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中国「コウモリ女」を標的に新型コロナ起源論争が再燃 トランプ大統領の狙いとは

木村正人在英国際ジャーナリスト
コウモリ(新型コロナウイルスの起源とされるコウモリとは別種です)(写真:ロイター/アフロ)

「ウイルスは武漢の研究所から発生」

[ロンドン発]新型コロナウイルスについてアメリカのドナルド・トランプ大統領やマイク・ポンペオ国務長官が「中国湖北省武漢市のウイルス研究所から発生した」と改めて主張したため、ウイルスの起源を巡る論争が再燃しています。

米英中心のアングロサクソン系スパイ同盟ファイブ・アイズの15ページもの文書が出回り「パンデミックを巡る中国の秘密主義は国際社会のトランスパレンシー(透明性)への攻撃」とした上で人・人感染をなかなか認めようとしなかった習近平体制の隠蔽体質を指弾しています。

これに対して中国外務省は「ポンペオ氏に証拠を提示することはできまい。それは、いかなる証拠も持っていないからだ」とトランプ陣営がまき散らす陰謀論を一蹴しました。

筆者は11月に迫る米大統領選で苦戦するトランプ陣営がコロナ対策の遅れで被害を拡大させた責任を世界保健機関(WHO)や中国になすりつけるための悪質な選挙キャンペーンとみています。それこそ偽ニュースや偽科学で懐疑主義を煽るインフォデミックに他なりません。

感染症のトップにも突き放されたトランプ氏

科学的には新型コロナウイルスは昨年9月中旬以降、コウモリから人に感染したのが起源と見られています。記者会見でトランプ大統領のそばに控える米国立アレルギー感染症研究所(NIAID)のアンソニー・ファウチ博士も米誌ナショナルジオグラフィックにこう語っています。

――ウイルスが中国の実験室で造られた、もしくは誤って中国の実験室から漏出したという証拠はありますか

「コウモリのウイルスの進化を見ると現段階では、このウイルスは人為的または意図的に操作されたものではないだろうという結論に非常に強く傾いています。とても有能な多くの生物学者は、時間の経過に伴う段階的な進化プロセスの全てが自然界で進化し、種をまたいだ(動物から人に感染した)ことを強く示していると述べています」

――もし科学者が実験室の外でウイルスを見つけ、それを持ち帰り、そのあと実験室から逃げたらどうなるでしょう

「それはもともと野生の状態でした。彼ら(筆者注:トランプ大統領やポンペオ国務長官のこと)の議論を理解できません。それが堂々巡りの論争に私が多くの時間を費やさない理由です」

新型コロナウイルスやそれに近いコウモリやセンザンコウ(哺乳綱鱗甲目に分類される構成種の総称)のウイルスのゲノム情報が蓄積されており、塩基変異の歴史をたどればどれぐらいのスピードでどの程度の変異が起きるのか把握できます。

科学的には今年2月に決着

世界中で患者から採取された新型コロナウイルスのゲノム情報を集めているオープンソースプロジェクト「ネクストストレイン」に参加するトレバー・ベドフォード氏のツイートを見ると、新型コロナウイルスの塩基配列がコウモリに近いことが一目瞭然です。

系統樹の新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のすぐ下にコウモリ(bat)やセンザンコウ(pangolin)とあるのがお分かりになると思います。

こうしたデータから導き出される結論は「生物兵器(一番右側の赤色の山)」でも「実験室から逃げ出したウイルス(真ん中の黄色の山)」でもなくて「人獣共通感染症(動物と人にも感染、一番左側の青色の山)」の可能性が最も高いということです。

新型コロナウイルスの起源は科学的には今年2月の時点ですでに決着している論争なのです。

それをトランプ大統領とポンペオ国務長官が何度も蒸し返しているだけで、巻き添えにされるのを避けるため米国家情報長官のオフィスは4月30日「新型コロナウイルスは人造でも遺伝子が組み替えられたわけでもない」とする異例の声明を発表しました。

WHOも4月21日に「新型コロナウイルスは昨年後半、動物を起源として誕生し、実験室で操作されたり造られたりしたものではない」と釘を刺しています。

標的にされる「中国のバットウーマン」

ウイルスの起源論争を再燃させているのが、コウモリのウイルス研究に全人生を捧げる「バットウーマン(コウモリ女)」として名高い中国科学院武漢ウイルス研究所(レベル4のバイオセーフティ施設)の石正麗研究員(55)です。

その石氏が数百もの極秘文書を持ち出してパリの米大使館に駆け込んだというウワサがソーシャルメディアを駆け巡りましたが、当の石氏は5月2日、中国のメッセンジャーアプリ、WeChatで「私も家族も国外に亡命していないし、今後そうする考えも全くない」と全面否定しました。

石氏率いる研究チームは1月23日「新型コロナウイルスの発見とコウモリ起源である可能性」と題する査読前論文を発表しています。

武漢ウイルス研究所は1月2日に新型コロナウイルスの全ゲノム配列を決定し、5日にはウイルス株の分離に成功。石氏らは新型コロナウイルスとコウモリのコロナウイルスの遺伝子配列が96%の確率で一致することを突き止めました。

石氏は雲南省にあるコウモリの洞窟を調査し、コウモリ由来とみられるSARS(重症急性呼吸器症候群)ウイルスの研究でも先頭に立ってきました。しかしこの時、十分な防護をとっていなかったためコウモリから人への感染を許した疑いがあると非難されているのです。

研究所のウェブサイトからコウモリの調査や研究風景を撮影した写真が削除されたとして陰謀論の新たな火種になっています。新型コロナウイルスの「患者ゼロ(最初の患者)」は武漢ウイルス研究所の研究員だというのが、トランプ大統領らが考え出した新たな陰謀論です。

ゲノム情報から新型コロナウイルスの起源を確定するには時間がかかります。それがまさにトランプ大統領の狙い目です。大統領選の期間中、WHOを非難して資金提供を凍結したり、中国の陰謀論を煽ったりして自分の責任をごまかそうとしているだけなのです。

暗いところや夜になると視力が著しく衰える「夜盲症(やもうしょう)」の治療方法としてコウモリの糞が、目に擦り込む漢方薬としてインターネットのアマゾンで販売されていたという指摘もあります。

2017年に武漢の実験室の安全性に疑問を唱えていた英科学誌ネイチャーも今年3月にウイルスの起源は「意図的に操作されたウイルスではないことを示している。実験室ベースのシナリオが妥当であるとは考えていない」との見方を示しています。

「人獣接近が引き起こした動物から人への感染」

人獣接近が動物から人への感染を引き起こしたのは間違いありません。しかし、それを石氏の責任に押し付けてしまうと人獣共通感染症ウイルスの研究はできなくなってしまうのではないでしょうか。

豪シドニー大学のエドワード・ホルムズ教授によると、新型コロナウイルスに最も近いコウモリのウイルスは雲南省で採取され、武漢ウイルス研究所に保管されていました。変異には少なくとも20~50年を要するため「新型コロナウイルスの起源は新しい宿主にジャンプした可能性が最も高い」と説明しています。

中国の研究は欧米に比べ、かなり先行しています。中国が新型コロナウイルスのワクチンや治療法開発を主導することになれば、西洋から中国へのかなり大きなパワーシフトが起きるでしょう。欧米は中国を非難するのではなく、共同研究などを呼びかけて巻き込んでいく必要があります。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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