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京アニ犠牲者全員の実名公表 「とにかくメディアが最悪だった」英テロ報告書があぶり出した報道の良心とは

木村正人在英国際ジャーナリスト
京都アニメーション火災の犠牲者に祈りを捧げる女性(写真:つのだよしお/アフロ)

「遺族の心情に配慮して取材や報道に当たってほしい」

[ロンドン発]京都市伏見区のアニメ制作会社「京都アニメーション」第1スタジオが放火され、35人が亡くなった事件で、京都府警は27日、これまで見合わせていた25人の方の実名を公表しました。7月18日の事件発生から実に40日も経っています。

京アニの代理人を務める桶田大介弁護士はこうツイートしました。

「弊社の度重なる要請及び一部ご遺族の意向に関わらず、本日被害者の実名が公表、一部報道されたことは大変遺憾です。弊社は、京都府警及び関連報道機関に対し、改めて故人及びご家族のプライバシーとご意向の尊重につき、お願い申し上げます」

NHKによると、京都府警の西山亮二捜査1課長は犠牲者の実名公表に40日もかかったことについてこう説明したそうです。

「大変凄惨な事件で、関係者の精神的なショックも極めて大きいことから、ご遺族や会社の意向を丁寧に聞き取りつつ、葬儀の実施状況を配慮して慎重に検討を進めてきた。社会的な関心が高く、事件の重大性や公益性などからも情報提供をすることがよいと判断した。取材や報道にあたっては、遺族の心情に配慮してほしい」

実名公表が遅れた背景には報道被害と遺族への配慮があるそうです。世論調査会社Ipsosが27カ国を対象に実施した世論調査では、この5年間で新聞・雑誌・TV・ラジオのレガシーメディアに対する信頼は低下したと認識されています。日本では新聞・雑誌を信頼する人は11%、TV・ラジオを信頼する人は15%減っていました。

出所)Ipsos
出所)Ipsos

米国や英国でも新聞・雑誌への信頼はそれぞれ26%、27%下がっています。その理由はフェイク(偽)ニュースの広がりとメディアの良心に対する疑念だそうです。

英国では死者の実名は公開

英国では死者にデータ保護法は適用されません。死者の実名は公的記録として扱われます。殺人事件、不審死、事故の犠牲者は身元が判明し、最も身近な人に知らせた後は捜査上、特段の事情がない限り、警察は速やかに実名を発表するようになっています。

独立報道基準機構(IPSO)が定めている編集者の実践規範では、私生活や家庭生活を尊重し、同意なしに個人の私生活に踏み込む場合は正当な理由が求められます。私的場所で同意なしに個人を撮影することはできません。

(注)IPSOは大衆紙の組織的な盗聴事件の反省から2014年9月、従来の報道苦情処理委員会(PCC)に代わり、世間に対して説明責任を果たすため設立された。

記者は取材相手に脅迫や嫌がらせをしたり、執拗に追いかけたりしてはいけません。いったん止めるように求められたら質問、電話、追跡、写真撮影を続けてはいけません。誰何されたら会社名と実名を名乗る必要があります。

愛する人を失い、悲しみやショックに打ちひしがれている人に取材する時は、同情と思慮分別が求められ、記事にする際も慎重さが求められます。自殺を報道する際も模倣を防ぐため自殺方法の詳細については避けるよう考慮すべきだとされています。

しかし、これはタテマエに過ぎません。世間の注目を集めるような大事件・大事故でメディアスクラムが発生し、被害者や遺族、関係者にとんでもない精神的な負担を強い、メディア批判が渦巻いているのは日本も英国も同じです。

メディアは「猟犬」「卑劣」

17年3月、米人気歌手アリアナ・グランデさんのコンサートが開かれていた英中部のマンチェスター・アリーナで自爆テロが起き、22人が死亡しました。この事件で、事務方トップの官僚だったボブ・カースレイク氏の独立調査報告書は犠牲者全員の実名を記した上で、報道の問題点を厳しく指摘しています。

・調査パネルは一部メディアから遺族が経験したことにショックを受け、落胆した。彼らは「猟犬」のように追いかけ回し、遺族に対する「配慮」を欠く「絨毯(じゅうたん)爆撃」のような取材をした。遺族が悲しいニュースを打ちひしがれている時に写真を撮る「卑劣」な試みを行った。

・遺族が大変な時にそのような侵入的で横柄な取材を経験することは受け入れ難い。その一方で正確で遺族の心情に寄り添ったマンチェスター・イブニング・ニューズのような地元紙は建設的で重要な役割を担った。しかし一部メディアの振る舞いは明らかに編集者規約の基準を大幅に逸脱していた。

・テロ事件後、メディアから受けた遺族の経験はほとんどがネガティブなものだった。一部の人はTV番組への出演を強要された。病院で行方不明者を探したり、負傷者の付き添いに来たりした家族は「答えないことを許さない」メディアスクラムの中を通り抜けなければならなかった。

