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「李承信はこの試練を必ず乗り越える」ラグビーW杯で1試合出場にとどまった若き司令塔へ恩師が送る言葉

金明昱スポーツライター
4年後のW杯で李承信は日本代表の中心選手となれるか。これからが勝負だ(写真:松尾/アフロスポーツ)

 ラグビー日本代表のスタンドオフとして、フランスで開催されているワールドカップ(W杯)に参加した李承信は、自身のインスタグラムのストーリーズに写真とメッセージを投稿していた。

「4年前、この人みたいになりたいと思い続けてラグビーしてきた。4年後は必ず」

 この人とはコベルコ神戸スティーラーズでチームメイトの具智元のこと。笑顔で映る2ショット写真が上がっていた。

 悔しかったはずだ。W杯前のテストマッチでジャパンの10番として司令塔を担ったが、W杯では1次リーグの4試合中、メンバー入りしたのはサモア戦の1試合。出場も終了間際の後半36分と力を出し切れないままノーサイドとなった。

 その思いがインスタグラムの投稿ににじみ出ていた。そんな彼を特別な思いで見ていたのが、かつての恩師・呉英吉氏だった。

「グラウンドの隅で汗だくになってる小さな子」

「私がまだ大阪朝鮮高ラグビー部監督になって2年目の時、自分の息子のサッカーの試合の応援に行ったんです。グラウンドの隅っこで一人でラグビーボールを持って、汗だくになってる小さな子がいたんです。今どき珍しい子がいるなと思って声をかけたのですが、それが(李)承信(スンシン)との最初の出会いでした」

 懐かしそうにそう振り返るのは、在日コリアン2世で元大阪朝鮮高級学校ラグビー部監督の呉英吉(オ・ヨンギル)氏。現在は大韓ラグビー協会理事兼ラグビー韓国代表コーチ、ラグビー社会人チーム「OKファイナンシャルグループラグビー部」監督を務める。

 呉氏は大阪朝鮮高ラグビー部で8年間、監督を務め、他の強豪校に比べ少人数ながらも激戦区の大阪で7度、全国高校ラグビー大会(花園)出場に導き、2度も4強に導いた。同部監督を退任後は、トップリーグのNTTドコモでリクルーター兼育成にも携わった。

 日本代表の10番候補として急成長中の在日コリアンの李承信も大阪朝鮮高ラグビー部出身。李が同部ラグビー部に所属していた時、呉氏はNTTドコモで仕事をしていたが、同部監督の要請でバックスコーチとして李を3年間、指導した。

「彼を初めて見たのは、『おもしろい子がおるな』って思ったもんです。サッカーの試合やっているグラウンドで、一人でひたすらラグビーボールを上に投げてキャッチしたり、パスして、キックして、壁から跳ね返ったボールを無我夢中になって取りに行っているんですから。『ラグビーやってんの?僕とパスしよう』って、声をかけたのを思い出します」

 それと同時に「ニュージーランドとかでよく見かける光景やなぁ」とも感じていた。呉氏はこの小さな子がまさか日本代表の司令塔として10番を背負う選手になるとは、夢にも思っていなかった。

元大阪朝鮮高ラグビー部監督で、現在は韓国ラグビーの実業団チームで監督を務める呉英吉氏(筆者撮影)
元大阪朝鮮高ラグビー部監督で、現在は韓国ラグビーの実業団チームで監督を務める呉英吉氏(筆者撮影)

家族ぐるみの付き合い

 近くにいた母・永福(ヨンボク、故人・享年44歳)さんが、呉氏に声をかけてきた。

「『李東慶(リ・トンギョン)の妻です』と言うので驚いたんです。東慶さんは神戸朝鮮高でラグビーをして、私と同じ朝鮮大ラグビー部では僕の2つ上の先輩で、承信の父親。ラグビーボールとたわむれる承信の姿を見て納得しました」

