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北方領土 6つの顔を持つプーチン・ロシア大統領の甘い誘い

木村正人在英国際ジャーナリスト

ロシアを訪れている安倍晋三首相は日本時間の29日夕、プーチン大統領との首脳会談に臨む。同行筋によると、両首脳は北方領土問題の解決に向けて平和条約交渉を再スタートすることで合意し、共同声明を発表する見通しだ。日本メディアが一斉に伝えた。

北方領土のワナ

昨年3月、当時首相だったプーチン氏は朝日新聞など外国メディアとの会見で「両国と双方の国民にとって受け入れ可能な形で最終的に解決したいと強く願っている」と述べた。柔道家のプーチン氏は「引き分け」という日本語を使って、妥協点を見いだす姿勢を強調した。

その直後、ロシアに対して厳しい見方を持つ英誌エコノミストのエドワード・ルーカス国際部長に「北方領土問題は動くと思うか」と尋ねた。ルーカス氏は、そんなことも分からないのかという表情を浮かべて「プーチン氏が妥協するとは思えない」と一蹴した。

ルーカス氏はエコノミスト誌で中央・東欧特派員やモスクワ支局長を務めたロシア専門家だ。著書『ザ・ニュー・コールド・ウォー(新冷戦)』ではプーチン氏が石油や天然ガスを武器に欧州の結束を切り崩している様子を描いた。

プーチン氏と蜜月関係を築いたブレア英首相時代の英外務省関係者の中には、ルーカス氏の名前を出すと顔をしかめる人もいる。ルーカス氏はそれほど、プーチン氏のロシアの非人道性と欺瞞性を追及してきた。

6つの仮面

先月12日、英王立国際問題研究所(チャタムハウス)で、ルーカス氏が司会を務め、アメリカ国家情報会議でロシアを担当していたフィオナ・ヒル氏が講演した。ヒル氏は共著『ミスター・プーチン』の中で、プーチン氏をプロファイリングしている。

ヒル氏は、プーチン氏は6つの仮面を巧妙に使い分けて、ロシアの内政と外交を動かしていると指摘する。

(1)国家統制主義者

1950年代に生まれて90年代に政界に進出したプーチン氏の世代は旧ソ連が崩壊する過程を目の当たりにした。ロシアを強国として再建することを最優先にしている。

(2)帝政主義者

プーチン氏は帝政ロシアの首相ストルイピンと自分を関連付け、ストルイピンが暗殺された100周年に合わせて、大統領復帰を目指すと宣言した。ストルイピンは労働組合運動や革命運動を徹底的に弾圧する一方で、農業分野を中心に地方自治、司法・行政機構の改革を進めた。

(3)生存者

ナチス・ドイツ軍に取り囲まれたレニングラード包囲戦(41~44年)では市民100万人が死亡。プーチン氏はレニングラード包囲戦の生き残りの子供である。2人の兄は死亡したが、プーチン氏は生き残った。レニングラードは現サンクトペテルブルク。プーチン氏は常に最悪に備える生存本能を持っている。経済・金融危機に備えて、外貨準備を積み上げている。

(4)アウトサイダー

プーチン氏の家族は旧ソ連時代、インテリゲンチャ(富裕層)でもノーメンクラツーラ(支配層)でもなかった。外部の血を入れようというアンドロポフの政策でKGB(ソ連国家保安委員会)に採用された。職場もソ連国内ではなく東ドイツのしかもドレスデンという外れだった。

(5)自由市場主義者

サンクトペテルブルクの副市長時代に市場資本主義を体験。当時、ドイツやフィンランドとの合弁でジョイント・ベンチャーが設立される。しかし、プーチン氏の描く自由市場や起業は西側とはかなり異なっている。

(6)ケースオフィサー

西側の協力者を操るKGBのケースオフィサーのように人の心を操り、味方につけていく。

プーチン氏は妥協しない

おそらくプーチン氏は安倍首相との首脳会談で自由市場主義者の顔を使うに違いない。そして、ケースオフィサーのように北方領土問題で進展があるように装って日本からの経済協力を取り付けるのが狙いだろう。

