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「被災地の人たちに勇気と希望を」広島国際学院高校が復興をテーマに目指す全国駅伝出場

金明昱スポーツライター
5年ぶりの全国高校駅伝出場を狙う広島国際学院高校・陸上部(筆者撮影)

「平成最悪の豪雨被害」と言われた昨年7月の西日本豪雨。全国で260人以上が亡くなり、特に広島県では133人と最多の犠牲者が出た。

 あれから1年――。

 被災地はまだ復旧作業の真っただ中だが、すでに過去の出来事のように風化されつつある。それでも今もなお、懸命に生きている人たちがいるのも事実である。

 1年前、豪雨によって甚大な被害を受け、生活がままならない状況ながらも「復興」をテーマに掲げ、被災地に元気と勇気を届けようと「全国高校駅伝」出場を目指す高校がある。

 広島国際学院高校・陸上部。監督や選手たちの想いと奮闘する姿を追った。

練習場もなくなり「辛い思いばかり」

 去年の7月6日。広島国際学院高校・陸上部キャプテンの北野弘大(高3)さんは、今まで経験したこともない大雨に打たれながら、全身びしょ濡れになり自転車で帰宅した。

「これは相当あぶないな……」

 安芸郡海田町の自宅に着いたときだった。ほぼ水浸しの駐輪場に自転車を停めると、家の裏山からいきなりザザーっという音と共に土砂が崩れてきた。

「もう本当に驚きました。家は流されずに済みましたが、土砂が周辺に埋まっていたので避難もできない状態でした。まずは冷静に家の中を整理したのですが、朝になるといろんなものが散乱していて、撤去作業が大変でした。真夏だったので暑くて、体中もドロドロでしたよ」

 そう振り返る北野さんは、1年前のことを鮮明に記憶している。忘れられるはずもない。

 学校はすぐに休校となり、安否の確認が続いた。幸い、友達や部員の無事は確認できたが予断を許さない状況が毎日続いた。

「先輩や友人の家に行って、土砂や家の中を整理する作業を手伝っていました。熱中症になる子もいましたし……。その時は自分たちの生活を取り戻すことが先決でした。当時は各地からの支援物資もたくさん届いて、本当にいろんな人に支えられた日々だったことを思い出します」

 広島国際学院高校には県内約20の区と市、県外から約1500人の生徒たちが通う。比較的、豪雨被害が大きかった東広島市からは約200人、呉市からは約70人、安芸郡からは約360人の生徒が通っており、豪雨によって道路が寸断されたり、鉄道も運休となり、学校に通えない生徒がほとんどだった。

広島国際学院高校・陸上部で主将を務める北野弘大さん。「みんなを全国高校駅伝に連れていきたい」と語る(筆者撮影)
広島国際学院高校・陸上部で主将を務める北野弘大さん。「みんなを全国高校駅伝に連れていきたい」と語る(筆者撮影)

 実際、7月中旬から休校となり部活にも取り組めなくなった。

 「豪雨被害のあと、部員が集まれないもどかしさがありました。夏場は練習で距離をたくさん稼ぐ練習をするのですが、合宿もなくなり、学校の近くにある絶好の練習場所だった河川敷は洪水のように水があふれかえって、まったく使えない場所になりました。もちろん先生(監督)からも焦りが見えていました。自分たちも焦っていたので、本当にもどかしかったです……。いま思い出すと、本当にいろんなことが詰まった濃い期間でした。1年前のことを忘れることはありません。毎日、大変な時期を過ごしたし、辛い思いばかりしましたから」

今年で広島国際学院高校の陸上部監督(長距離)を務めて19年目を迎えた黒田貴久監督(筆者撮影)
今年で広島国際学院高校の陸上部監督(長距離)を務めて19年目を迎えた黒田貴久監督(筆者撮影)

「被災者になって感じた無力さ」

 広島国際学院高校で教師を務める黒田貴久さんは、同校陸上部の長距離監督でもある。同部を率いて今年で19年目になるベテラン。

 1年前の豪雨で、東広島市に自宅がある黒田監督も被災者となった。

 今でもなお、当時のことは嫌な記憶として鮮明に残っている。

「いつもは全国の天災による被害を見る側でしたが、自分が被災者になってみて、初めていかに無力なのかが分かりました。親戚たちがすぐに自分の家の庭の土砂をかき出しに救助に来てくれたんですけれども、もう何人来ようが、岩もあって土砂もあって作業が終わらない。100人よりも重機1台があったほうが楽なんだろうなと……。その日は寝られなかったですね」

1年前の西日本豪雨で、黒田監督の自宅には豪雨の影響で山から土砂が滑り落ちてきた(写真提供・黒田貴久監督)
1年前の西日本豪雨で、黒田監督の自宅には豪雨の影響で山から土砂が滑り落ちてきた(写真提供・黒田貴久監督)

