気仙椿で復興支援 今どきの若者は、素晴らしい!
東北・三陸海岸沿いに自生する「気仙椿」を利用した商品を開発し、被災地の暮らしを支える産業を育む気仙椿ドリームプロジェクトの佐藤武志さん(38)と渡邉さやかさん(32)の2人が5日、ロンドンで気仙椿のハンドクリームやリップスティックを売りだした。
この日、ロンドンの観光名所トラファルガー広場ではジャパン祭が開かれ、会場の一角で2人は一生懸命、気仙椿ハンドクリームのプロモーションを行った。
東日本大震災直後から被災地に入っていた佐藤さんと、大手コンピューターメーカーのコンサルタントをしていた渡邉さんが出会ったのは2011年6月。
気仙椿は2年半前の大津波にも流されず、見事な花を咲かせ、種を落とした。2人はこの生命力を活かして、地元を生かす産業を育てることができるのではないかと考えた。
寒暖の差が激しい気仙で育った椿の種から採った椿油は肌への浸透力に優れている。良質な油は食用油や髪・肌の保湿油として長年愛されてきた。
これに新たな価値を付け加えれば、世界に通用する商品を作ることができる。地域の文化と産業を活かしながら、被災地の再生につなげることができると佐藤さんと渡邉さんは考えた。
佐藤さんと渡邉さんの熱意に日本で初めて美容サロンを開いたハリウッド化粧品が製造ラインの提供を申し出た。東北支援に取り組む女性医師の会「En女医会」も商品開発に協力してくれた。
しかし、2人は壁にぶち当たる。被災地の暮らしを支えたいという思いから始めたものの、2人とも気仙椿をめぐる地元産業の仕組みをまだ十分には理解していなかった。
佐藤さんは協力者を見つけようと、地元産業の関係者を訪ね歩いた。そんなとき佐藤さんが巡りあったのが石川製油所の経営者、石川秀一さん。石川製油所は、東北にある唯一の椿製油所だった。
しかし、東日本大震災で石川さんは自宅と工場、そして最愛の息子を失い、廃業することを決めていた。佐藤さんと石川さんの息子さんは同い年。佐藤さんは石川さん宅に通いつめた。
気仙椿の生命力を活用した地元産業の育成を熱心に説く佐藤さんの熱意に、石川さんは次第に心を開いていく。しかし、石川さんには1つだけ譲れない思いがあった。
「気仙椿を単なる金儲けの道具にはしてほしくない」。地元にわずかでも雇用が生み出されなければ、いくら気仙椿の売り出しに成功できたとしても何にもならない。
障碍者就労継続支援事業所「青松館」の協力で石川さんの製油技術が引き継がれた。青松館の駐車場にプレハブ工場が建てられ、製油作業が始まった。
20人以上の女医さんたちとハリウッド化粧品の開発チームは会議を繰り返した結果、椿オイルが肌にもたらす効果を発見。女医さんたちが「自分たちが使いたいと思うハンドクリームを作ろう」と「気仙椿ハンドクリーム」を開発した。
ハンドクリームは「HEAVEN & HEART」と名付けられた。
渡邉さんは振り返る。「HEAVEN(天国)という言葉は被災を思い起こさせると心配しましたが、石川さんご夫妻に報告におうかがいしたところ、涙ぐみながら『良い名前だね』と言ってくれたのです」
「H」という文字に「I(私)」と「I(私)」をつなぐという願いが込められている。佐藤さんと渡邉さんは気仙椿リップクリームとカメリア・オイルも商品化した。
4日、ロンドンと被災地を結ぶ復興支援活動を続けている「TERP LONDON」の被災地報告会で講演した佐藤さんと渡邉さんは元商社マン、バンカー、消費者、アロマセラピストの方々を交えて、「気仙椿のブランドを説明すれば高くても買ってくれる」「やっぱり値ごろ感が大事」「オンライン販売しよう」と熱心な議論を繰り広げた。
2人が出した結論は値頃感のある気仙椿ハンドクリーム15ポンド(約2300円)、リップスティック10ポンド、カメリア・オイル20ポンド。用意した商品を完売することはできなかったが、会場に出店していた航空会社にもアプローチするなど、手応えはあった。
佐藤さんは仕事をやめて、今年1月から被災地で暮らしている。被災地通いを続ける佐藤さんを見かねて、90歳のおばあちゃん、中里大さん(90)が納屋と車を提供してくれたのだ。
気仙椿の種は放ったらかしになっている。佐藤さんは地元回りをして、「集めて持ってきてくれたら買い上げます」と伝えている。
「ロンドンで買ってくれる人がいたというだけで、地元は随分、元気になります。写真を撮って帰って、見てもらいます」
渡邉さんも大手コンピューターメーカーをやめてコンサルタントとして1本立ちした。「佐藤さんの世代は学生時代に阪神大震災を経験したボランティ第1世代。私たちは東日本大震災に突き動かされたボランティア第2世代です」
日本は長らく世界第2の経済大国という幻想に酔い、国内総生産(GDP)至上主義の道をひた走ってきた。
渡邉さんは会社の先輩の背中を追いかけることはできなかった。悲鳴が聞こえたからだ。限界が見えたからだ。渡邉さんは会社勤めのかたわら、10年間にわたって途上国支援を続けてきた。
会社を辞めたあと、ヘッドハンターからの誘いがいくつかあったが、いずれも断った。「佐藤さんはGDPを否定した世代。私たちの世代はソーシャルであることとGDPも両立させたいと考えています」
生きがいとやりがい。人との出会い、地域とのつながり。被災地の暮らしを支える産業を育むのは決して簡単なことではないが、不可能ではない。
地方が疲弊し、東京の一極集中が進む。その流れを変えられるような気がしてきた。佐藤さんと渡邉さんはその手応えをつかもうとしている。(おわり)