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イ・ボミを追い続けた“個人的”な13年間の記憶「ブラックリスト記者」から信頼と絆に変わった日

金明昱スポーツライター
韓国でイ・ボミをインタビューする筆者。どんな時も笑顔で丁寧に答えてくれていた

 イ・ボミのインタビューを何回したのか、どれだけの記事を書いたのかはもはや思い出せない。日本の女子ゴルフツアーのトーナメント会場だけでなく、韓国ツアーにも追いかけることもあった。

 彼女がオフに参加する大小のスポンサー関連のイベントに顔を出せば、ファンクラブの忘年会にも招待してもらった。試合に出ない週に都内近郊にいるときは、個人的な時間をもらって話を聞いたりもした。2018年に出した著書「イ・ボミ『愛される力』」(光文社)の時も、韓国でたくさんの時間をもらってインタビューした記憶も新しい。

 一人のスポーツ選手をこれだけ追うことは、今後もうないかもしれないと思うと、今季限りの日本ツアー引退はやはり寂しく、感傷的にならざるを得なかった。

日本で最後の試合となった「NOBUTA GROUPマスターズGCレディース」の初日。1番ホールに集まったギャラリーとファンの数の多さは、彼女が賞金女王になった全盛期の2015、16年の記憶がよみがえらせた。「毎回、この光景が普通だった時があったな…」と最後のプレーを見届けた。出会った頃からここまで色々と迷惑をかけたなと思いを巡らせながら。

メディアの協力が必要と感じていたボミ家族

「金さんはブラックリストだったんですよ(笑)」

 ボミが引退を発表した今年、延田グループの社員でボミの現場マネージャーのイ・チェヨンさんにそう言われた。「いや、そりゃそうだろうな」とは自分でもわかっていた。当時、「週刊パーゴルフ」(現在は休刊)の記者としてゴルフツアーの現場に入っていた筆者は、日本の選手をメインに取材はしていたものの、ハングルができることもあって、当時ツアーを席巻していた韓国の選手たちにもよく声をかけて話をしていた。

 その流れで来日したばかりのボミとも顔合わせして、用もないのに声をかけに行ったりしたものだ。しかし、当時はまだ日本のファンもその存在や実力すら知らず、新聞や雑誌にも載ることすら少ない。編集長にかけあっても小さな記事にしかならなかった。

 思い出すのは2012年の年末のファンクラブに初めて呼んでもらった時のことだ。大勢ファンの集まりの中にボミがいた。キャディの清水重憲氏もいて、母・ファジャさんと父・ソクチュさん(2014年に他界)も同席していた。

 そこに母のファジャさんがわざわざ円卓のテーブルに席を用意してくれていたのだ。当時のファンクラブ会長の方からのご厚意でもあるが、2012年ごろから母・ファジャさんが筆者の顔をみるたびに「娘の記事をたくさん書いてくださいね」と腕を引っ張り、ツアー会場でボミと顔合わせさせてくれていた。多少、強引ではあるが、ボミ家族はこの時から日本のメディアの協力が必要と思っていたのかもしれない。

ボミとハヌルの2ショット撮影で「やらかした」

「それならば」とこちらも気合いが入った。母のファジャさんが惜しみない協力をしてくれると分かってからは、直接電話を入れてボミの取材をお願いしたものだった。

 ボミは心の中ではもしかしたらめんどくさいと思っていたかもしれないが、嫌な顔を一つもしたことがなかった。他社メディアに出し抜かれたくない気持ちもあって追い続けたが、「同じ韓国人だから」と、どこかでボミの優しさに甘えていたのかもしれない。

 それで全盛期にはボミへの取材はNGと事務所から言われ、何度も当時の担当者と電話でケンカをしたのも今はいい思い出だ。そのことをボミに言うと「そんなことがあったんですか。私はダメなんて一度も言ったことがないのに」と笑われた。いや、ボミ本人からは「取材は好きじゃない(笑)」とは何度も聞いているけれど。

 もう一つ、やらかしてしまったことがある。筆者がボミのマネージャーから警戒される個人的には大事件だった。ボミとキム・ハヌルの2ショットを現場でどうしても撮りたいということで、2人にツアー会場で声をかけたことがあった。公式練習中の合間にお願いしたのだが、明らかに共に不機嫌だったのは、練習の最中だったからで、表情を見たらそれが一発で分かった。

