10月7日、東京ヤクルトスワローズは「戦力外通告」を発表した。例年、ヤクルトの戦力外通告は基本的に1度しか行われない。今年は1日付で9選手に対して戦力外を通告したばかりであり、この時期に追加で発表があったことにまず違和感を覚えた。

昨年の開幕前に奉納された絵馬には、どんな思いが込められていたのだろう…
昨年の開幕前に奉納された絵馬には、どんな思いが込められていたのだろう…

次の選手について、本日10月7日(金)戦力外通告をいたしましたのでお知らせします──。

そんな書き出しに続いていたのは「田中浩康選手」の文字。2004年のドラフト自由獲得枠でヤクルトに入団し、2013年シーズンはチームのキャプテンも務めた田中に対する戦力外通告の知らせ。これに続く小川淳司シニアディレクター(SD)の談話を見て、追加の発表に納得した。

「田中浩康選手とは、この事について長い時間をかけて話し合いを行ってきました。球団の希望としては、現役引退後はスワローズの指導者として協力して欲しい旨を伝えてまいりましたが、本人の現役続行への強い希望があり、残念ながらこのような結果となりました」

それは球団、そして小川SDにとっても苦渋の決断だったことをうかがわせるものだった。それにしても──と思う。運命の歯車が1つ違えば、田中は今もスワローズを代表する選手だったかもしれないし、そうなると山田哲人の2年連続トリプルスリーもなかったかもしれないのだ。

キャプテンに任命された矢先の打撃不振

時計の針を3年前の春に巻き戻してみよう。この年、就任3年目を迎えた小川監督(現SD)は、チームの新たなキャプテンに田中を任命していた。その前年、田中は初めてベストナインとゴールデングラブを同時受賞(ベストナインは2007年にも受賞)するなど、正二塁手としてチームの2年連続クライマックスシリーズ出場に貢献。2007年にレギュラーとなって以降、毎年130試合以上の出場を続けて「東京タフガイ」の異名を取り、オフには球団と総額2億5000万円(推定)で2年契約を結んだばかりだった。

年齢は開幕の時点で30歳ちょうど。選手としても脂の乗り切る頃であり、実績を鑑みてもキャプテンたるにふさわしい人材に見えた。ところが田中の野球人生は、そこから暗転していく。キャプテンを意味する「C」マークを胸に、前年に続いて一番に座った開幕戦はノーヒット。その後もバットは湿ったままで、4月25日の時点で打率は.169。チームも2年連続のCS出場から一転、最下位に沈んでいた。

田中の打率は5月に入ってようやく2割台に乗るようになっていたが、チームの低迷もあり、小川監督はセパ交流戦の最中に大ナタを振るうことを決断。5月24日に田中を二軍に落とし、代わりにプロ3年目の山田を昇格させたのだ。この日は奇しくも田中の31歳の誕生日。二軍降格はあくまでも一時的な措置と思われたが、実際にはこれ以降、田中がヤクルトのレギュラーに返り咲くことはなかった……。

田中と山田。2人の明暗はここから大きく分かれていく。

「1カ月ぐらい前からファームでは二塁を三塁、遊撃とローテーションで守ってました。(二塁のほうが)距離がない分、送球はしやすいです。ゲッツーの動きとか課題はまだまだありますけど、セカンドの定位置を取るという気持ちでやってます。試合に出たいですから」

当時、山田はそう語っている。本来は遊撃手だがこの頃は送球難に苦しんでおり、二軍では二塁も守り始めていた。その山田を、小川監督は5月25日の福岡ソフトバンクホークス戦(神宮)に七番・二塁でスタメン起用した。するといきなり2安打。驚いたのは打撃の変化だ。それまでは自他ともに認める典型的な「引っ張り専門」のバッターだったのが、この日の2本はいずれもセンターから右方向。プロ3年目を迎え、生き残るために必死の姿がそこにあった。

山田の台頭で失った”居場所”

5月29日のオリックス・バファローズ戦では初めて神宮のお立ち台に上がり「プロ3年目の山田です。僕が起爆剤になってチームを盛り上げていきたいと思います!」と、初々しさを感じさせながらも力強く宣言。交流戦14試合に出場した山田は、打率.309をマークした。一軍昇格後、初めてショートで先発した6月9日の北海道日本ハムファイターズ戦(神宮)では3失策を犯したが、これによりセカンド起用以外の選択肢はなくなった。皮肉にもこれが、8日から一軍に復帰してこの日は二塁で先発していた田中の“居場所”をなくす結果となった。

結局、その後の田中のスタメン起用は、山田が発熱による体調不良を訴えた6月15、16日のオリックス戦(京セラドーム)を除けば、6試合のみ。一方の山田は自己最多の94試合に出場し打率.283、3本塁打、9盗塁の成績を残した。田中はこの年、国内FA権を取得しており、自身ワーストの打率.225に終わっていたとはいえ、宣言すれば獲得に乗り出す球団はあったはずだ。しかし、ヤクルトとの2年契約の途中ではそれも不可能だった。

山田は翌2014年はほぼ不動の一番・セカンドとして、日本人右打者の年間最多記録を塗り替える193安打を放ち、ベストナインを受賞。2015年はトリプルスリー達成で本塁打王、MVPを獲得し、今年は前人未到の2年連続トリプルスリーを達成するなど、あっという間にスターダムにのし上がっていった。

完全に山田にポジションを奪われた田中は、昨年は外野手にも挑戦したものの、82試合の出場で打率.201。オフにはFA宣言をした上で残留したが、今季はプロ入り以来最少の31試合、スタメン2試合で、打率も.188とシーズンでは初めて2割に届かなかった。7月22日を最後に、一軍からお呼びがかかることもなかった。千載一遇のチャンスをモノにした山田と、プロ入り以来初めてといっていいほどの打撃不振ですべてを失った田中。あの2013年シーズンが、2人の運命をこれほどまでに分けてしまった。

「職人」らしい不器用な生き方にエール

田中はもともと将来の幹部候補生と言われていた選手であり、小川SDの談話を見ても「引退」を受け入れれば、何らかのポストが用意されていたのは間違いない。だが、本人の中にはこのままでは終われないという気持ちが強く残っていたのだろう。

年齢的にもまだ34歳。ヤクルトでは山田の台頭で出場機会は激減したが、出番があればまだまだやれるという自負もあるはずだ。客観的に見れば不器用な生き方かもしれないが、「職人」と呼ばれた田中らしいとも思う。今の時代、あえてそんな生き方を選ぶ選手がいてもいい。田中浩康の今後にエールを送りたい。