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「JFL時代はゴミ収集車に乗った」サガン鳥栖で通訳・コーチ・強化部を務めた在日コリアンの半生と鳥栖愛

金明昱スポーツライター
サガン鳥栖で監督通訳、コーチ、強化部で仕事をこなした金正訓氏(写真・本人提供)

 サガン鳥栖に在籍して通算11年が経つある在日コリアンがいる。金正訓(キム・チョンフン)、年齢は33歳。

 サガン鳥栖の強化部スポーツダイレクターとして仕事をこなしていたが、12月15日に発表されたクラブの公式リリースの通り、今季限りでチームを離れることになった。

 サッカー関係者やサガン鳥栖のサポーターの中には金氏を知る人も多いだろうが、世間一般的にその名を知る人はほとんどいない。

 19歳の2006年にサガン鳥栖でプロ選手としてのキャリアをスタートさせた。

 だが、「自分の力なんてまったく通用しませんでしたね。当時、初めてサッカーが嫌いになったんですよね」と結果を残すことはできず、社会人チームやJFLを渡り歩いた。

 その後、再びサガン鳥栖から声がかかり、現役を引退すると同時に、コーチングスタッフとしてクラブに復帰した。

 鳥栖をJリーグで戦えるチームへと成長させたユン・ジョンファン監督(来季からジェフユナイテッド市原・千葉の監督に就任)の通訳を長らく務め、チームの全盛期を見届けてきた人物でもある。

 他にもトップチームコーチでの選手指導や強化部では特に新卒選手の獲得に奔走してきた。そんな彼の半生を辿りつつ、サガン鳥栖への想いと期待、これからの挑戦について聞いた。

サガン鳥栖に在籍した10年、様々な分野で仕事を任されてきた金正訓氏(筆者撮影)
サガン鳥栖に在籍した10年、様々な分野で仕事を任されてきた金正訓氏(筆者撮影)

家長昭博、本田圭佑と同じガンバジュニアユース

「最近もアキ(家長昭博)と韓国旅行に行ってきたばかりなんですよ」

 休みの合間に金は、家長と二人でつかの間のリフレッシュをしてきたことを明かしてくれた。

「そりゃもう楽しかったですよ」と笑う。韓国旅行と聞けば日本人女性、特にK-PO好きの10代が好んで行くというイメージがあるので、男二人での韓国旅行も珍しい。

「おいしいもん食べたり、ただただ、ぶらぶら街を歩く、観光するのも好きなんですよ」

 それだけ二人は仲がよく、幼少期からの腐れ縁ともいえる。

 金は大阪生まれの在日コリアン3世。5歳くらいから自然とボールを蹴り始めたが、物心ついたときにはすでにのめり込んでいた。

 当時から身体能力が高く、サッカーの才能を見出され、中学時代にはとんとん拍子でガンバ大阪ジュニアユースに入った。

 そこで出会ったのが、同い年の家長昭博(川崎フロンターレ)と本田圭佑だった。彼らは同じチームメイトで、「(3人は)どこに行くにもよく一緒だった」と振り返る。

 今でも交流が続いていて、本田がACミランでプレーしていた2年前には、家長と二人でイタリアまで飛び、3人で一緒に食事を楽しんだほどだ。

 そんな彼のサッカー人生がトントン拍子に進んでいくきっかけとなったのは、高校時代に年代別の韓国代表に選ばれてからだった。

ガンバ大阪ジュニアユース時代からの腐れ縁の金正訓、家長昭博、本田圭佑。写真は本田がACミラン在籍時にイタリアで食事したときの一枚(写真・本人提供)
ガンバ大阪ジュニアユース時代からの腐れ縁の金正訓、家長昭博、本田圭佑。写真は本田がACミラン在籍時にイタリアで食事したときの一枚(写真・本人提供)