 李東慶氏には息子が3人いる。長男・承記(スンギ)は法政大ラグビー部出身、次男・承爀(スンヒョ)は三重ホンダヒートでプレーする現役のリーグワン選手、そして末っ子が李承信となる。3人とも小学生の頃から地元・神戸のラグビースクールに通っているのだから、幼き李承信の姿は自然体そのものだった。

 ちなみに呉氏の長男・洸太(グァンテ)は三重ホンダヒートで、次男・嶺太(リョンテ)はレッドハリケーンズ大阪でプレーする現役選手。李家と呉家の子どもたちは、小学生からラグビースクールに通っていたことで、家族ぐるみの付き合いが続いた。

 大阪朝鮮高ラグビー部は全国高校ラグビー89回大会(2009年度)、90回大会(2010年度)に2年連続で4強入りを果たし、李承信ら家族も先輩たちの勇姿を花園ラグビー場で見届けていた。当時の監督は呉氏で、在日コリアンという限られた少数の戦力のなかで結果を出すその手腕は、高校ラグビー界でも有名だった。一方で、スカウティングも重要な仕事の一つだった。

「一緒に花園を目指そう」

 李承信の兄2人は大阪朝鮮高へ進学するわけだが、こんなエピソードがある。

「承信だけでなく、兄の2人も兵庫県のスクール選抜に入るほどの実力で、どうしても大阪朝鮮から花園を目指してほしかった。当時監督だった私はスカウティングもしていたので、岐阜の数河高原ラグビー場で行われた『関西ジャンボリー大会』に妻と息子を連れて行ったんです。理由は、東慶さんの子どもたちを大阪朝鮮に入れてもらうためです。バンガローのような2家族が一緒に泊まれる場所で、東慶さんと永福さんも含めていろんな話をしました。自分の息子も高校でラグビーするから、一緒に花園目指そうと」

 この時、承信はまだ小学生で、母の永福さんはがんとの闘病を続けていた頃。その事実を知りつつも家族はみなラグビーの会話で花を咲かせ、明るい未来を語り合った。幼い李承信もまた常々「兄の承爀と一緒に大阪朝鮮で花園に出たい」と言っていたという。

「3人とも神戸ラグビースクールの仲間やその親、関係者たちにすごく可愛がられていましたし、その縁とラグビーを通してたくさんの方とつながりを持っていました。だからこそ大切に育てたいとも思っていました」

「日本ラグビー界の“宝”」

 李承信が小学6年生の時、母が他界。深い悲しみを乗り越え、4年後、大阪朝鮮高に進学する。

「承信は日本ラグビー界の“宝”。本当に承信にはいろんな日本の強豪校から声がかかっていましたし、それくらい期待が大きかった逸材。預かったあとからが勝負でした」

 当時NTTドコモでリクルーターの仕事をメインにしつつ、同部のバックスコーチとして李承信を高校3年間でどう育てるのかは、大きなプレッシャーでもあった。

「原石を預かるわけですから、そこから磨きをかけるために、ほめちぎることも突き放すことも大事。ただ、それ以上に承信のラグビーに取り組む姿勢、考え方や理解度が高かったので、自分の指導をどう本人に納得させて進めていくのかとたくさん考えましたね」

ずば抜けていたラグビーセンス

 当時から李承信のラグビー能力とセンスはずば抜けていたという。

「彼が高校に入学する前に春の合宿に連れていったんですが、並大抵のレベルじゃないなと思いました。高校1年の時から適正ポジションはどこかなと探っていたのですが、とにかくどこでもできるなというのはありました。ただ、ボールをキャッチして、相手との距離、周りに選手がいたら、プレーをさせてあげたかったので、フルバックかなとか。10番のポジションもできたかなと思ったけれども、後ろでボールを持って、走り切ってパスしたりするので、それは高校でも伸ばしていくべきと思いました」

