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あれから25年…球史に残る名勝負「10・19」よ、永遠なれ

菊田康彦フリーランスライター

そうか、あれから25年も経ったのか…。改めてそんな感慨にふけったのは昨日、10月19日のことでした。昭和のプロ野球史に刻まれた名勝負「10・19」──現在はフットボール場に姿を変えてしまった川崎球場を舞台に、今はなき近鉄バファローズ(2005年にオリックス・ブルーウェーブと統合)がパ・リーグ制覇をかけ、ロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)とダブルヘッダーの死闘を繰り広げた1988年10月19日から、ちょうど四半世紀。これを記念して「『10・19』25周年トーク&ライブ ~近鉄バファローズの一番長かった日~」なるイベントが開かれると聞き、当時スタンドでこの試合を観ていた者としては矢も盾もたまらず、足を運んできました。

「10・19」25周年イベント会場に掲げられたバナーは「猛牛マーク」入り!
「10・19」25周年イベント会場に掲げられたバナーは「猛牛マーク」入り!

会場に一歩足を踏み入れると、そこには懐かしい空気が流れていました。壁には近鉄の球団旗が掲げられ、古のユニフォームに身を包んだファンも多く見受けられます。場内のスクリーンには「10・19」の映像が映し出され、参加者はイベント開始前からそれぞれに思い出に浸っていました。

「あのまま近鉄が優勝していたら…」

四半世紀経ってもなお「10・19」がファンの心に深く刻まれているのはなぜか? その一因を語ってくれたのは、この日のトークのゲストとして登壇した当時のロッテの四番・高沢秀昭氏でした。高沢氏といえば、「10・19」のダブルヘッダーに連勝すれば優勝が決まるはずだった近鉄に対し、第2試合で同点本塁打を放って引導を渡した形になった、いわば“仇敵”です。しかし、思いのほか(?)温かい歓迎に徐々に緊張もほぐれたのか、最後のほうにこんな発言が飛び出しました。

「もし、あのまま近鉄が優勝していたら、“あの年の近鉄の最後の快進撃は凄かったな”で終わってしまっていたと思うんですよね。そういう意味では自分も寄与できたかなと思います」

まさにそのとおりだと思いました。「10・19」が、筆者も含めて特に近鉄ファンでなかった者まで魅了し、感動を与えたのにはさまざまな理由があります。前年は最下位だったチームが、西武ライオンズの一極支配のような状況だったパ・リーグに風穴を開けるべく、シーズン終盤に怒涛の快進撃を見せたこと。シーズン最後の15連戦を13日間で行うという過酷な日程を乗り越え、優勝目前まで迫っていたこと。そして当日のダブルヘッダー自体が、2試合ともそこかしこにドラマティックな要素が散りばめられた好ゲームだったこと…。

語り継がれるべき“伝説”

テレビ朝日の英断により夜9時から急きょ全国放送された第2試合の視聴率が、当時としてはパ・リーグ史上2番目の22・8パーセント(関東地区)に上るなど、一種の社会現象にまでなったのは、これらさまざまな要素があったからでしょう。ただし、高沢氏が言ったようにそのまま近鉄が優勝を決めていたら、後々まで語り継がれる“伝説”に昇華することはなかったのではないでしょうか。やはり、最後は時間制限の壁に阻まれ、試合に負けずしてペナント争いに敗れるという悲劇的なエンディングがあってこその「10・19」だったのです。

残念ながら筆者は参加できませんでしたが、このイベントは夜には場所を変えて「第2部」も開催されたそうです。当時の近鉄東京応援団長であり、現在は作家の佐野正幸氏がたびたび関連著作を世に出し、今月25日にはこの試合を収録したDVDも発売されるなど、25年を経ても「10・19」は色あせていない……と言いたいところですが、主催者によれば参加者は20周年よりも少なかったとのこと。筆者も現在発売中の『俺たちの川崎ロッテ・オリオンズ』(ベースボール・マガジン社)に当日の思い出話を寄稿していますが、間違っても「10・19」を風化させることのないよう、今後も語り継いでいかなければいけないと思っています。

フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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