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「報道の自由」について微力ながら改めて考えた その1

木村正人在英国際ジャーナリスト

アルジェリア人質事件での「実名報道」を支持する記事を投稿したところたくさんのご意見をいただいた。大半は否定的な書き込みだった。当初、民放の現場で働いていた家人や知人からメディア・スクラムを回避するため安倍政権の「匿名発表」もやむなしという声があり、「メディア・スクラムは許されないが、報道の自由の出発点になる実名報道の原則を崩すことはできない」と反論したところ、「そう思うなら理由を伝えることは意味があるのではないか」と勧められて私見を発表した。

ネット読者からの反発は想像していた通りだったが、ネット上のアンケートで「匿名発表」を支持する意見が7割にのぼり、外務省で広報を担当していた30代の知人からも「どうして犠牲者を実名で報道する必要があるのか」という明確な疑義が示された。溝の広がりは僕の想像をはるかに越えていた。

これに対して、マスメディアからの説明は十分ではなかったように思う。

朝日新聞東京本社の山中季広社会部長

「今回の事件でも実名報道を原則としつつ、現場では遺族や関係者へ配慮して取材を重ねている。読者からの意見や批判にも耳を傾け、『何が起きていたのか』を掘り起こす作業を悩みながら進めている」

毎日新聞の方がより真摯に読者の疑問に答えようとしていた。

毎日新聞東京本社の丸山雅也社会部長

「アルジェリアの人質事件で、政府は遺体が帰国するまで犠牲者の名前を公表しませんでした。このため私たちは、まず親族の方々に安否を確認することに努めました。日揮から死亡の連絡を受けたことを親族に確認したうえで、記事を掲載しました。『家族が連絡を受けたと聞いた』という間接情報段階では匿名とし、別の親族に確認をとり、名前を書くことについても了解を得て実名報道に切り替えた方もいます。実名で報じる意味の一つに、安否報道の重要性があります。関係者に知人の安否をいち早く伝えることは報道の重要な役割です。特に今回は日揮が社内でも情報管理を徹底したため、1月21日朝刊で紹介したように身近な方々も情報不足に苦しんでいました。また、実名だからこそ伝わる当事者の悲しみや苦しみ、怒りがあります。その重みを社会で共有するうえで、実名報道は意義があると考えます。海外のプラント建設が日揮だけでなく協力会社の技術者らにも支えられていたこと、仕事への思いなども、実名報道だからこそ伝えられたのではないでしょうか。一方で実名報道への批判の一因が、これまでのメディア・スクラムと称される集団的過熱取材にあることを深刻に受け止めています。悲しみの中にあるご遺族らと真摯(しんし)に向き合い、深みのある記事を書く愚直な努力を積み重ねることで、応えていきたいと思っています」

「実名報道」に関して拙ブログに寄せられた否定的な意見を集約すると次のようになる。

・悲しんでいる遺族のところにマスコミがメディア・スクラムを組んで押しかけるのは許されない

・遺族が拒否する犠牲者の氏名をマスコミは何の権利があって公表するのか

・犠牲者は実名なのに取材・報道する側は匿名なのか

・遺族の気持ちが落ち着いてから報道すればいい

・マスコミは人の悲しみを飯の種にしている

・被害者よりも加害者について報道せよ

などだった。

僕は昭和59年4月に新聞記者となり、昨年6月末で新聞社を去った人間なので、マスコミの代弁者ではないが、個人的な経験に基づいて説明を試みたい。

昭和59年当時の事件広報はこんな感じだった。朝、警察署の副署長(広報担当)席に「ペラ」と呼ばれる広報資料が置いてあり、被害者の氏名、年齢、住所や事件概要が書いてあった。これに基づいて消防署の救急隊、現場周辺の聞き込み、役所や関係者らの取材をするわけだが、最初は、住所が「何丁目何番地何号」まで記され、記事にも住所が詳細に掲載されることに驚いたのを覚えている。

