スーパーボウルMVPが呼び起こした元横浜マホームズの思い出
現地時間2月2日(日本時間2月3日)にフロリダ州マイアミで開催されたNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の年間王者決定戦、第54回スーパーボウルは、カンザスシティ・チーフスが31対20でサンフランシスコ・フォーティナイナーズに勝利。実に50年ぶりのチャンピオンに輝き、MVPにはクオーターバックのパトリック・マホームズ(24歳)が選ばれた。
父のパットは97年途中に横浜入りし、8月だけで3勝
ご存じの方も多いと思うが、このマホームズの父親は元メジャーリーガーのパット・マホームズ(49歳)。1994年にはミネソタ・ツインズで先発として9勝を挙げ、ボストン・レッドソックスを経て、1997年のシーズン途中に大矢明彦監督率いる横浜(現横浜DeNA)ベイスターズに入団した選手である。
当時の報道によると、横浜は当初はメジャー通算9勝のフィル・レフトウィッチの獲得に動いていたが、マホームズの映像を見た首脳陣の希望により方向転換したという。余談だが横浜に獲得を見送られたレフトウィッチは、翌年は近鉄バファローズに入団し、2年間で通算7勝10敗、防御率5.03の成績を残している。
マホームズのほうは7月初旬に来日すると、8月13日の中日ドラゴンズ戦(横浜)で先発として初勝利をマーク。8月21日には敵地・神宮で首位独走のヤクルトスワローズを相手に6回途中まで無失点で2勝目を手にするなど、この月だけで3勝を挙げて横浜の18年ぶり2位躍進にも貢献した。
ちなみにヤクルト戦で2勝目を挙げた際には、米国にいる息子が送ってくれたひまわりの種を食べてマウンドに上がったというエピソードが紹介されているが、この「息子」が今年のスーパーボウルでMVPになったパトリック。実は父とはファーストネームもミドルネームもまったく同じで、息子は正式にはパトリック・ラボン・マホームズ2世ということになる。当時の記事でも「パトリック・ジュニア君」となっていた。
話を父のパット・マホームズに戻すと、来日1年目は8月だけで3勝を挙げながら、右ヒジ遊離軟骨はく離の除去手術のため9月に帰国。翌年も残留し、俊足を買われて代走で起用されたこともあったが、“本業”では10試合の登板で0勝4敗、防御率5.98の成績に終わる。横浜の前身、大洋ホエールズ時代から長きにわたって渉外担当を務めた牛込惟浩氏(故人)は、のちに「非常に惜しいことをした」と語っていたことがあったが、マホームズはシーズン終了を待たずに退団。38年ぶりのリーグ優勝、そして日本一の歓喜の輪に加わることもなかった。
99年にメジャー復帰し「勝利を呼ぶ男」に
それでも当時のマホームズはまだ28歳。帰国後にニューヨーク・メッツと契約し、翌1999年5月にメジャー昇格を果たすと、千葉ロッテマリーンズでも采配を振ったボビー・バレンタイン監督にリリーフで重用される。ビハインドや同点の場面で彼が出ていくと、その後に味方がリードを奪うこともしばしばで、39試合の登板で8勝0敗という「勝利を呼ぶ男」になった。
この年、熾烈なワイルドカード争いの末にシンシナティ・レッズとのワンゲームプレーオフを制したメッツは、11年ぶりにポストシーズンに進出。惜しくもリーグチャンピオンシップシリーズで敗れたが、マホームズもプレーオフで4試合に登板するなど奮闘した。
だが、翌2000年は先発5試合を含む51試合に登板しながら防御率5.46と安定感を欠き、メッツが14年ぶりに出場したワールドシリーズのベンチ入りメンバーにも入ることなく、オフに退団。2001年はテキサス・レンジャーズで自己最多の56試合(先発4試合)に登板するが、これがキャリアのピークとなった。その後はシカゴ・カブス、ピッツバーグ・パイレーツでプレーし、2004年以降はマイナーリーグ、独立リーグと渡り歩いて2009年にユニフォームを脱いだ。
この時、息子のパトリックは14歳。その8年後にチーフスからドラフト1巡目指名を受け、2年目の2018年シーズンに早くもリーグMVPに選ばれる。そして3年目のシーズンにはスーパーボウルを制覇し、同MVPに──。「マホームズ」の名前が出るたびに、父パットの思い出を呼び起こされた野球ファンは、筆者だけではなかったはずだ。