Yahoo!ニュース

超最速3カ月の貿易交渉 安倍首相はどうしてそんなに日英FTA締結を急ぐのか

木村正人在英国際ジャーナリスト
日英FTA交渉で実質合意した茂木外相とトラス英国際貿易相(トラス氏のツイッター)

デジタル、データ、金融サービスの野心的な協定

[ロンドン発]訪英した茂木敏充外相は8月7日、ロンドン市内でリズ・トラス英国際貿易相と日英経済パートナーシップ協定について協議し、「大半の分野で実質合意」(茂木外相)、日英双方が8月末の大筋合意を目指す方針を確認しました。来年1月1日の発効を目指しています。

茂木外相「協定には投資サービス、電子商取引、競争政策の分野で日EU(欧州連合)・EPA(経済連携協定)を越えるハイスタンダードでの内容、例えばアルゴリズムの開示要求の禁止にかかる規定や消費者保護規定の追加を盛り込むこととし、現在最後の詰めを行っている」

争点となっている乗用車の関税撤廃や自動車部品、農産品について茂木外相は「マーケットアクセスの問題、原産地の問題、相当詰めの議論ができた」と述べるにとどめました。

トラス国際貿易相も「取引の主要な要素について合意に達した。 日EU・EPAを大幅に超えるデジタル、データ、金融サービスの野心的な協定だ。原則として8月末までに正式な合意に達する目標を共有している」とツイートしました。

国際貿易の重力モデルとは

日本の貿易相手国は2019年、中国21.3%、アメリカ15.4%、韓国5.3%、台湾4.9%、オーストラリア4.2%で、イギリスは上位10カ国にも入っていません。一方、イギリスの貿易相手国はアメリカ15%、ドイツ11%、オランダ7%、フランス6%、中国5%。日本は2%で11位です。

アイザック・ニュートンの「万有引力の法則」では2つの物質間に働く引力は2つの質量の積に比例し、物質間の距離の2乗に反比例します。国際貿易でも国内総生産(GDP)が大きくなればなるほど貿易額は大きくなり、距離が遠くなればなるほど小さくなると考えられています。

これがいわゆる国際貿易の「重力モデル」です。重力モデルに基づけばイギリスにとって最も重要な貿易相手はEUであることは子供にだって分かります。

しかし万有引力の法則に異を唱えたのがボリス・ジョンソン英首相に代表されるEU離脱強硬派と、誰彼構わず貿易戦争を始めたドナルド・トランプ米大統領です。

背景には過度の自由貿易とグローバリゼーションがもたらした”国内の南北(貧困と格差)問題”と、地政学上の中国とロシアの台頭があります。

EUは今回の新型コロナウイルス・パンデミックで発足以来の課題だった大規模な債務の共有化に踏み切りました。イギリスがもしEU残留を選択していたとしても債務共有化は絶対に受け入れなかったでしょう。その意味でイギリスのEU離脱は「偶然」ではなく「必然」だったのです。

イギリスには「欧州の統合と深化」ではない新しい物語が必要になりました。それがかつて7つの海を支配した大英帝国のノスタルジーを漂わせる「グローバルブリテン」です。その基盤をなすのがアメリカとの特別関係を軸にした“アングロサクソン連合”と対日関係の強化です。

超最速3カ月の貿易交渉

日英が交渉入りしたのは6月9日。8月末に正式合意すると貿易協定締結のスピード記録になるかもしれません。ちなみにアメリカの自由貿易協定(FTA)は交渉開始から締結までどれぐらいかかったのかを世界経済フォーラムのサイトから見ておきましょう。

平均 18カ月

パナマ 38カ月

コロンビア 31カ月

チリ 30カ月

シンガポール 29カ月

ペルー 23カ月

カナダ 20カ月

最短はヨルダンの4カ月です。どうしてイギリスと極東の日本はFTA締結をこれだけ急ぐのでしょう。

(1)EU離脱の移行期間が今年いっぱいで切れる。日EU・EPAが日英貿易に適用されなくなるため、少なくとも日EU・EPAと同レベルのFTAを急いで結び直す必要性に迫られていた。

(2)今や日本のライバルになった韓国が昨年9月に、EU・韓国FTAに変わる英韓FTAを締結しており、日本がイギリスとFTAを結ばない場合、対英輸出で不利になる恐れがあった。

(3)イギリスのEU離脱で欧州大陸とのサプライチェーンが寸断される恐れがある。ホンダは撤退を発表したものの、日産自動車やトヨタ自動車はイギリスでの自動車生産を継続するため、サプライチェーンの代替手段を確保しておく必要があった。

(4)オール・オア・ナッシングの要求を突き付けるEUと、イギリスの離脱交渉は難航し「合意なし離脱」の懸念が再燃。香港問題で対中関係が悪化し、アメリカとのFTA交渉も米大統領選で先が見通せない。ジョンソン首相は日英FTA締結でグローバルブリテンの成果を強調したい。

日英FTAの隠された狙いとは

交渉の「スピード」を優先させると「野心」のハードルは必然的に下がってしまいます。日本にとって貿易面で小市場のイギリスを大市場のEUより優遇するわけにはいかず、日EU・EPAをほとんど居抜きで使わざるを得ないのが現状だと思います。

しかしアルゴリズムについて企業に対する政府の情報開示要求を禁じるなど、投資サービス、電子商取引、競争政策の分野で日EU・EPAを越えるハイスタンダードで野心的な協定を目指しています。

英紙フィナンシャル・タイムズによると、日英FTAはイギリスの対日輸出を21%押し上げる一方で輸入は79%増える見通しです。イギリスの国内総生産(GDP)は長期的に0.07%増加し、貿易は152億ポンド(約2兆1000億円)増えると予測されています。

逆にEU離脱によって損なわれるGDP成長率は5%で算盤に合わず、2022年末までにFTAカバー率を貿易額の80%にするというジョンソン首相の目標達成も今のところ苦しい状況に追い込まれています。

英軍は中国による香港国家安全維持法の強行で新鋭空母クイーン・エリザベス(満載排水量6万7669トン、全長284メートル)か、プリンス・オブ・ウェールズ(同)の空母打撃群を極東に常駐させる選択肢を策定したと報じられました。

イギリスにとっては軍事的に台頭する中国を牽制する狙いもありますが、21世紀の成長を担うインド太平洋に布石を打つ戦略的構想もこの背景にあります。日本にとって日英FTA締結はイギリスを環太平洋経済連携協定(TPP)に抱き込み、アメリカを呼び戻す第一歩に過ぎません。

今回の日英FTAには「21世紀の日英同盟」とも言うべき戦略的な思惑が、漂流を始めた大国アメリカのジュニアパートナーである日英双方にあると筆者は考えます。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

木村正人の最近の記事