 彼の能力もそうだが、やはりラグビーに対する取り組む気持ちに驚いたという。

「努力することを惜しまないし、上手くなりたいという向上心が他の選手よりも抜きんでていました。朝練も誰よりも早く来てプレースキックを蹴っているし、何事も誰よりも率先してやる。シャイな一面があって『自分たちが花園に出られるのだろうか』と悩んだり、遠慮がちなところもありました。彼はどこでも目立つ存在だったので、自分が話題にされるのを気にする選手でした。だからそんなことを気にせず『もっと伸び伸びやれ』と伝えていましたよ」

「縛られる窮屈さがあると納得いかない」

 李承信は高校3年時には全国高校ラグビー大会(花園)にキャプテンとして出場。報徳学園との2回戦で敗れたが、高校日本代表ではキャプテンを任されるほどだった。その後、進学した帝京大学でも1年時からレギュラーとして出場したが、「よりレベルの高いラグビーをしたい」とニュージーランド留学を計画して、2年の時に大学を中退している。

ラグビーの本場・ニュージーランドでのプレーが夢でもある李承信
ラグビーの本場・ニュージーランドでのプレーが夢でもある李承信写真:アフロ

 しかしコロナ禍で海外へ渡航できず、所属先がないまま一人で過ごした時期を経て、現在のコベルコ神戸スティーラーズから声がかかるのだが、呉氏は承信が岐路に立たされるそのたびに、よく相談を受けていたという。

「彼は“縛られる窮屈さ”があるとすぐに納得いかない表情をするんです。それも彼の良さと言えばいいのか、帝京大学でラグビーしているときも楽しい反面、悩みも多かったと思います。2年時には大学選手権で流通経済大学に3回戦で負けたりして、連覇が途切れた責任感も感じていたのでしょう。一方で、高校日本代表やU―20代表の合宿や国際大会での楽しさ、伸び伸びとやりたいという欲、さらには自分に足りなかったものをもっと伸ばすにはどうしたらいいのかを考えて大学を辞めたと思います。その上でのニュージーランド留学でしたから」

 ただ、李承信の“宙ぶらりん”の状態をどうにかしなければならないと焦りがあったのは、当の本人だけでなかった。

「辞めると決めたあとも大学2年の8月ごろまでは帝京に籍が残っていたと思います。だから留学が頓挫したあとも、帝京大ラグビー部前監督の岩出雅之先生やチームメイトたちが合宿に来るのを待っていたくらいでしたから」

 それでも決心は固く、コベルコ神戸スティーラーズ入団が決まるまでは悶々としながらも1人で黙々と家の近くの公園で練習を続けていたのは有名な話だ。

「海外で本物のプロに囲まれてプレーするべき」

「彼は1人になっても強いです。その時も承信は神戸の自宅から亡くなったオモニ(母)のお墓まで毎日、走っていたそうです。人間は誰しも1人だと弱いもの。不幸があったりすると閉じこもってしまったりしますよね。悲しみや高い壁も前向きにいれば乗りこえられると、吹っ切ったのでしょう。彼は本当にラグビーメンタルが強いし、どんな状況でもポジティブに考えられる強さがある。だから今も小さい頃の承信と出会ったころの記憶が蘇るんです。あの時から何も変わってないなって」

 今回のラグビーW杯で李承信は、力を出し切る前に大会を終えた。この悔しさを晴らすのは4年後へ持ち越された。日本代表の顔になるのはこれから。もっと大きく成長してほしいと願っている。

「今は本当にたくましくも見えるし、堂々としている。そわそわしてた最初の日本代表の頃よりも落ち着いてきましたし、少しずつ風格が備わってきました。今回のW杯は出場機会に恵まれませんでしたが、必ずこの試練を乗り越えるでしょう。更なる未知の進化に何が必要なのか、4年後を逆算して色々と考えていると思います。個人的にはすぐにでもニュージーランドのスーパーラグビーなど、世界でチャレンジしてほしい。とにかく海外でホンマもんのプロフェッショナル選手に囲まれてプレーするべきです。彼がこれからどの国で、どんなラグビーをして、どんな活躍して、4年後のW杯ではどれだけ成長しているのかが楽しみです」

 そんな“教え子”の姿をこれからも温かく見守り、大きな支えになりたいと思っている。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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