高1の時に韓国代表候補合宿へ

 高校時代は東大阪市にある大阪朝鮮高級学校に通いながら、サッカーはガンバ大阪ユースで続けた。

 高校1年当時、大阪朝鮮高級学校のサッカー部に韓国出身のコーチがいたのだが、そのつてで「韓国代表候補の合宿に参加してみないか」と打診された。

「日本で育った僕のような在日選手が、韓国の代表候補の合宿に行くなんて、それまでなかったので正直、びっくりしました」

 韓国代表の練習拠点である坡州(パジュ)ナショナルトレーニングセンターで一週間の合宿。この時、金はガンバ大阪ユースでの試合で肉離れのケガをしていたが、「こんなチャンスはめったに訪れない」と怪我をしていることを黙ったまま、無理をして合宿に参加していた。

 当時、高校1年ながらも金と家長は、ガンバ大阪ユースではレギュラーとして試合に出場していた。日本での実績から当然、自信もあった。

 だが、「ここで洗礼を浴びました」と苦笑いする。

「初日からいきなりフィジカルをやったんです。でもガンバでは高1から高3まで合わせても、フィジカルトレーニングだったら必ず3番目くらいには入っていたんです。体力にかなり自信があったのですが、代表合宿では最下位だったんです。相当ショックでした」

 それは肉離れをしながらも走った影響もあったかもしれない。ただ、「チャンスがなくなる」とチームにはケガのことを話していなかったという。

「テーピングを巻いて紅白戦に出ましたが、前半終わって、さすがに足が上げられないほど痛くてドクターストップがかかりました」

韓国代表として03年U-17W杯出場

 もう呼ばれないだろうと諦めていた矢先、再び最終候補合宿に招集された。「紅白戦での印象が良かったみたいでした」

 7月の猛暑のなか、1カ月の合宿で23人の最終メンバーに入った。

 それから2002年にUAEで行われたAFC U-16選手権に出場。中盤のボランチとして1試合を除いてフル出場を果たし、韓国の8大会ぶり、2度目の優勝に貢献した。

 ガンバ大阪ユースで一緒にプレーしていた家長を含む同年代には、ナショナルトレセンに入っている選手が多かったが、韓国籍である金は、日本代表にはなれない。

「周りに置いていかれている」という感覚があったが、韓国代表として国際大会に出ることで、そこは満たされていたのかもしれない。

「当時、家長もそうですが、同年代の選手はナショナルトレセンに入っている選手が多かった。いずれ日本代表にもなる選手が多かったので、自分も単純に負けたくないという思いが強かったです」

 翌2003年のFIFA U-17選手権にも出場。しかし、韓国と日本では代表活動等のスケジュールの組み方が違うため、代表に呼ばれる間にガンバ大阪でポジションを失うことが多かった。

「日本に戻ってきたら、すぐに試合に出られるというのもなかったです。このジレンマがめちゃくちゃありました」

 韓国の年代別代表に選ばれたとはいえ、ガンバ大阪ユースでチームにフィットするかはまた別の話。結局、金はトップチームに昇格できなかった。

通訳だけでなく、トップチームコーチも務めてA級ライセンスも取得(写真・本人提供)
通訳だけでなく、トップチームコーチも務めてA級ライセンスも取得(写真・本人提供)

高校卒業後、初めて味わった挫折

 高校を卒業してからは1年間、所属チームはないままだった。

「Jリーグのチーム練習に参加したり、自主練もしていました。腐ることはありませんでしたが、その時は本当に精神的にきつかったです。色々とうまくいかなくて。自分はもうプロに当然行くもんやと思っていましたから、どこかで天狗になっていたところもあったと思います」

 ガンバ大阪ユースでプレーし、アンダーカテゴリーの韓国代表にまで選ばれ、U-17W杯まで出場したのだからJリーグ入りは当然のことと思ってしまっても仕方ない。

「サッカー人生で初めて味わう挫折でした」

 1年後に練習に参加してプロ入りしたチームがサガン鳥栖だった。当時19歳。想像していた世界と違っていたという。

「自分が今までやってきたサッカーとまったく違うというか。それでさえもすべて過信でした。もっと自分はできると思っていたり、こんなはずじゃなかったみたいなところがあって。現実を突きつけられて、サッカーが嫌いになってしまったんです」