 黒田監督には自分の生活を元通りにできるのかどうかと同時に、気がかりだったのが部員の状態だった。

 休校のあと、どのように部員を集めて練習を確保すべきかを考える必要があったし、夏のインターハイや冬の全国高校駅伝に向けての夏合宿を例年通りに行うべきかも、決める時期に差し掛かっていた。

 夏合宿は、部員たちの走力と士気の向上に大きく影響するからだ。

「毎年夏になると、合宿を行う前にみんなで英気を養い、士気を高めようと、保護者の方が焼肉で懇親会を開いてくれています。去年の夏は『こういう状況なのでどうしましょうか』と相談を受けたのですが、『こういう時だからこそ、みんなで集まって頑張りましょう』と話はしました」

 

 ただ、各家庭によって事情は様々だった。被災した状況では、子どもを合宿に送れる状態でなかったり、被害があった家を元通りにするためにお金がかかり、合宿の費用を捻出する余裕のない家庭も多かった。

「仮に合宿に行っても、また雨が降ったりしたら、不安のほうが大きくなるという気持ちの状態も心配でしたから、まともな練習はできませんでした」

 黒田監督や選手には不安と共に、解決しなければならない課題が山積みだった。

「以前は河川敷のここを練習場に使っていました。1年前の豪雨の影響で、今ではまったく走れない状態になり、雑草が生い茂った状態です」と説明してくれた黒田監督(筆者撮影)
「以前は河川敷のここを練習場に使っていました。1年前の豪雨の影響で、今ではまったく走れない状態になり、雑草が生い茂った状態です」と説明してくれた黒田監督(筆者撮影)

友人宅で寝泊まりしながら練習に励む選手も

 もっとも陸上部を悲惨な状況に追い込んだのが、いつも走っていた練習場がなくなってしまったことだ。

 学校から徒歩圏内の河川敷を練習場として使用していたのだが、豪雨による土砂と水で、走っていた場所がえぐりとられ、以前の形跡は何もなくなっていた。

 そんな中でどうにか自分で練習を再開した選手もいた。

 被害が大きかった呉市。道路や鉄道が寸断され、生徒たちは学校に通えなかった。

 ただ、同市に自宅がある陸上部の岩田楽也さん(高2)は、「被災してからは友達の家で一週間、寝泊まりさせてもらいながら学校に行き、長距離の練習に励んでいました」と言う。

呉市に住む岩田楽也さん。豪雨で自宅が被災し、友達の家から1週間ほど学校に通っていた。「断水が1カ月続いたのが辛かったです」と話す(筆者撮影)
呉市に住む岩田楽也さん。豪雨で自宅が被災し、友達の家から1週間ほど学校に通っていた。「断水が1カ月続いたのが辛かったです」と話す(筆者撮影)

「走る場所がなくて困っていたんですが、インターハイ出場を目標にしていたので、練習できないのはきつかったです。今年の目標は3000メートル障害でインターハイに行くことです」

 明確な目標を持った岩田さんからは、困難な状況でも前を向いて笑い飛ばす明るさがにじみ出ていた。

 現在はいつも使っていた河川敷の反対側が、練習場所として確保されるようになったが、それもごく最近のこと。環境が万全と言い難いのが実情だ。

「陸上は前に進むスポーツ。後ろを見てもしょうがない」

 こうした状況を見守るだけでは何も始まらないと、黒田監督はここで決心する。

「陸上の長距離は前に進むスポーツです。後ろを見てもしょうがないので、少しでも一歩でも半歩でも、前に進んでいくっていうことで、『復興』をテーマにして、みんなで笑いあって前を向こうと決めました。そこで立ち止まっていてもしょうがない。すべてを奪われてしまったからできないんじゃなくて、奪われてしまったからこそ、工夫をしてやっていこうと。自分もそうですが、選手にもしっかり切り替えてやっていくように伝えていきました。自分自身の動揺を、選手に悟られないようにもしないといけない。選手に言い聞かせている反面、自分にも言い聞かせながら」

 豪雨から1年が経った今、みんなが一丸となって目標にしているのが、全国高校駅伝(12月22日)だ。黒田監督にはここを最大の目標とする理由がある。

「今年が第70回目を迎える記念大会なんです。前回の記念大会は2014年の第65回大会で、私たちが中国地区の代表校として出場しました。また全国大会で被災地の人たち、支えてくれた人たちに勇気と希望を与えられればという思いでいます」

 キャプテンの北野さんも「チームのみんなを引っ張って、全国高校駅伝の出場権を勝ち取りたい。お世話になった人たちに、がんばっている姿を見せたいと思っています」と全国出場への思いを募らせる。

