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イラク日報から抜け落ちている自衛隊宿営地への迫撃砲攻撃

川上泰徳中東ジャーナリスト
2004年2月、サマワに到着した陸上自衛隊の車両=川上泰徳撮影

 防衛省が「存在しない」としてきた陸上自衛隊のイラク派遣時の日報が初めて公表された。2004~06年の435日分、計1万4929ページ。一見すると膨大な量だが、これでも派遣期間全体の45%にとどまる。メディアでも「残された日報は本当にこれだけか。徹底的な調査が必要だ」という声は出ているが、何が公表されていないかはかなり明確だ。

 決定的に欠けているのは自衛隊の先遣隊が2004年1月19日にサマワに到着した後、4月7日に自衛隊宿営地の近くで迫撃弾砲弾が着弾してから治安状況が悪化する同年年末までの9か月間の日報である。2004年分では実際の支援活動を担う「イラク復旧支援群」の日報は「3月1日」「7月14日」「9月22日」の3日分だけで、他にサマワの行政機関や日本の外務省などとの調整を担当する「イラク復興業務支援隊」の日報が2004年1月と2月の計26日分である。状況が悪化した2004年4月ー12月では2日分の日報しかないことになる。

●治安の鍵は過激派と部族への対策

 私は当時、朝日新聞の中東特派員としてサマワの現地で自衛隊の先遣隊が到着する様子を取材し、さらに2月8日に本体第1陣が到着し、給水、医療支援などの活動を始めた様子を日々報じた。自衛隊は当初は先に駐留を始めていたオランダ部隊の基地に間借りしていたが、その後、地元の有力部族から土地を借りて、独自の基地(=宿営地)を建設した。

 当時、自衛隊の駐留に反対するシーア派強硬派のサドル派はサマワでも強い影響力を持っていた。地元の県や警察との協力関係の構築とともに、地元の部族勢力との信頼関係や協力関係をつくることは、自衛隊の復興支援活動の遂行だけでなく、自衛隊の安全確保のために不可欠だった。特にいまだに紛争が続くイラクやシリアでは、部族を味方につければ治安維持の役割を担うが、敵に回すと治安の攪乱に出る。

 2005年11月に国会での政府答弁によって明らかになった迫撃砲攻撃は、2004年の4月7日、同29日、8月10日、同21日、同23日、同24日、10月22日、同31日、2005年1月11日、7月4日と10日あるが、いずれも今回公表された日報には入っていない。2005年7月の日報は1日、2日、3日とあり、5日の日報もあるが、4日は抜けている。5日の日報には「サマワ宿営地付近にロケット弾着弾⇒連続発生の可能性は否定できず」と記載されていた。

 国会の政府答弁では7月4日の攻撃について、「飛翔音及び着弾音らしき音を数回確認し、宿営地内の空き地においてロケット弾によると見られる着弾痕一個及び宿営地外においてロケット弾によるとみられる着弾痕らしきもの4個を確認した」と説明している。この説明は日報に記述された情報をもとにしたと考えるのが自然であろう。

●「一つ間違えば甚大な被害に結び付いた可能性」

 さらに政府答弁では2004年10月31日の事件について、政府答弁は「隊員に被害はなかった」としながらも、「宿営地内の荷物保管用コンテナにロケット弾と思われる砲弾が貫通したと思われる痕跡を確認した」としていた。この事案は、防衛省が2015年7月に、国会の要求で提出した内部文書「イラク復興支援活動行動史」の中で「宿営地に着弾し、実際に被害が発生している事案」として次のように記述されていた。

 「現地時間午後10時30分ごろに発射されたロケット弾は、駐屯地内の地面に衝突した後、鉄製の荷物用コンテナを貫通して土嚢にあたり宿営地外に抜けており、一つ間違えば甚大な被害に結び付いた可能性もあった」

 この内部文書は「イラク派遣の成果と教訓をまとめた」もので、当然、日々の日報に基づいて記述されたものと考えられるが、今回の日報には10月31日分はない。「行動史」では4月以降の迫撃砲弾による攻撃を受けて次のような対応策が説明されていた。

 「派遣後のイラク現地においては、(陸上自衛隊が活動を)開始した直後の2004年4月7日および4月29日に宿営地傍らに迫撃砲弾が着弾する事案の発生を受けて、7月以降、宿営地の耐弾化施設の強化に着手するとともに、8月には空中監視装置(無人ヘリコプター)4機を導入して監視体制を強化した」

 自衛隊は2006年7月に2年半の駐留を経て、撤退した。その間、隊員の中から戦闘による一人の犠牲者も出さず、自衛隊が発砲することもなかった。2004年4月から10月までの治安の悪化を考えれば、自衛隊は深刻な事態として対処したはずであるが、その対応の様子は今回の日報の公表では何も分からない。国会での政府答弁やイラク派遣の「成果と教訓」をまとめた内部文書「行動史」の重大な記述のもとになった原資料である日報を破棄したとは考えにくいが、これでは自衛隊の駐留の実態も、戦闘による犠牲者を出さないで任務を終えたという成果の背景も分からないままである。