・娘と同様に重傷を負った1人の母親は治療を受けている最中にメディアが携帯電話に電話をかけてきたと証言した。病棟のスタッフは差し入れられたビスケット缶の中に情報提供の見返りに2000ポンドを提供するというメモが入っていたと話した。

・死別の知らせを受けている最中に遺族は窓越しに写真を撮影された。カメラから逃れるため頭からコートを被って車に走り込んだ。病院の玄関にメディアが張り込んでいるため、負傷した子供を通用門から入らなければならなかった。

・自宅の外にはTVクルーが張り込み、玄関に足を突っ込んで家の中に入ろうとした記者もいた。ある家族の子供は母親の死を知らされる前に、玄関口で記者からお悔やみを告げられた。別の子供は学校に行く途中に記者に呼び止められた。

・事件翌日の朝、両親が行方不明者を探しに行っている間に、記者が自宅を訪れ、娘に兄弟の死を伝え、お悔やみを述べた。看護師や警察になりすました例が少なくとも2つあった。

・遺族は愛する人の写真が繰り返し使用されるたび、動揺すると話した。海外メディアは故人が特定できる現場の写真を使用した。遺族は個人のFacebook(フェイスブック)やその他のSNSのアカウントにアクセスされ、許可なく情報や写真が許可なく使用されたことに憤っていた。実名の綴りの間違いなど愛する人の不正確な記述に大きく動揺した。

遺族の中には「とにかくメディアが最悪だった」と証言した人もいたそうです。調査パネルは次の4点を勧告しました。

(1)独立報道基準機構(IPSO)は大規模テロの取材に対応できる編集者の実践規範を見直す。

(2)警察はメディアと遺族の間に入る家族連絡担当者を養成する。

(3)責任当局は信頼できる地元紙や地元放送局と協力して大規模テロの報道にどう対応するのか計画を立て、リハーサルを実施する。

(4)緊急時対応機関と地方自治体は重大な事件に対応できる報道担当者のリソースを確認。病院など重要な場所に十分な数の報道担当者を割り当てることも検討する。

実名・匿名は警察の判断に委ねられた

戦後、米国に占領された日本では「報道の自由」が広く認められてきました。米国の「独立宣言」を起草したトマス・ジェファソンは言うことを聞かないメディアに地団駄を踏みながらも「新聞のない政府と、政府のない新聞のどちらをとるか判断を任されたなら、私は瞬時に後者を選ぶだろう」と述べたことで有名です。

米コラムニスト、ウォルター・リップマンも「出版の自由は特権ではなく、偉大な社会における必要不可欠な要件である」という言葉を残しています。それなのに日本では2005年の犯罪被害者等基本計画で犯罪被害者に関するプライバシー保護を図るため、 被害者を実名・匿名どちらで発表するかの判断を事実上、警察に委ねてしまいました。

メディアの自主規制では報道の二次被害やメディアスクラムは防げないと批判されたからです。筆者は1984年から16年間、神戸や大阪で事件報道に携わり、最後は大阪府警のキャップまで務めました。性犯罪などのケースにとどまらず、被害者の実名・匿名発表の判断をすべて警察に任せるのは「報道管制」につながりかねず、非常にまずいと思います。

組織防衛に走った時の警察がどれほど怖いかは、体を張って取材した経験がないと分からないでしょう。桶川ストーカー殺人事件のように警察の不祥事が絡んだ事件の場合、被害者の実名は永遠に闇に葬り去られるでしょう。

共産主義国家では反体制派の人々の肉体はミンチのように切り刻まれて下水に流され、実名を刻んだ墓さえも跡形残らず粉砕されました。生きた証さえもこの世から完全に抹消されてしまったのです。

京アニの代理人を務める桶田弁護士が実名非公開を唱えるのもおかしな話です。第1スタジオの建物が構造上、安全だったのかどうか将来、会社と遺族の間で民事上の争いが生じた場合、どうなるのでしょう。実名が公開されていないと遺族同士が連絡を取って協力するのも難しくなってしまいます。

アルジェリア人質事件でも実名報道の是非が大きな論争を呼びました。人間の「生き死に」は社会の記憶であり、歴史の記録です。死者のプライバシーを守ることにどれほどの意味があるのでしょう。それより被害者が最後の瞬間までどのように生きたのか、その不条理な死は避けることができなかったのかを伝えてほしいと思う遺族もいらっしゃるはずです。

報道の二次被害、メディアスクラムを放置してきたメディアの責任は重く、対応は不可欠ですが、匿名報道が当たり前だという風潮が広がると、日本社会はもっと大切なものを失うことになるでしょう。匿名より実名を公開した方が社会のトランスパレンシーはずっと高まるはずです。

私たちは匿名報道よりも、被害者の側に立ったマンチェスター・イブニング・ニューズのような報道を目指すべきではないのでしょうか。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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