。

在日コリアンが日本社会で多々耳にさせられたであろう、「在日でも出場できる」ではなく、「在日だから出場できる」CONIFA。そのアリランが流される最後の試合、無失点で幕を閉じたい。