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ロシア二重スパイ暗殺未遂に使われたのは神経剤 放射性物質で暗殺されたリトビネンコ氏の妻に訊く

木村正人在英国際ジャーナリスト
防護服を着て現場検証する係官(写真:ロイター/アフロ)

娘も意識不明の重体

[ソールズベリー発]3月4日、英イングランド南西部ソールズベリーの公園で、元二重スパイのロシア人男性セルゲイ・スクリパリ氏(66)と娘のユリアさん(33)が意識不明の重体で見つかり、ロンドン警視庁は7日夕、神経剤(神経伝達を阻害する作用を持つ化合物の総称)が使用されたと断定、暗殺未遂事件として本格的な捜査を始めました。

娘のユリアさん(本人のFBより)
娘のユリアさん(本人のFBより)

どんな神経剤が使われたのかについてロンドン警視庁は捜査上の秘密として明らかにしていません。思い出されるのは、元ロシア連邦保安庁(FSB)幹部アレクサンダー・リトビネンコ氏(当時44歳)が2006年11月、ロンドンのホテルでお茶に致死性の放射性物質ポロニウム210を入れられ、毒殺された事件です。

ドイツに一時滞在中の妻マリーナ・リトビネンコさんに電話でお話をうかがいました。

――元二重スパイのロシア人男性と娘が神経剤で狙われました

「非常にショックを受けています。夫の事件で公聴会が開かれ、事件の詳細が明らかにされ、同じような悲劇は二度と繰り返されないと信じていました。亡命者の身辺がより守られ、より安全になったと信じていました。それなのに事件は再び起き、不幸にも2人の容体はとても悪い。2人が一日も早く回復することを心から祈っています」

マリーナ・リトビネンコさん(昨年2月、筆者撮影)
マリーナ・リトビネンコさん(昨年2月、筆者撮影)

――リトビネンコ事件の教訓は生かされましたか

「今回、捜査はとても早く始まりました。長く待つ必要はありませんでした。私たちの時は捜査が開始されるまで2週間待たされました。難しい状況でした。しかし今は違います。テロ対策警察ネットワークが関与し、すでに証拠は収集されています。事件の背後に誰がいるのか、私たちは結果が出るのを待っています」

「警察も政治家も積極的に問題に取り組んでいます。(ボリス・ジョンソン外相は)ロシアを非難しました。ロシアの評価は非常に悪くなっていますが、この犯罪の背後に誰がいるのかはっきりするまでは確実なことは言えません」

――リトビネンコ事件との類似点が多いですね

「スクリパリ氏はイギリスの情報機関に協力していた二重スパイで、スパイ交換のあとソールズベリーで暮らしていました。イギリスの情報機関のために働いていたので、今回の捜査にもイギリスの情報機関が関与していると信じています」

「夫の時とよく似た事件が再び起きました。背後に誰がいるのか判明するのを待つのが正しいのだと思います。連日さまざまなニュースが報じられていますが、より大切なのは2人が回復して生の証言をすることです。そうすれば事件の背後に誰がいるのかはっきりします。感情ではなく、事実に基づくことが大切です」

――怖くありませんか

「私の人生は変わりません。夫の事件の時もそれまでと同じような日常を送るようにしました。何もなかったように暮らしました。息子は十代でとても難しい年頃でしたが、できるだけそれまで通りの生活を送れるよう努力しました」

――リトビネンコ氏やスクリパリ氏のような亡命者にはもっと警護が必要とは思いませんか

「もし他国がある国でしたいように振る舞うことができれば個人が自分の安全を守ることはできません。個人レベルの問題ではありません。その国をどう守るのかはその国が決めることです」

「私は夫と同じ悲劇が繰り返されないよう事件の背後に誰がいるのか明らかにしてほしいと訴え続けました。今回も背後に誰がいるのかを明らかにすることが大事だと思います」

――間もなくロシアの大統領選があります。今回の事件はウラジミール・プーチン大統領にとってプラスになると思いますか。それともマイナスですか

「プーチン大統領には何の助けも必要ありません。事件があってもなくてもロシアの国内では何も変わりません。プーチン大統領の再選は間違いなく、プーチン大統領の時代が6年は続くからです」

――イギリスに亡命してからロシアに帰国したことはありますか

「ロシアにはいつの日かきっと帰りたいと思っています。いつか帰国できる日が来ることを望んでいます」

警察の広報文や英メディアの報道から事件の概要をおさらいしておきましょう。

【事件概要】

グーグルマイマップで筆者作成
グーグルマイマップで筆者作成

3月4日(日曜日)午後3時47分、ソールズベリーにある公園に向かって歩くスクリパリ氏とユリアさんの姿が防犯カメラに映る。

午後4時15分、ショッピングセンター近くの公園ベンチで2人が意識不明になっているのが発見される。近くの病院に運ばれ、集中治療室で手当てを受ける。警察は身元を発表せず。

2人が最後に食事をしたレストラン(筆者撮影)
2人が最後に食事をしたレストラン(筆者撮影)

6日、テロ対策警察ネットワークが地元のウィルトシャー警察から捜査を引き継ぐ。

7日、ロンドン警視庁が「2人の症状から神経剤(a nerve agent)が使われたと断定した」と発表。2人を狙った殺人未遂事件として捜査。マーク・ローリー警視副総監は「最初に現場に駆けつけた警官の3人が病院で手当てを受け、うち1人はまだ病院で集中治療中だ」と説明。

2人と警官が手当てを受けているソールズベリー地方病院(筆者撮影)
2人と警官が手当てを受けているソールズベリー地方病院(筆者撮影)

英BBC放送によると、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)のスパイだったスクリパリ大佐は、欧州で密かに活動するロシアのスパイについてイギリスの秘密情報部(MI6)に内通していたとして04年に逮捕されます。06年8月、軍事法廷にかけられ、スパイによる大逆罪で13年の投獄を宣告されます。

1995年、MI6に二重スパイとしてリクルートされ、MI6はその見返りに10万ドルを支払ったというのがロシア連邦保安庁(FSB)の見立てです。99年に退役したあともスクリパリ氏はMI6に協力し、国家機密を漏洩していたとみられています。

ドミートリー・メドヴェージェフ露大統領時代の10年7月、米連邦捜査局(FBI)に逮捕された10人のロシア側スパイとの交換が決まり、ウィーン空港で釈放された4人にスクリパリ氏は含まれていました。10人のロシア側スパイの中には容姿端麗で「美しすぎるスパイ」として有名になったアンナ・チャップマン(36)もいました。

そのあとイギリスへの政治亡命が認められたスクリパリ氏はソールズベリーで8年間ひっそり暮らしていました。12年に妻ががんで死に、2年前には兄がロシアで死亡、昨年7月には43歳の息子が恋人とサンクトペテルブルクを旅行中に肝不全になり急死します。家族の急死が相次いだことをスクリパリ氏は不審に思っていたようです。

スクリパリ氏はロシアから国外追放になったものの、息子や娘はイギリスとロシアの間を行き来することが許されていました。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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