「イスラム国」1年:クウェート自爆テロで始まるISの真の脅威 サウジ、湾岸諸国で危機の始まり

「ISナジュド州」がサイトで公開したクウェート自爆テロの実行犯の「遺言」の画像

●「イスラム国(IS)ナジュド州」の犯行声明

「イスラム国(IS)」は6月29日で、樹立宣言から1周年を迎えた。この一周年を前にした26日の金曜日にチュニジアとクウェートで大規模なテロが起きた。日本でも欧米でも外国人観光客38人が殺害されたチュニジアのテロに注目が集まっているが、日本や世界への今後の影響を考えれば、クウェートでのテロは重大な意味を持つ。

特に注目すべきは、クウェートのシーア派モスクで金曜礼拝を狙った自爆テロの実行犯が、20代前半のサウジアラビア人の男だったということだ。このテロでは「イスラム国(IS)」が音声メッセージで犯行声明を出した。ISと言っても、シリアとイラクにまたがる「イラク・シリアイスラム国(ISISまたはISIL)」ではなく、「イスラム国ナジュド州」である。ナジュドとは、サウジの首都リヤドがあるアラビア半島中心部を指し、サウド王家の本拠地である。5月にサウジアラビア東部のシーア派地域のカティーフやダンマンで続いた自爆テロでも「ISナジュド州」で犯行声明が出た。サウジ国内に拠点をおくIS拠点が国境を超えて湾岸諸国でテロを始めたことは、今後の湾岸諸国でのIS危機の始まりともなりかねない。

サウジ王国の足元に生まれたIS組織が、一か月ほどの間に3件の爆弾テロを起こした。それもサウジ国内のシーア派地域だけでなく、国境を超えてクウェートまで出張った。サウジからはISISに2500人の若者が合流しているとされるが、サウジ国内にいるIS支持者やシンパとなれば、その何倍、何十倍になるだろう。クウェートのテロでサウジの若者がモスクまで乗った車の所有者は、クウェート国内のIS支持者だった。ISを支持するイスラム厳格派「サラフィー主義者」はペルシャ湾岸の各国におり、サウジのIS拠点と連携した点が、これまでになかったことである。

●実行犯の「遺言」の音声メッセージ

クウェートテロではクウェート内務省がテロの翌日の27日に、実行犯を乗せた車の運転手や車の持ち主を拘束したことを実名を出して発表した。車の持ち主はサラフィー主義者(イスラム厳格派)で、ISシンパという。さらに28日に実行犯について、1992年生まれのサウジアラビア人ファハド・カッバーア(カッバーア家のファハド)と実名を挙げて発表した。発表によると、男はテロ当日の未明にクウェート空港に到着したとされる。

さらに29日にはサウジ内務省が、ファハドがテロ前日にサウジからバーレーンの首都マナマ空港乗り換えでクウェートに移動したことを明らかにし、「今回が初めての出国で、これまでテロの関連では名前が挙がったことがなかった」としている。実行犯はクウェートでの土地勘がないことから、爆弾の手配から、標的となったモスクの選定、移動手段などすべてお膳立てされて、自爆したものとみられる。

テロ後にインターネットサイトで「イスラム国ナジュド州」を名乗って「悪魔の党派に対する戦いのためにナジュドの戦士がクウェートの(シーア派)モスクで爆弾ベルトを爆破させて、殉教作戦を実行した」とする犯行声明を出した。さらに29日にはファハド自身の「遺言」として音声メッセージは公開され、その中で、「神の敵たちよ、近いうちにお前たちに血と死の知らせをもたらし、さらなる災難にあわせてやる」と語っていた。

さらにアラビア語衛星テレビのアルアラビアはサウジでのカッバーア家の人間の証言として、「ファハドは大学を中退し、リヤドで商売をしている父親と過ごし、政府の仕事は拒否して、従兄のコネで民間の会社で職を得ていた。6月初めにカッバーア族の会合があった時にはファハドも参加していたが、周りの者たちと考え方の違いから激しい口論となり、席をけって、出て行った。彼はISの考え方に傾倒していた」という話を伝えている。

●5月にサウジ国内で連続のテロ

「イスラム国ナジュド州」による犯行声明は、5月下旬にサウジの東部のシーア派のモスクであった2週連続の爆弾テロでも名前が出た。最初は5月22日の金曜礼拝で、カティーフのシーア派モスクで自爆テロがあり、21人が死亡。翌週の29日の金曜日にはダンマンのシーア派モスクの前であった爆弾テロで4人が死んだ。カティーフのテロの後に出た犯行声明では、サウド王家について、「シーア派に対抗して国民を守ることができない」「イスラム法をないがしろにしている」と批判している。

サウジの新聞のリヤド紙などによると、サウジ内務省はカティーフやダンマンでのシーア派を標的にしたテロの後、6月3日付で、16人の「テロリストの指名手配リスト」を顔写真付きで公表し、指名手配者の逮捕につながる情報提供には一人につき百万リアル(約3000万円)の賞金を付けた。サウジ政府は国内のIS支持者のテロ活動を深刻な問題と受け止め、警戒を強め、厳しい治安措置をとっていることを示す。今回のクウェートのテロの後でも、クウェートが発表した実行犯の足取りをすぐに公表するなど、素早く対応している。