エコノミスト誌のルーカス氏に小馬鹿にされるのを承知の上で、「柔道家のプーチン大統領は『マテ』『ハジメ』という柔道用語を使って北方領土問題の解決を日本に呼びかけている。ロシアは極東で中国の影響力が増大するのを恐れている。シェール革命で天然ガス価格が下がる恐れもある。ロシアは日本の技術力と投資を必要としている。北方領土問題は見込みなしか、それとも進展があると思うか」と聞いてみた。

ルーカス氏は「プーチン大統領は柔道とスシが大好きなのに、ブレークスルーは起きない。日本はいつも大きな悲しみを味わっている」と皮肉った。

ヒル氏も「残念ながら私の答えもノーだ。北方領土問題でブレークスルーは起きないと思う」と語った。ヒル氏はアメリカ・サイドから、北方領土問題が解決寸前まで進んだ橋本龍太郎元首相とボリス・エリツィン元大統領の「クラスノヤルスク会談」(97年)などに関わっていたと打ち明けた。

ヒル氏は「2000年にエリツィンは平和条約に署名するため東京に行くと約束しつつあった。そして北方領土問題を解決するはずだった。1956年の日ソ共同宣言に基づいて、少なくとも2プラス2(歯舞、色丹両島の先行返還)は実現すると思われていた」と証言する。

「しかし今、ロシアは中国に縛られている。ロシアはチェチェンと同じように領土問題で譲歩しない。ロシアは極東で差し迫った災難の兆候を見ている。中ロ国境協定が結ばれたが、領土問題は再び蒸し返される恐れがあることは誰でも知っている」とヒル氏はいう。

中国が台湾や南シナ海の問題を片付けたら、ロシアに対してどう出るか。中ロ国境に目を向ける恐れは十分にある。プーチン氏は領土問題でロシアは決して妥協しないことを中国に見せつける必要がある。北方領土はプーチン氏にとって容易に使えるカードなのだ。「プーチン氏は極東で妥協するつもりはまったくない」とヒル氏は結論付けた。

チェチェンやシリアを見よ

プーチン氏はチェチェン紛争で何人を殺害したのか見当もつかない。会場にはチェチェン独立穏健派のアフメド・ザカエフ氏の姿もあり、「プーチンはチェチェンで4万人の子供を含む25万人の市民に対する戦争犯罪に関わった」と告発した。

ヒル氏は「プーチン氏は自分がチェチェンでしたようにシリアのアサド大統領に反体制派を弾圧する時間を与えている。しかし、先進国の政治指導者はプーチン氏の本質をまったく理解していない。だから、『ミスター・プーチン』を執筆した」と話した。

チェチェンやシリアでおびただしい血が流れても眉1つ動かさないプーチン氏が北方領土問題で日本に擦り寄ってくるとは到底、思えない。日本の技術力や投資を利用して、天然ガスや石油頼みのロシア経済の構造改革を進めたいというのがプーチン氏の本音だろう。

しかし日本では、さも歯舞と色丹の2島返還が実現する可能性があるように報じられている。プーチン氏の大統領復帰で北方領土問題が進展するという論評も決して少なくない。

ヒル氏の講演会終了後、旧知の元駐モスクワ英国大使が近づいてきて、「満足の行く回答は得られたかい。旧ユーゴスラビアの外交官はいつも言っていたよ。ロシア人は、いつも最後はぶち壊しにするってね」と声をかけてきた。

「シリアが化学兵器を使った」とアメリカの情報機関が指摘し、欧米がロシアに圧力をかけようとしているこの時期に、ロシアとの経済交流を進める日本の外交感覚は、世界のメディアが集まる国際都市ロンドンから見るとかなり奇異に映る。

日本のメディアは判で押したように共同声明を評価するのだろうか。ルーカス氏やヒル氏の見立てが外れて北方領土問題が動けば、それに越したことはないのだが。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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