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ドイツはプライバシー保護を徹底 京アニ犠牲者の実名公表・報道の是非を考える

木村正人在英国際ジャーナリスト
リアルを通り越した人体標本が物語る匿名で死なされるということ(筆者撮影)

英国では独立機関が報道被害に対応

[ロンドン発]アニメ制作会社「京都アニメーション」の放火で35人が亡くなった事件をきっかけに遺族の意思に反して犠牲者の実名を警察が公表すべきか、メディアは実名報道すべきなのか――が改めて激しい論争を呼びました。

ジャーナリスト歴36年目を迎えた筆者は、情報は権力によって恣意的に扱われるべきではないと考えます。被害者の実名は身元が特定され、遺族への連絡が済んだ段階で、捜査に支障がなければ速やかに報道発表され、匿名にするかどうかの判断はメディアに委ねられるべきです。

同質性が極めて高い島国の日本は戦前戦中に秘密警察(思想警察)の歴史があるだけに、「表現の自由」に基づく「報道の自由」や国民の「知る権利」は最大限に保障されるべきです。中国やロシア、北朝鮮と日本の最大の違いは「報道の自由」が認められているか否かです。

報道による二次被害やメディアスクラム(集団的過熱取材)への対応は英国のような独立報道基準機構(IPSO)を設けたり、警察や行政、民間団体によるリエゾンオフィサー(メディアと遺族の間に入る家族連絡担当者)を養成したりするのが良いと思います。

英国の民間団体「被害者支援(VICTIM SUPPORT)」はサイトで「報道被害への対処法」を詳しく紹介しています。メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

日本でもメディアによる人権侵害が甚だしい場合は侵害差し止めの仮処分を起こして、訴訟費用も含めてメディア側に請求し、判例を積み重ねていく必要があるのではないでしょうか。

「プライバシー尊重のためジャーナリストの権利は制限される」

インターネットやソーシャルメディアの普及で報道機関とメディアの境界が曖昧(あいまい)になってきました。「報道の自由」が認められるのは、伝えることに「公共の利益」がある場合に限られます。

筆者は難民キャンプやフードバンク(食料や生活必需品を無料で配る場所)、投票所などで初対面の人からインタビューします。取材に応じてくれるのは何か伝えたいことがある人で、拒否する人は語ることがないか、隠したいことがある人です。

何かを伝える仕事は誰かのプライバシーを侵害することになるので、公人でない限り同意が必要です。「人のプライバシーを侵害して良いと思っているのか」と問い詰められると困ってしまいます。公人にも、それがプラスに働くかどうかは別にして取材を拒否する権利はあります。

1971年11月、ドイツのミュンヘンで欧州連合(EU)の前身である欧州共同体(EC)6カ国のジャーナリスト連合の代表者会議が開かれ、承認された「ジャーナリストの権利と義務の宣言」を見てみましょう。

「情報、表現の自由、批判の権利は人間の基本的な権利の1つです」「ジャーナリストのすべての権利と義務は、出来事や意見について公に知らされるこの権利に由来します」。そして「プライバシー尊重のためその権利は制限される」とジャーナリストの義務をうたっています。

プライバシーを重視するドイツ

ドイツ・プレス評議会のガイドラインはかなり詳しく被害者保護について定めています。

「事故や自然災害が発生した場合、報道機関は被害者と危険にさらされている被災者に対する緊急支援が『知る権利』に優先することに留意しなければならない」

「被害者は身元に関して特別に守られる権利を持っています。一般的に被害者の身元に関して知ることは事故の発生、災害や犯罪の状況を理解するのに役に立ちません」

「被害者や家族、親族、権限を与えられたその他の人の同意がある場合か、被害者が公人である場合にのみ、被害者の名前と写真を報道することが許されます」

「脅かされた実際の暴力行為を報道する際、報道機関は国民の知る権利と、被害者や他の関係者の利益を慎重に比較衡量する必要があります」

「事故・災害報道の際、取材の限界は被害者の苦しみと家族の感情を尊重することです」「不幸な被害者は、メディアでの描写によって二度苦しめられてはなりません」

「メディアと警察の間の調整は、ジャーナリストの行動が被害者や関係者の生命と健康を守ったり、救ったりできる場合にのみ限られます」

「犯罪者の回顧録の出版は、犯罪が後から正当化されたり、被害者が負の影響を受けたり、犯罪の詳細な記述がセンセーションの欲求を満足させたりする場合に限り、ジャーナリズムの原則に反します」

犠牲者が親族の同意なしに特定されるケースも

ドイツ・プレス評議会に被害者が死亡している場合、氏名をどのように扱っているか問い合わせたところ、次のような回答が返ってきました。

「被害者の保護は、ドイツ・プレス評議会の苦情処理において高い意味を占めています」

「昨年、私たちの最も重い制裁措置である公的戒告(public reprimand)の28件のうち13件は報道規範(プレスコード)セクション8のプライバシー保護の違反に関係しています。そのうち8件は被害者の保護に違反していました」

「こうしたケースでは、暴力事件や事故の犠牲者が親族の同意なしに特定されたり、広範な人々に認識されたりすることが頻繁に起きています」

「編集者はしばしば、親族や関係者の許可を得ないまま無断でFacebookやTwitterのアカウントからプライベートな写真を使いました。これは大衆紙(タブロイド)に限られる問題です」

「プレス評議会は、今、起きている出来事を包括的に伝えることは報道の責任であるものの、親族や関係者の犠牲の上に亡くなった被害者を描写することは許されないと強調しています」

「さらに個人の特定は通常、事件・事故を理解することと関係ありません。報道機関の規範によると、編集者は犠牲者またはその親族に写真や名前を公開する許可を求める必要があります」