 それはプロの世界という場所で、自分の実力のなさを痛感させられた部分も大きいだろう。

1年で鳥栖を退団しアマチュアチームへ

 そんな中、同時期にサガン鳥栖に移籍してきたのが元韓国代表MFユン・ジョンファンだった。のちにサガン鳥栖の監督を務め、J1昇格へ導くのだが、金にとってこの出会いが大きな転機となる。

 実際に金がユン・ジョンファンと選手生活を共にしたのは2006年の1年のみ。しかも、その年にサガン鳥栖を退団した。事実上の戦力外通告だった。

 その後、プロサッカー選手としての道を諦め、ルネス学園に進学した。

「何をしようか迷っていたときに親父が半ば強制的に入れということになったんです。そこで柔道整復師の資格を取れと言われたのですが、1カ月でやめてしまいました。長続きしなかったですね」

 そこで同学園のスポーツ科に移り、ルネス学園甲賀サッカークラブでプレーした。当時は関西社会人リーグだったが、そこで改めてサッカーの楽しさを思い出したという。

「ほんまにサッカーはもう辞めたいと思っていたところから、そこで本来のサッカーの楽しさを実感するようになったんです」

 プロのレベルを知る金だが、「みんな真剣にやっていますし、レベルは低かったけど、楽しくサッカーをしているんです」とサッカーをやりたい気持ちがふつふつと沸き始める。

「もう一度、ピリピリとした場所でやりたい」

 そう決意して、2009年からJFLのMIOびわこ草津へ入団。そこで1年間、仕事をしながらサッカーを続けた。ここでの経験が糧となった。

「親会社が産業廃棄物処理の会社だったんです。普通に朝からごみ収集車に乗って仕事をして、終わったらサッカーを続けました」

 朝8時からゴミ収集の仕事を始めて、終わるのは大体夕方。

 中々の重労働だ。給料もプロの時とは違い20万円そこそこ。

「一人で生活するには十分でした。それにあまりこういう仕事をやりたがる人は多くないと思うのですが、ここでの生活はとても充実していて、やめたいと思ったことはなかったんです。仕事ではメンタルが鍛えられましたし、JFLといってもみんな必死やし、勝負がかかったものには負けたくないし、もっと上を目指してやっている選手も多い。うまい選手も当然いました。1年間のリーグ戦がものすごく楽しかったんです」

サガン鳥栖をJ2からJ1昇格に導いたユン・ジョンファン監督。金正訓氏は約5年半、監督通訳を務めた(写真・本人提供)
サガン鳥栖をJ2からJ1昇格に導いたユン・ジョンファン監督。金正訓氏は約5年半、監督通訳を務めた(写真・本人提供)

ユン・ジョンファンからの一本の電話

 まだここでサッカーを続けようと思っていた矢先、連絡があったのがユン・ジョンファンからだった。

「サガン鳥栖の監督になるから、通訳で来ないかと声をかけていただいたんです。自分は最終的には指導者を目指していたし、とてもいいチャンスだと思ったので、ありがたい話でした。実は当時、もしユンさんから声がかかったら、その時は現役をやめる時って自分でなんとなく決めていて、思いの外、早くそれがきたんですけど。(笑)でもスッキリ、現役をこれでやめると決意できました」

 2010年からヘッドコーチとなったユン・ジョンファンの通訳としてサガン鳥栖に復帰。翌2011年にS級ライセンスを取得したユン・ジョンファンが監督に就任し、2014年8月まで約5年半、通訳を務めた。

 この間、J2からJ1昇格も経験し、選手時代とは違い、チームの中でもたくさんの経験値を積んだ。

「長く監督通訳をしているともう、ユンさんが何を言いたいのかも分かります。囲み取材とかは同時通訳していたのですが、ユンさんが言う前に僕が先に言ってしまって、後からユンさんがそれを言ってるみたいなこともたまにあったり(笑)。選手に対する指導は勿論、通訳の僕に対してもものすごく厳しい人でしたが、何かサポートしてあげないといけないと思わせるのがうまい。そういう人間力がユンさんにはあります。アメとムチの使い分けがうまいのかな」

