メジャーの本塁打王に首位打者、セーブ王も…日米野球出場後、日本の球団でプレーした選手たち

日米野球に2度出場し、ロッテでもプレーしたフランコ。写真は2007年のメッツ時代(写真:ロイター/アフロ)

 今年は4年ぶりに日米野球が開催され、侍ジャパンが「MLBオールスターチーム」と銘打たれた選抜チームに対して、5勝1敗と大きく勝ち越した。先日の記事でも紹介したとおり、過去にはこの大会に出場し、引退後に殿堂入りしたメジャーリーガーも少なくない。

 一方で、日米野球出場後に日本の球団でプレーした選手たちもいる。ここでは1986年以降に来日した選抜チームの中から、後にNPB入りした5人を取り上げる。

ジェシー・バーフィールド(ブルージェイズ、ヤンキース/巨人)

 1986年秋、33年ぶりに来日したMLB選抜チームの一員として日米野球に出場。当時27歳で、シーズン40本塁打で初のホームラン王になったばかりと、選手としては絶頂期にあった。大会では全7試合に出場して打率.450、4本塁打、9打点の成績で、三冠王になった(本塁打はフィリーズのボン・ヘイズとタイ)。ライトからのバックホームで広島の韋駄天、高橋慶彦を刺すなど、強肩も光った。

 

 ヤンキースに在籍していた1990年にも日米野球にも出場して打率.318、両軍トップの2本塁打をマーク。その後、1993年に長嶋茂雄監督復帰1年目の巨人に入団し、開幕の横浜戦では佐々木主浩からホームランを打つ華々しいデビューを飾った。

 来日1年目でチームトップの26本塁打を放ったものの、前年に左手首を手術した影響もあって打率.215、127三振。オフに自由契約となり、ヤクルトへの移籍に合意したと伝えられたが、これを反故にしてアストロズとマイナー契約を結んだ。だが、故障の再発でメジャー返り咲きはならなかった。

ボビー・シグペン(ホワイトソックス/福岡ダイエー)

 メジャー5年目の1990年、ホワイトソックスのクローザーとしてMLB新記録(当時)のシーズン57セーブをマーク。そのオフに、MLBオールスターの一員として日米野球に出場した。大会では抑えの座をレッズのロブ・ディブルと分け合う形で4試合に投げ、計7イニングで11奪三振、失点1という成績を残した。

 前出のバーフィールドと同様、シグペンもこの年がキャリアのピークで、翌年以降は下降線をたどる。1994年は開幕からマリナーズで投げていたが、4月の終わりに解雇されると、海を渡ってダイエー入り。6月からの合流で33試合に登板し、2勝2敗12セーブ、防御率1.93の成績を残した。翌1995年も20試合に投げて1勝1敗8セーブ、防御率1.96だったが、肩の故障で6月に帰国してそのまま退団。

フリオ・フランコ(レンジャーズ、インディアンス/千葉ロッテ)

 レンジャーズに在籍していた1990年にオールスターMVPに輝き、オフの日米野球で来日。全8試合中、出場は4試合だけで打率.250、本塁打、打点はともにゼロだった。翌1991年は打率.341で初の首位打者を獲得。当時の監督はボビー・バレンタインで、そのバレンタインがロッテの監督に就任した1995年に、自身もロッテに入団した。

 ロッテではパ・リーグ3位の打率.306でチームの2位躍進に貢献するも、バレンタイン監督が1年で解任されたこともあって自身も退団。翌1996年はインディアンスで規定打席未満ながら打率.322をマークすると、そのオフには再び日米野球に出場し、今度は打率.313、1本塁打を記録した。1998年にロッテに復帰して打率.290、18本塁打の成績を残したが、またもや1年で退団。

 翌年はデビルレイズでメジャーに復帰し、その後も韓国やメキシコでのプレーを挟みながら、49歳までメジャーリーグでプレーした。2015年にはBCリーグ石川で選手兼任監督に就任。翌2016年からは韓国のロッテでコーチを務めているが、今年の6月に60歳になった際には「今でも現役でのプレーを望んでいる」と伝えられた。

アンドリュー・ジョーンズ(ブレーブス/東北楽天)

 まだ19歳だった1996年にブレーブスでメジャーデビュー。1998年に初めて30本塁打を突破し、ゴールデングラブ賞も初受賞(その後も2007年まで外野手部門で10年連続受賞)すると、そのオフに日米野球で来日。7試合の出場で打率.167と振るわなかったが、第1戦ではヤクルトの石井一久(現楽天GM)からバックスクリーンに豪快な一発を放っている。

 2005年には51本塁打、128打点でナ・リーグの二冠王に輝き、翌2006年オフに再び日米野球に出場。巨人との親善試合でソロ本塁打、全日本との第3戦ではロッテの小林宏之から2ランを放った。2008年以降はドジャース、レンジャーズなどを渡り歩き、2013年に楽天入り。四番打者として、勝負強い打撃で初のリーグ優勝、そして日本一に貢献したのは記憶に新しい。

R.J.レイノルズ(パイレーツ/横浜大洋、近鉄)

 先に取り上げた4人はいずれもメジャーでタイトルを獲得したことのある選手だが、さしたる実績もないままMLB選抜の一員として来日し、その翌年にNPB入りしたのがこのレイノルズだ。彼が出場した1990年のMLB選抜は、26人中19人までがこの年のオールスターに選出されていた選手。来日時点で球宴選出経験なしの選手は3人だけで、当時31歳でパイレーツの控え外野手という立場のレイノルズは、その豪華メンバーの中では場違いな感があった。

 パワーはないながらも、日米野球でも両打席からシュアな打撃を披露し、強肩で足も速いレイノルズには、大会期間中から日本の複数球団が目をつけていた。実際に日米野球が終わるや否や、米国への帰国を前に大洋と契約。翌1991年は8月に日本新記録の11打数連続安打(現在はタイ記録)を達成するなどセ・リーグ5位の打率.316をマークし、ゴールデングラブ賞も獲得した。

 翌年は本塁打こそ15本から19本に増えたが、打率を大きく落として自由契約になり、1993年は近鉄に移籍。3割近い打率を残しながら、再び自由契約となって日本を去った。大洋の渉外担当としてレイノルズ獲得に携わった牛込惟浩氏(故人)は、後に「遊び好きだったのが惜しまれる」と語っている。

 文字どおりオールスタープレーヤーが揃っていた1990年の来日メンバーには、後に阪神入りするグレン・デービス(アストロズ、1986年にも日米野球出場)もおり、実はNPBの助っ人予備軍が多かったことになる。

 ほかにも1986年のブルック・ジャコビー(インディアンス、後に中日)、1988年のバンス・ロー(カブス、後に中日)、1992年のシェーン・マック(ツインズ、後に巨人)らが後に日本の球団でプレーしているが、今年の日米野球に出場したMLBオールスターチームからも、将来は日本でプレーする選手が出てくるのではないか。

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