「プレス評議会は2013年に人格保護に関する規則(セクション8)を改訂しました。特に、犯罪者と被害者の報道に関する倫理規則が改められました」

「新しい点は、被害者報道に関する取り決めと、特に加害者と容疑者を取り扱う犯罪報道に関するガイドラインが設けられたことです」

「もちろん例外はあります。『現代史に刻まれる人物』の写真や名前を伝える場合です。例えば、欧州難民危機の際、トルコの海岸で亡くなった難民少年アラン・クルディちゃん=当時(3)=の写真は現代史の記録です」

「『写真は、難民が欧州への困難な旅で直面する苦難と危険のシンボルだ』とプレス評議会のメンバーは言いました。戦争の惨禍、人身売買の危険、欧州への道を報道することは公共の利益に適います」

「子供の写真は、不当にセンセーショナルではなく、品位を落とすこともありませんでした。子供の顔を直接、確認することはできません。 『プライバシーに関する彼の権利は侵害されていません』とプレス評議会は判断しました」

「プレス評議会はこの写真の掲載は『根拠を欠いている』として出された19件の苦情を検証しました」

「事件を絨毯の下に隠すのを許すな」

ドイツの州警察の発表資料を見ても被害者や容疑者の実名は一切、記されていません。

2016年7月にドイツ南部ミュンヘンの大型ショッピングセンターで銃の乱射事件が起き、9人が死亡しました。ミュンヘン市警察本部はこうツイートしました。「被害者の写真を投稿するは止めなさい。もっと被害者に敬意を払いなさい」

これに反発する書き込みが相次ぎました。「どうか皆さん、写真の投稿を続けて。『官』がこの事件を絨毯の下に隠すのを許さないで」

「敬意だって?イスラム系移民の性犯罪の被害者にいったいどれだけの敬意が払われているというの」「もっと敬意を示しなさいだって?イスラム教徒を処刑しているのになかったように装うつもり??」

イスラム系移民には、警察がプライバシー保護を強調していることが「事件隠し」のように見えたのでしょう。

当時の警察の発表資料を見ると被害者についてはこう記されています。「今のところ確認された死亡者は10人。そのうち犯人とみられるミュンヘン在住のイラン系ドイツ人(18)は自殺した」

「被害者は6人が男性、3人が女性。6人が10代、1人が思春期、2人が成人。国籍はハンガリー、ドイツとトルコの二重国籍保有者、ドイツ、トルコ、コソボ、ギリシャ、無国籍者」

地元紙の報道によると、犠牲者9人のうち7人はイスラム教徒でした。被害者の1人、ディヤマント・ザバーグヤさん=当時(20)=の父親は息子の写真を掲げて地元紙の取材に応じ、「今でも信じられない」と語っています。

・コソボ系ドイツ人アルメラ・Sさん、サビナ・Sさん(14)

・ドイツ在住35年の2人の息子の母、トルコ女性セブダ・ダッグさん(45)

・ドイツとトルコの二重国籍保有者キャン・Lさん(14)、セルチュク・Kさん(15)

・ハンガリーのルーツを持つ少数民族ロマのロベルト・Rさん(15)

・ギリシャ人のチャウシン・Dさん(17)

・無国籍者のシント・ジュリア・ジョセフ・Kさん(19)

南ドイツ新聞は容疑者を「デービッド・S」と報道。事件の背景はかなり詳細に報じられました。姓がイニシャルなのはプライバシー侵害で訴えられた時の訴訟対策でしょう。ドイツの事件記者は警察と親密な関係を築いて、コツコツ身元を割り出したり、情報を聞き出したりするそうです。

2つの道、あなたはどちらを選ぶ

しかし1年365日朝の6時から午前2時まで刑事や検察官、国税の査察官を夜回りする生活を16年間も続けた筆者の経験から言うと、そうした慣行は記者と警察の癒着を生むだけで好ましくありません。そんなことに貴重な時間を割くことが国民の「知る権利」に資するとも思えません。

ナチスと旧東ドイツの時代にゲシュタポとシュタージという2つの秘密警察による恐怖を経験したドイツや旧共産圏のEU加盟国はプライバシーに敏感です。

私たちの前には2つの道があります。

ドイツのようにプライバシー保護を徹底するか、英米のようなオープン・ジャーナリズムを基盤として報道機関がプライバシー保護を監視する独立機関を自主的に設立するかです。

筆者は、権力の意思に左右されず速やかに亡くなられた犠牲者を公表することが最大の人権保障だと信じています。

遺体や臓器に含まれる水分と脂肪分を合成樹脂に置き換え、保存する「プラスティネーション」をご存知でしょうか。一昔前、日本でも話題になった「人体の不思議展」を覚えておられる方も多いでしょう。

米国での「プラスティネーション」展を手掛けたイベント会社は「人体標本はもともと中国公安当局が引き受けた中国人や国内居住者です。中国公安当局は刑務所から遺体を受け取ったのかもしれません」と説明しています。

リアルを通り越した「人体標本」は一体どこの誰なのか、なぜ、どのように死んだのか全く分かっていません。プライバシー保護のためでしょうか。このリアルさが権力によって匿名で死なされるということがどういうことなのかをリアルに物語っていると思います。

皆さんはどう思われますか。

(おわり)

参考:京アニ犠牲者全員の実名公表 「とにかくメディアが最悪だった」英テロ報告書があぶり出した報道の良心とは

京アニ犠牲者の実名公表「犠牲者を大量殺人の匿名性から解放し、存在と個人の運命を取り戻す」ために

リアルを超越した”人体標本”はどこからきたのか 英国でイベント主催者を直撃取材

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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