 5年半の付き合いの中でのエピソードは話せばキリがないほど、濃密な時間を過ごした。

 ユン・ジョンファンがチームを去ったあと、金はチームに残り、トップチームコーチと強化部の仕事を続けた。

 コーチ時代には指導者A級ライセンスを取得。選手時代、通訳とはまた違う目線から様々なことを学んだという。

「コーチはグラウンドの上だけが仕事ではなくて、それ以外でも相手の分析や選手のメンタルのケアもこなします。自分は試合に出てない選手を指導することが多かったです。それでも全員がプロなので、不平不満は当然あり、その中でどのように前を向かせるかのかが大事でした。数ヶ月後に『あの時の練習があったから』と言われるくらいのものを提供してあげられるのか――。そういうものを追っていた気がします」

若手と既存選手のシナジー効果を期待

また、強化部という初めてのポジションで学んだことは大きい。

「選手やスタッフの契約業務は当然、組織作り、チームは生き物で常に問題や不満等が出ます。それに対応するため時には深夜まで話し合いを行ったり、チームが勝つために、一つにまとまって戦える集団にしていくために選手やスタッフともぶつかり合わないといけません」

 その過程で今季は新人のスカウトに出かけ、来季から鳥栖に正式加入することが決まった選手もいる。大阪体育大学の林大地と明治大学の森下龍矢の2人だ。すでに林は今季、8月のセレッソ大阪戦で初ゴールを決めている。

「2人には本当に期待していて、鳥栖の将来を背負ってくれる選手になってくれると信じています」

現役引退後に一つのクラブチームで様々な部署の仕事を任される人物も珍しい(写真・本人提供)
現役引退後に一つのクラブチームで様々な部署の仕事を任される人物も珍しい(写真・本人提供)

 金の話を聞いて思うのは、紆余曲折を経て、鳥栖に在籍した11年間がとても充実していたこと。

 それこそ今季はJ1リーグ15位と残留争いとなったが、引退したフェルナンド・トーレスや元バルサのイサック・クエンカがプレーするクラブにもなった。

 実力以外のところでも注目されたりもするが、プロの世界は結果ありきの場所でもある。来季はJ1の舞台で9年目を迎えるサガン鳥栖だが、リーグ優勝はまだ道半ばだ。

 現状としてタイトル獲得の可能性はあるのか。そのあたり、チームを去った金はどのようにとらえているのかを最後に聞いてみた。

「日頃から支えて頂いている、スポンサーやファンサポーターのみなさまの大きな期待に応えていくべく、タイトルを目指し、獲得することは悲願です。でもまずはクラブ内でサガン鳥栖を確立していくことが急務だとも思います。私もJ2の苦しい時代から、J1へ昇格し、その舞台を守ってきた思いは忘れません。だから、鳥栖には鳥栖なりのパワーの出し方があるし、そのパワーを持ってタイトルを獲得する、世界に鳥栖を発信していくことも可能だと確信しています。近年、鳥栖の下部組織は日本でもトップです。先に述べた新卒大学生や、ユースから若く優秀でお腹を空かせた選手が加わり、既存の選手たちといいシナジー効果を生み出せれば、また必ずいいサイクルは生まれ、躍動感のある鳥栖が戻ってくると確信します」

 チームを去ることになったが、いつかリーグ制覇する姿を見たいと思っている。そして、今後の人生についても自分の可能性の幅を広げたいと思っている。

「鳥栖では先に案じるのではなく、何事も正面からぶつかった先に本当の自分が見えてくると教えられました。また違った世界を見て自分にどんな可能性があるのかをこれからじっくり探っていきたい」

 どんな話においても、金の言葉の一つ一つには“鳥栖愛”があふれていた。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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