警察がどうして新聞社にそういう発表をするのかもわからなかったが、目撃者の証言を集めるのに新聞報道は欠かせないし、それが被害者の利益につながっていると考えられていた。こうした慣習がずっと繰り返され、社会に定着していた。私の視点は昭和59年時点から今を見つめており、今の視点で物事を見ている一部の読者と想像していた以上の食い違いが生じていることに今回、改めて気付かされた。

昭和59年当時、浅野健一氏の『犯罪報道の犯罪』が出版され、容疑者(当時は犯人と呼んでいた)の匿名報道が大きな議論になり、呼び捨てだった呼称が容疑者に改められた。新聞の大文字化に伴って住所表記が簡潔化され、個人情報保護法の施行で「匿名発表」が増えた上、インターネットの普及で「匿名」意識が社会に浸透したように思う。

戦後、日本の新聞社が深く考えて「実名報道」をしていたというより、おそらく連合国総司令部(GHQ)に指導された通りしていたのだろう。戦後、米国のソーシャル・スタディーズが小学校の「社会科」として導入されたのと同じ響きが、新聞社の「社会部」からも感じられる。

高度経済成長を経て、次第に個人の権利意識が高まり、プライバシー保護が重視されるようになった。「匿名発表」や「匿名報道」が市民権を得るようになったのに対して、マスコミは「なぜ実名報道を原則とするのか」について十分な説明を怠ってきたように思う。さらにメディア・スクラムへの対応も十分ではなく、読者の信頼を大きく損なった。紙の新聞を読まない世代の拡大と、彼らが抱く新聞不信に果たしてマスコミは気づいているのだろうか。

まず、メディア・スクラムの防止と犠牲者への配慮について繰り返しになるが、私見を述べたい。

・メディア・スクラムを含む報道被害や報道倫理の問題に関して日本新聞協会は第三者機関を設置、人権侵害の申し立てを受け付け徹底的に調査する枠組みを作って、報道倫理の透明性を高めることが不可欠だ。英国の活字メディアをめぐる苦情に対処する独立機関「報道苦情処理委員会」(PCC)の信頼も大きく揺らいでいるが、それでもPCCの取材基準には「メディアがしてはならないこと」が列挙され、「努力目標」に近い日本新聞協会の見解に比べ、明確な線引きが行われている。

・メディア・スクラムは「他社に抜かれたくない」という横並び意識から生じている。記者の署名記事を徹底し、新聞社という組織の歯車ではなく記者個人の人間性に重きを置いた新聞づくりを実現すれば、メディア・スクラムを解消する大きなきっかけになるはずだ。メディアの権力はより強い権力に対して向けられるべきで、弱い立場の犠牲者や遺族に追い打ちをかけるものであってはならない。

・犠牲者の家族への配慮について、今回、建設プラント、日揮は政府と協力して、事件発生当初から、家族のもとに連絡要員を派遣して、家族をサポートすべきだったと思う。そうすればマスコミの殺到も和らげることができたはずだ。英国では、人質事件が長期化した場合、非営利団体(NPO)から人質事件で生還した人が派遣され、家族をサポートしている。氏名を発表すれば、マスコミが殺到して、遺族の負担を増すから、「匿名発表」するという対応が果たして最善だったのか。英石油大手BPは本人確認、遺族の了解を取った上、氏名、遺影、遺族の言葉をホームページで紹介している。

日揮のホームページには「その他」として「2013/02/04 アルジェリア事件に対するお悔やみおよび献花の御礼」「このたびのアルジェリアにおける事件により、弊社プラント建設現場駐在員(日本人10名、外国人7名)の尊い命が失われました。誠に痛恨の極みであります。弊社東京本社および横浜本社に開設いたしました遙拝所および献花台には、1月23日から2月1日までの10日間で合計約8,900名にも上る、大変多くのお取引先・一般の方々からお悔やみならびに献花をいただきました。(中略)役員、社員一同、皆さまの大変温かいお心遣いに、心より深く御礼申し上げます」とある。