●8月に続いた迫撃砲弾による攻撃

 今回、公表された2004年の日報の一つである9月22日の日報で、「サドル派の動向」として、「迫撃砲・ロケット弾による宿営地への攻撃も否定できない状況」と記述している。この時点で、4月から始まった迫撃砲による攻撃は6回を数えている。9月22日と言えば、8月10日、21日、23日、24日と連続して続いた攻撃から約1カ月後であり、一カ月間、対応に追われて、やっと一息ついたという状況であろうと想像できる。9月22日の日報の中にも「宿営地関連施設」として「住居用2段コンテナの強化」「耐弾性強化施設の整備」という記述があるのは、8月に4回の攻撃を受けての措置であると推察できるが、日報ではその推移を知ることはできない。

 2004年当時、私は朝日新聞社の中東特派員としてカイロ、バグダッド、サマワを行き来していた。しかし、4月にサマワ市内で迫撃砲が発射されたことから、日本の新聞、テレビなどマスコミはサマワから退避した。朝日新聞はサマワにイラク人現地スタッフ5人を残して、バグダッドやカイロから日々、サマワでの取材や情報収集の指示を与えて、情勢を追っていた。

 2004年8月と10月にサマワの自衛隊宿営地に向けた迫撃砲攻撃が激化したことには、重大な事態だった。そこには反米シーア派組織のサドル派と、サマワの部族という二つの要因があった。8月初めにはイラク中部のシーア派聖地ナジャフで反米シーア派組織のサドル派と米軍との衝突が始まっており、イラク人助手は、サマワの地元警察の見方として、8月10日の自衛隊宿営地に向けた迫撃砲弾攻撃については同派が絡んでいる可能性が強いという見方を送ってきた。オランダ軍宿営地への迫撃砲弾攻撃もあった。しかし、8月下旬から9月初めにかけてサドル派と米軍の間で停戦が合意され、ナジャフの米軍攻撃は収まった。

●自衛隊攻撃の背景に周辺部族の不満?

 ところがサマワでは10月に自衛隊宿営地に対する迫撃砲攻撃が再燃した。サドル派の軍団は停戦合意後、イラク南部全域で武装活動をほぼ停止した。サマワでも春以降、軍団が繰り返してきたと見られる警察襲撃やオランダ軍への攻撃は止まった。自衛隊宿営地への攻撃だけが続いているという奇妙な状況だった。サマワでは自衛隊に対する周辺部族の不満が絡んでいるのではないか、との見方が出ていた。

 自衛隊宿営地への迫撃砲攻撃については、自衛隊が宿営地を建設した地域に勢力を張る部族の中で、宿営地の護衛としての就職や復興事業などについて、一部の部族だけが優遇されているとして、不満が高まっているという話も出ていた。部族筋の情報によると、10月中旬に宿営地の地主を名乗る7、8人の部族関係者が宿営地に押し掛け、「我々は他の地主のように自衛隊から利益を得ていない」と訴え、自衛隊との間で険悪なムードが生まれる一幕があったという。

 その場にいた小部族の部族長の一人は、朝日新聞のイラク人の助手に「自衛隊は土地を持っている部族に対し、今のように不平等ではなく、平等に就職の機会を与えるべきだ。そうしなければ、攻撃はやまないだろう」と語ったという。8月には自衛隊宿営地の攻撃に対して、サドル派を名指ししていた地元警察が、この時に攻撃ではサドル派の関与を言わなかった。

 このような事例は、イラク・中東でのスンニ派、シーア派双方のイスラム過激派対策とともに、地域に根をはる部族対策のむずかしさとともに、重要性を物語るものである。イラクは主要産油国の一つであるが、同時に宗派抗争や過激派問題を抱える国でもあり、日本の政府であれ、企業であれ、NGOであれ、イラクに関わろうとすれば、安全を確保するためには、過激派対策と部族対策は欠かせない。サマワというイラクの部族社会の真っただ中で2年半活動した自衛隊の活動の「成果と教訓」は国民の財産である。しかし、その部分の日報は、破棄されたのか、見つからなかったのか、意図的に公表しなかったのかは分からないが、ほとんど出ていない。

●食い違う現地情報と防衛庁の発表

 サマワでの自衛隊に対する迫撃砲攻撃について、私にとってはいまだに解明されない謎がある。8月10日の迫撃砲攻撃について、防衛庁の発表は「複数回の爆発音を確認し、宿営地外において迫撃砲弾とみられる弾着痕を三個確認」となっていた。しかし、その時、サマワの現地の助手たちから宿営地で通訳や護衛などとして働くイラク人の証言として「迫撃砲弾が宿営地内に着弾した」という情報が送られてきた。

