Yahoo!ニュース

忘れられない燕・藤本敦士の”熱さ”

菊田康彦フリーランスライター

今シーズン限りでの引退を表明していた東京ヤクルトスワローズの藤本敦士選手が、24日に本拠地の神宮球場で行われた読売ジャイアンツ戦に代打で出場し、13年間に及んだ現役生活にピリオドを打ちました。

「♪フジモト打ったらオモロイわ」

自身の登場曲であるET-KINGの『愛しい人へ』の特別バージョンに乗って藤本選手が打席に入ったのは、6回裏のことでした。マウンド上には巨人のサイドスロー、田原誠次投手。カウント2-2から最後は低めのカーブに空振り三振でしたが、スタンドのファンからは惜しみない拍手が送られました。

阪神タイガースで正遊撃手、正二塁手として2度のリーグ優勝に貢献した藤本選手が、フリーエージェントの権利を行使してヤクルトに移籍したのは2010年のことでした。実は筆者がスポーツナビでヤクルトのコラム『燕軍戦記』の連載を始めたのが、この2010年。勝手に“同期”のように思ってきただけに、その藤本選手がユニフォームを脱ぐことには寂しさを禁じえません。

試合後の囲み会見で「(腰の状態が)自分自身の中ではもう野球をするレベルじゃないんで。それは自分でも重々わかってるし、プロのレベルじゃないし。それで引退を決意したわけですから」と話し、「13年間ホントにいろんなことがありましたけど、今考えてみれば楽しい野球人生を送れたなと思います」と自らのプロ野球人生を振り返る藤本選手を見ていると、ただただお疲れ様でしたという言葉しか思い浮かびませんでした。

執念が溢れ出たような行動

藤本選手といえば、どうしても忘れられないシーンがあります。ヤクルトに移籍してきたばかりの2010年5月1日の横浜ベイスターズ戦。宮本慎也選手のファーストゴロで三塁からホームに滑り込むもキャッチャーにブロックされると、上体を起こしてタッチを巧みにかわし、左手をベースに伸ばしました。しかし、判定はアウト。その瞬間、起き上がると同時に球審の胸倉を両手で突いて、退場を宣告されてしまったのです。

その頃、ヤクルトは5連敗で借金6となり、セ・リーグの最下位に沈んでいました。なんとか連敗を止めたい──そんな執念が溢れ出たような藤本選手の行動に胸が熱くなったのを、今でもハッキリと覚えています。

「手を出すのは良くないけど、チームがこういう状況だからああいう気迫は必要なんだ」

当時、そう話した球団関係者もいたほどです。

藤本選手にとっては、決していい思い出ではないのかもしれません。しかし、事実上の引退試合となった24日の試合前に改めてその話を持ち出してみると、少し懐かしそうに振り返ってくれました。

「熱くなりましたね。あそこはどうしても1点が欲しかったから…。自然となったんですよね。まあ、ああいうことをしちゃダメなんですけど(苦笑)」

再びユニフォームに袖を通す日を

阪神時代にはオールスターに3度出場し、2004年のアテネ五輪では日本代表としてホームランも打ちました。ヤクルトに来てからも、24日の試合後に小川淳司監督が言及したように、広島・前田健太投手のノーヒットノーランを9回1死からレフト線への二塁打で阻止。2011年のクライマックスシリーズ・ファーストステージでは貴重な同点打を放つなど、思い出に残るシーンは数々あります。それでも、あの横浜戦で見せた“熱さ”は絶対に忘れることができません。

「4年間という短い間でしたけど、ホントに自分自身成長できたと思いますし、暖かい声援があったからこそ、ここまでできたと思います」

試合後のお立ち台で、スタンドのファンに向かってそう話し、最後はナインに胴上げされてグラウンドを去った藤本選手。いつかはまた指導者として帰ってくるはずです。その時はやはりタテジマになるのかもしれませんが、「フジモン」が再びユニフォームに袖を通す日を、楽しみに待ちたいと思います。

フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

菊田康彦の最近の記事