いくらなんでも「その他」はないのではないか。BPと日揮のどちらの方が人間的な対応だろうか。

・世間とは熱しやすく冷めやすい。関係者の心情を汲み取って、新聞に大きく載せたいと記者が思っても、なかなか取り上げてくれなくなる。世間の関心も、記者にとっては最初の読者となるデスクの関心も移ろいやすい。話題がホットなうちに取り上げて、関係者の力になりたいという心情が記者には働くが、その原点となる関係者の心情に真っ先に配慮しなければならないのは当然のことだ。英国人の友人と話すと、「新聞社に話す義務はない。でも、何かを訴えるため新聞社に話す権利を私たちは持っている」という意見だった。取材される側には「ノー」と言う権利があり、取材者はそれに配慮しなければならない。取材の最中に会社のカネもうけを考えている新聞記者は1人もいないだろう。

・遺族が紙面での氏名公表を拒否した場合でも新聞社は公表できるかについて、公表できないことを原則にした場合、報道の自由の根底が大きく揺らぐことになる。個人情報保護法で守られているのは生きている人のプライバシーであって、死者のプライバシーは遺族に密接に関係している場合にだけ保護される。しかし、ネット上で7割が「匿名発表」を支持している現状を鑑みると、「実名発表」を原則に「匿名発表」の例外をどんな場合に認めるのかの線引きを議論する必要が出てきているようにも思う。これまで警察や外務省がマスコミに情報公開してきた慣習についても、報道の自由を再認識するため法的根拠をより明確にする必要があるのではないか。

最後に僕が「報道の自由」の観点から実名報道を支持する意義を述べたい。「報道被害」や「報道の倫理」は後から派生した問題で、「報道の自由」と秤にかけることはできないと信じている。元新聞記者の方々がネット上で、自らの取材体験を懺悔する一方で、「報道の自由」に触れないことにも驚かされた。「報道の自由」が守る公益についてまったく触れない人権弁護士のエントリーにも「人権について真剣に考えたことがあるのだろうか」と驚かされた。

まずカチンの森事件の取材経験から述べたい。第二次大戦でポーランドはナチス・ドイツとソ連に分割されて、ソ連占領地域でポーランド軍の将校や知識層約2万2000人が密かに移送され、現ロシア西部スモレンスク近郊のカチンの森などで処刑された。カチンの森事件の遺族でつくる「カチン家族連盟」会長のイザベラ・サリュウシ=スコンプスカさんの祖父、ボレスワフ・スコンプスキ氏はワルシャワの司法省で働く検察官だった。1939年9月、ポーランドに侵攻したソ連軍に拘束されたスコンプスキ氏は消息を断った。ドイツ軍は43年4月、カチンの森で大量のポーランド人将校の遺体を発見したと発表した。同6月、ドイツ軍に占領されたポーランド南部クラクフの新聞に、犠牲者の一人として祖父の名前が掲載された。

イザベラさんが大切に保管する祖父の名が掲載された独占領下の新聞(木村正人撮影)
イザベラさんが大切に保管する祖父の名が掲載された独占領下の新聞(木村正人撮影)

ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督も映画『カティンの森』(2007年)の中で、ドイツ占領下の新聞でソ連軍に連行された家族の安否を確認する女性の姿を映し出している。

ソ連の独裁者スターリンはカチンの森事件を歴史から抹消するため、新聞に掲載された犠牲者の家族を強制収容所に送ったり、戦後は、ソ連とポーランドの秘密警察の特別な監視下に置いたりした。イザベラさんの父は秘密警察に「お前の父に何が起きたのか」と何度も詰問され、カチンの森について口を閉ざした。冷戦終結後の1990年、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領がソ連の関与を初めて認めて謝罪、2010年4月、プーチン露首相はポーランドのトゥスク首相とともにカチンの森で開かれた70年追悼式典に出席した。

ポーランドとロシアの雪解けが進んでも、イザベラさんの手元に残るのは、祖父の名が掲載された占領下の新聞と、収容所からカチンへの移送を指令する名簿に記された名前と日付だけだ。

(つづく)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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