 ただ、そのためには県予選で1位にならなくてはならない。だが、そこには全国屈指の実力を誇る広島県の世羅高校という高い壁が存在していた。

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陸上部が練習に使っていた場所。豪雨が起こる前の写真と被害後を見比べると、どれだけ甚大な被害だったかがよくわかる(写真提供・黒田貴久監督、上下とも)
陸上部が練習に使っていた場所。豪雨が起こる前の写真と被害後を見比べると、どれだけ甚大な被害だったかがよくわかる(写真提供・黒田貴久監督、上下とも)

全国屈指の実力、世羅高校との“差”

 世羅高校(広島県世羅郡)・陸上部。同校は2018年の第69回全国高校駅伝大会に、広島県代表として15年連続48回目の出場を果たし、2位に入った。しかも全国駅伝での優勝回数は最多の9回。

 昨年の広島県駅伝大会で、広島国際学院高校は3位。全国出場は叶わなかった。

 ちなみに、昨年の県大会で1位の世羅が2時間6分35秒(全7区の所要時間)、3位の広島国際学院が2時間14分49秒だった。その差は約8分と大きい。

 「打倒・世羅」を合言葉に、選手たちは練習に励んでいるが、やはり強い選手が集まる環境にある世羅に勝つのは並大抵のことではない。

 それでもそこに挑むには理由がある。

「被害を受けたから、練習場所がなくなったからダメになったのではなく、全国駅伝出場を一つの望みにしながら取り組んでいこうと伝えています。全国に行くと、やっぱり見る世界が変わるはずなんです」

 全国大会の舞台を経験させてあげたい思いが黒田監督の言葉からにじみ出る。

 通常、全国駅伝は各都道府県の予選で1位になった代表47校が出場できる。

 ただ今年は70回目の節目の「記念大会」。新たに11地区(北海道・東北・北関東・南関東・北信越・東海・近畿・中国・四国・北九州・南九州)から11校が出場できる。

 もちろん、世羅高校に勝って県の代表になることが一番いいが、実力差は歴然としている。

現在の陸上部の練習風景。反対側が使えず、今は復旧が進んだ場所を毎日、練習場として使っている(筆者撮影)
現在の陸上部の練習風景。反対側が使えず、今は復旧が進んだ場所を毎日、練習場として使っている(筆者撮影)

強豪校“世羅”を選ばず「経験を積む」選手も

 世羅高校の強さを垣間見るエピソードを黒田監督が教えてくれた。

「県内で上位選手は世羅に行きます。その2番手、3番手の子たちがうちの陸上部に来ます。『あの子には勝てない』という劣等感だってあるでしょう。中学校時代に3年間戦ってきて、その子たちの強さを肌では感じているとは思います。ただ、うちを選んでくれた選手もいて、『あそこではできないことを広島国際学院で成し遂げたい』っていう思いを持って、来てくれている選手もいます。いまケガをしている3年生のエースの子がそうです」

 確かに部員数が約70名もいる世羅高校に行けば、なかなか試合に出られない選手もいるに違いない。そんな強豪校の環境をあえて選択しなかった選手が、広島国際学院高校にはいる。

「たくさん試合に出て、経験を積むことのほうが自分の糧になる」と、広島国際学院高校・陸上部の門をたたいたのが、長距離で現在エースの高3の兼原尚也くんだった。

「自分が成長できる環境で、練習ができているのは大きいです。それに強いところと戦うことで、モチベーションも上がります。今はケガをしていて、思うような練習ができていないもどかしさがありますが、今年は復興をテーマにして練習してきているので、全国高校駅伝に絶対に出て、そこで活躍して、助けてもらった人たちを元気にしたいです」

高3で長距離エースの兼原尚也さん。「全国高校駅伝出場が自分の一番の目標」と語る(筆者撮影)
高3で長距離エースの兼原尚也さん。「全国高校駅伝出場が自分の一番の目標」と語る(筆者撮影)

 確かに練習もままならない大変な時期を過ごしたが、「みんなで助け合う力の大切さを知ることができました」と語る。

 被災してもまた立ち上がる強い力と絆が、この陸上部には生まれつつあるのかもしれない。

「頑張っている姿を見せるのが、自分たちの恩返し」

 勝敗も最後まで戦ってみなければ分からない。

「今までは世羅という強豪校に立ち向かうのは無謀と思っていた選手たちもいた」と黒田監督は言うが、今年は違う。

 辛い経験を糧に「やればできる」という強い意志が芽生えるようになった。

 黒田監督が最後にこう言った。

「みんなで立ち上がろうという経験は、私たちに大きな転機になると思います。やっぱり私たちの高校を強くなりたいと思って選んでくれた生徒や送り出してくれた父母さんたち、僕を信じて送り出してくれた中学校の先生にも、いい思いをさせてあげたい。県や地域の人たちにも、頑張っている姿を見せるのが、自分たちの恩返しだと思っています」

 1年前は豪雨被害で練習もままならなかったが、辛い時期をようやく乗り越えた広島国際学院高校・陸上部。5年ぶりの全国高校駅伝出場に向けた挑戦は続く。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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