 私は宿営地で働く目撃者、地元の警察などへのさらなる取材を指示し、その情報をもとに、「陸上自衛隊の宿営地が10日未明に迫撃砲弾の攻撃を受けた事件で、2発の砲弾が土塁で囲まれた宿営地内に着弾していたことを、宿営地内に詳しい筋が朝日新聞に明らかにした」という記事を書いた。記事では「そうした報告は受けていない」という防衛庁幹部のコメントも入っていた。

 当時の防衛庁は記事について「事実ではない」と否定し、記事の訂正を求めた。私は事実を確認するために8月末にサマワに入り、改めて地元関係者にあたった。私はアラビア語で取材をするので、直接話を聞いた。宿営地ではイラク人の護衛はもちろん、通訳も24時間体制で詰めている。その日の未明に宿営地内に宿泊していたというイラク人はこう語った。

 「私は8月10日未明、自衛隊の宿営地が迫撃砲攻撃を受けたときに宿営地の中に泊まっていた。『ボム』という音で目が覚めた。かなり大きな音だったが、その後続いて、『ウーフ』というすさまじい爆発音が聞こえた。私はベッドから出て、床に伏せた。すぐに別のドーンという大きな爆発音が聞こえたが、これはかなり遠くだった。爆発音の後、近くにいたイラク人に『まだ生きているか』と聞いた。相手は『私たちはまだ生きている』と答えた」

 3発の爆発音の間隔については「それぞれ数秒程度で、離れてはいなかった。続けて着弾した」と語った。爆発後の状況について、「しばらくテントの外に出ることは出来なかった。テントの中に留まっていたが、外で自衛隊員同士が話をするのが聞こえて、攻撃が終わったことを知った。我々は外に出ることを許された。その時、時計を見たら午前2時15分を指していた。砲弾が着弾したのは午前1時半ごろだと思う」

 「砲弾は宿営地内に着弾したのか」と聞くと、「そうだ。1発は爆発していないが、2発目は爆発した。宿営地の中で、ロケットが落ちた穴を見た。4、5人の自衛隊員が囲んでいた。(穴の)直径は一メートルより少ない。それほど深い穴ではなかった。穴の回りには多くの破片が散乱していた。自衛隊員が穴に近づくことを許さなかった。しかし、自衛隊員が手袋をして、ビニール袋に破片を集めているのを見た」と語った。

 「爆発しなかった不発弾も見たのか」という質問については、「見ようとしたが、自衛隊に『危険だ。下がれ』と怒鳴られ、止められた。不発弾が処理されたことは後で人づてに聞いた」と答えた。三発目については、「宿営地の外に落ちたと聞いた。私は見てはいない。早朝、自衛隊が処理したという話を聞いたが、分からない」と答えた。

 当時、宿営地にいた別のイラク人は「現場に近づこうとしたが、普段はイラク人には英語を使う自衛隊員が、イラク人には意味が分からない日本語で怒鳴って、『こっちへ来るな』というような身振りをしているのを見て、あわててテントの中に戻った」と語った。そのイラク人はテントの中で、自治隊員の動転ぶりを思いだして、「『日本人の隊員が死んだか、けがしたのではないか』と思った。もし、そうなったら、自衛隊はサマワから出て行くかもしれない。自衛隊の仕事がなくなったら、どうしたらいいだろうと考えた」と振り返った。

 現地で取材をした限りでは、迫撃砲弾が宿営地の中に着弾したことを補強する証言しか得られなかった。取材したことがすべて正しいというつもりはないが、記事を修正する理由は見つからなかった。

 今回、400日分以上の日報が公表されるとあって、8月10日の攻撃時の状況がより詳しく分かるのではないかと思ったが、含まれていなかった。それだけでなく、2004年の状況悪化の中で、自衛隊はどのように部族対策や過激派対策を実施したのか、さらにサマワで迫撃砲攻撃が激化した時の自衛隊の対応などの「成果と教訓」を明らかにすることは、今後のイラク日報問題の調査の課題であろう。

中東ジャーナリスト

元朝日新聞記者。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに駐在し、パレスチナ紛争、イラク戦争、「アラブの春」などを現地取材。中東報道で2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。2015年からフリーランス。フリーになってベイルートのパレスチナ難民キャンプに通って取材したパレスチナ人のヒューマンストーリーを「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(岩波書店)として刊行。他に「中東の現場を歩く」(合同出版)、「『イスラム国』はテロの元凶ではない」(集英社新書)、「戦争・革命・テロの連鎖 中東危機を読む」(彩流社)など。◇連絡先:kawakami.yasunori2016@gmail.com

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