「いい記事を書いてくれて感謝」

 しかし、同年代で仲はいいがライバルで注目度の高い2人を一緒に撮ったものを雑誌に掲載したいという思いから、思い切ってお願いした。ハングルができるから2人と直接話せるというのもあるが、ものの数分、2人を引き合わせて写真を撮ることに成功。2人は笑顔だったが、内心ではイライラしていたはずだ。だって、そのすきに周囲の関係者までスマホでその様子を撮影しだしたからだ。

「ああ、これで完全にボミの取材をさせてもらえなくなる」と焦っていたのを今も忘れない。ただ、そんな多少強引な部分も、ボミは“情熱”ととらえてくれていた節がある(と思いたい)。

 いつしか「いつもいい記事を書いてくれて感謝しています」と言われることが増えた。ボミは日本語がそこまで読めないが、韓国の知人が翻訳した内容を母やボミによく送ってくれて、読んでいたのを聞いた。そうした記事が日本でのイメージアップにつながり、ファンが増え、多くの人に感謝される。これほどやりがいのある仕事はないと思ったものだった。

韓国勢は“ヒール役”のイメージかき消したイ・ボミ

 しかし、ボミが来た当初も日本の新聞や雑誌が大々的に韓国選手を取り上げることなど、あり得ない風潮があったのは事実だ。これは日本独特の報道姿勢でもあるが、日韓関係においても竹島問題(=韓国名は独島)などでこじれていて、“嫌韓”ムードもひどかった。

「その延長線上で」といっては多少強引かもしれないが、女子ゴルフにおいても韓国選手は、日本ツアーの一員であっても、全体的なムードでは完全に“ヒール役”。

そんなムードをかき消したのがボミだったのは言うまでもない。誰が声をかけても笑顔で受け答えし、ファンサービスも120%でこなす。距離感の近さから「会いに行けるプロゴルファー」とまで言われた。そして強さも相まって、一気にスターダムへと駆け上がった。

 彼女は人種や国籍を問わず、“人”と“人”が心を通わせる術を持っていた。ボミは「持って生まれた性格」というのだが、それでも日本と韓国の間をつなぐために、自分が果たすべき役割というものを常に意識していたと思う。

引退セレモニーには有志50人以上のプロが集まった(筆者撮影)
引退セレモニーには有志50人以上のプロが集まった(筆者撮影)

夫イ・ワン氏が感じた引退セレモニーの不思議な光景

 最後の試合を予選落ちで終えた日、女子プロゴルファーの有志たちが集まっての引退セレモニーには50人以上の選手集まった。俳優で夫のイ・ワン氏が「今回、とても不思議だなと思ったことが一つあるんです」と言う。それが今回の引退セレモニーでの光景だった。

「これだけ日本の選手たちが、ボミのために最後まで待ってくれて、花束をあげて、抱き合って涙を流す姿を見て驚きました。ツアーでは一緒に戦うライバルなのに、こんな関係になれることが本当に不思議に思いました。これが韓国ツアーだったらどうだろうかって。なぜボミがこれだけ愛されるのかを見られて良かったし、夫としても感謝しています」

 筆者もまた彼女の人柄に魅了された一人だ。人と人が心を通わせるために必要なことはなんなのか――。それを出会ってからたくさん学んだ。

“信頼”されたと思った瞬間

 さらにボミが様々な悩みを抱えている時に「こういうことについて金さんはどう思いますか?」と個人的な相談や質問を投げかけられた時には驚いたが、信頼されたのだと思った。顔を合わせて話すことでの積み重ねが、信頼や絆を生むことを教えてもらった気がした。

 ボミは“日韓をつないだ小さな外交官”とも言われていたが、引退したあとも日本での活動は視野に入っており、それはこれからも続くことだろう。

 長らくメディアの立場からしか支えることができなかったが、海外である日本で、少しでもボミの知名度を上げる力になることができたのであれば、日本生まれの在日コリアンである筆者にとっては、これ以上ない喜びだ。祖父母の故郷である韓国をそれでも間近で感じる機会を大いに与えてくれた選手でもあるからだ。

 むしろこちらが感謝してもしきれない。これからは選手と記者の関係ではなく、気軽に声をかけあえる友達の関係でいれれば最高だ。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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