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なぜ北朝鮮代表のリ・ユイル監督はなでしこジャパン「山下の1ミリ」判定を受け入れられたのか?

金明昱スポーツライター
女子北朝鮮代表のリ・ユイル監督。今後もなでしこジャパンの前に立ちはだかるだろう(写真:ロイター/アフロ)

 一瞬、嫌な予感がした――。28日に国立競技場で行われたパリ五輪出場をかけたなでしこジャパンと朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)代表の試合。0-1でリードされた北朝鮮は前半45分、MFチェ・クムオクのシュートがゴールラインを割りかけたところ、GK山下杏也加が間一髪のところで右手でかき出した。

 このシーンについて「ゴールラインを割った」と判断した北朝鮮選手たちが、両手をひろげて主審に詰め寄ったが、判定は覆らない。それでも引き下がれず、スローインを始めなかった北朝鮮選手に遅延行為でイエローカードが出されると、そのまま試合は進み前半が終了した。

 ここでふと頭によぎったのは杭州アジア大会男子サッカーの準々決勝の日本と北朝鮮の試合だ。1-2で敗れた北朝鮮の選手たちは、試合途中の日本のPK判定を不服として試合後、審判に詰め寄って大騒動になった。もしかしたら同じことにならないだろうか――。

 ゴールか、ノーゴールか。日本のメディアでは「山下の1ミリ」という表現を使っていたが、結果的にはゴールラインを割っていないことになった。微妙な判定に不満げな北朝鮮選手たちは一瞬、主審に駆け寄ろうとしていたが、それを静止したのは紛れもなくリ・ユイル監督だった。

 記者席から双眼鏡でその動きを見ていたが、選手たちにロッカールームに戻るように促し、オーストラリア人主審の判定を素直に受け入れ、後半への準備に備えていた。

韓国メディアの質問はシャットアウト

 この試合にVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)はなかったが、写真や映像を見る限りではゴールライン上にボールがかかっているのが確認できた。

 後半に追加点を許した北朝鮮は、その後1点を返したが、同点には持ち込めず1-2で敗れた。パリ五輪の切符は勝ち取れなかったが、試合後は敗戦を受け入れ、判定への抗議もなかった。最後は真っ赤に染まった3000人の在日同胞応援団に向けてあいさつをし、重い足取りでミックスゾーンを抜け、バスに乗り込んでいったが泣いている選手もいた。

 最後にリ・ユイル監督の話は聞いておきたかった。敗戦したチーム監督が長く居座るはずもないと思ったが、やはり質問は限られた。

 冒頭に韓国「東亜日報」の記者が「敗因と今後の課題」について聞いたが、「大変申し訳ないが、神経を逆なでする質問をする媒体ということで、今の質問には答えられません」と話し、韓国メディアはシャットアウト。前日の会見で国名を「北韓(プッカン)」と呼ぶ韓国記者の失言も関係しているが、昨今の南北情勢からも韓国メディアに対するピリついたムードは現場でも感じられた。

「VARが導入されていれば、大きな助けになったはず」

 個人的にこの会見のハイライトは2つあった。

 一つは、試合の判定についてのリ・ユイル監督のコメントが秀逸だったことだ。ゴールラインを割ったかの判断が難しいシーンやペナルティーエリア内で日本選手の手にあたったように見える場面もあった。そこで「VARがあったらよかったと思うか」と聞かれ、全体的な主審の判定についてこう触れた。

「もちろん、私は主審の判断を尊重します」と前置きして、こう続けた。「しかしながら、私どもにとっては、アウェー戦ということもあって、ややホームである日本チームに偏った、かばうような判定が少し見受けられたのではないかと思います。道徳的にも倫理的にも、本来であれば、アウェーで戦うゲストである私たちに対してもう少し尊重してくれる判定があっても良かったのではないかと思います。ある部分では釈然としない所もあります」。

 判定に不満があれば、公の場でこれくらいの指摘はどの国の監督もするもの。「VARを導入する、しないよりも、今回は非常に重要な一戦だったので、試合に臨む姿勢そのものが重要であったのではないか」と話しつつ、「ただ、技術的にVARが導入されていれば、大きな助けになったかと思います」と本音を口にしていた。

 とはいえ、リ・ユイル監督には「主審の判断」を尊重して受け入れるという心構えとブレない信念があるように見えた。

なでしこジャパンに敗れたものの最後まで粘り強さを見せた北朝鮮代表
なでしこジャパンに敗れたものの最後まで粘り強さを見せた北朝鮮代表写真:ロイター/アフロ

会見の最後の質問で涙を流したワケ

 もう一つは、スタジアムに駆け付けた大勢の在日コリアン応援団へ送る言葉を聞かれ、声を詰まらせて号泣したシーン。リ・ユイル監督は少しの間、言葉が出てこなかった。それだけ感慨深いものがあったのだろう。

「日本全国から私どもに声援を送り、支持してくださった同胞のサポーターの皆さまにいい結果をもたらすことができず、大変申し訳ない気持ちでいっぱい」と言葉を詰まらせ涙した。

 今回の北朝鮮選手たちは、ほとんどが初来日。もちろんリ・ユイル監督も日本に来るのは初めてだ。完全アウェーの地で不安もある中、自分たちを応援するため、大勢の在日コリアンが応援に駆け付けてくれたばかりか、投宿先には全国各地の朝鮮学校の子どもたちから寄せられた応援色紙や横断幕が送られたという。

 おそらく、代表チームスタッフも選手もこのような経験を日本でするとは思っていなかったはずだ。そもそも、国際試合となれば、ホテルとスタジアムの行き来くらいになるもの。海外でこれほど“距離の近い”支えられ方をしたのも初めての経験だろう。

 自分たちを応援してくれる人たちが、日本にたくさんいたという現実。それを目の当たりにしたリ・ユイル監督が、敗戦という結果の申し訳なさから、感極まって涙したのは自然なことなのかもしれない。

 それにしても怒ったり、涙したりと忙しいが、とても感受性豊かで、判定に不服があっても受け入れる懐の深さもある――。人間味あふれる人柄に一気に興味がわいてしまった。いつかまた、リ・ユイル監督とサッカーの話がしたい。そんなことを思わせてくれた国立競技場の夜だった。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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