クウェートでのテロの後は、サウジアラビアと橋で結ばれているバーレーンは警戒態勢を強めていると伝えられるが、サウジ発のISテロの脅威は、クウェートやバーレーンに限らず、湾岸全域に広がることになる。さらにサウジと国境を接するヨルダンも、2014年春以降、南部地域で政府批判のデモでISの黒旗が掲げられていると伝えられている。

●サウジ国内の若者の不満

サウジで出現したIS組織が、「シーア派敵視」と「サウド王家批判」の両方向のベクトルを持つのは、現状に対する若者たちの不満とつながっているためだ。サウジの年齢中央値は2010年で26歳だった。20代、30代の若者が人口の半分以上を占めることを意味し、若者の就職や結婚が大きな問題となっている。政府が用意できる公務員や銀行など優良企業に就職できるのは全体で見れば限られ、かつてはアジアからきた外国人が従事していたサービス業にもサウジ人の若者がつくようになっている。しかし、その反面、格差がカウだしい、表面化している。

2011年にチュニジア、エジプト、リビア、シリアで若者たちが強権体制に対してデモを起こした「アラブの春」の背景には、人口中央値が二十代半ばの若い国々で、失業や格差拡大に対する若者たちの不満があるといわれたが、同様の構造はサウジにもある。「アラブの春」ではサウジや湾岸諸国でも若者たちがフェイスブックなどを通じてデモを呼びかける動きはあったが、バーレーンで多数派ながら抑圧されているシーア派の大規模デモ以外は、大きな動きにはならなかった。バーレーンのシーア派のデモも、力で抑え込まれた。

湾岸地域で最も深刻な若者問題を抱えるサウジに「アラブの春」が波及しなかったのは、政府が雇用対策や住宅対策で大金を投じて、不満懐柔策に出たためであるが、チュニジアやエジプトで始まった「自由と公正」を求める世俗的な若者運動が、サウジのイスラム的な伝統社会の価値観とは距離があったということもある。

「アラブの春」は、チュニジアやエジプトでイスラム穏健派の「ムスリム同胞団」系の政党が民主的な選挙で勝利して、政権を担うことになる。特に、アラブ世界の「情報発信の中心」であるエジプトで、イスラム色の強い新憲法が国民投票で制定されるなど、イスラム的装いをとった民主化の進展は、「アラブの春」がサウジなど湾岸地域にも「民主化」という形で波及する可能性を示すものだった。これに対して、サウジアラビアはエジプト軍のクーデターを支援して、同胞団政権をつぶし、民主化の動きは封じられた。ところが、「アラブの春」の暗転と入れ替わるように、シリア内戦からISが生まれ、「アラブの春」に絶望したアラブ世界の若者たちが大挙して、参加する動きになった。

●戦闘的サラフィー主義の系譜

ISの思想は、サウジアラビアの国是であるイスラム厳格派「サラフィー主義」が「ジハード(聖戦)」を掲げて戦闘化した「戦闘的サラフィー主義(サラフィー・ジハーディー)」である。20世紀初頭には、サウド家が、シーア派を異端視するイスラム厳格派の宗教運動「ワッハーブ主義」を取り入れ、イスラムの旗を掲げてアラビア半島を統一した。それから100年が過ぎ、いま、イラクとシリアにまたがるISISは、イラクでのシーア派の支配や、イランやレバノンのヒズボラの支援を受けるシリアのアサド政権の攻撃を受けて、戦闘的サラフィー主義で対抗している。

サウジにできた「ISナジュド州」は、ISISがサウジに拡散したように見えるが、「戦闘的サラフィー主義」というISISの思想的な根っこは、もともとサウジにある。ISISはイラク戦争後にイラクに駐留した米軍へのジハードを掲げた「イラク・アルカイダ」を名乗っていた時期もあり、サウジはサラフィー主義という思想だけでなく、イスラム義勇兵の主要な発信地であり、財政的支援が来る場所でもあった。もともと1980年代のアフガニスタンでの対ソ連軍聖戦を人的財政的に支えたのはサウジ政府であり、サウジの主要部族であったが、それが対米聖戦組織「アルカイダ」となった。2001年9月の米同時多発テロの19人の実行犯のうち15人がサウジ国籍とされた。もちろんサウジ政府がアルカイダを財政支援するのではなく、王族を含むサウジの民間からの資金がアルカイダに流れていたとされ、同様のことはISISでも続いてきたとみられている。

サウド家はアラビア半島を統一し、国家として近代化を進める過程で、ジハードを担った過激な民兵組織「イフワーン」を力で制圧した歴史を持つ。しかし、近代化や西洋との協調などに反対するサラフィー主義は、様々な局面で体制の脅威として現れ、それが戦闘集団化すれば、サウジ国内だけでなく、国際的な脅威となる。アルカイダがまさにその例だ。

1990年-91年の湾岸危機・湾岸戦争で、サウジが米軍を受け入れて、多国籍軍に協力したことは、戦後、サウジ国内で「イスラム法順守」を求めるサラフィー主義者の政府批判運動となって噴き出した。サウジ政府による体制批判デモの力による制圧や、体制批判をした宗教者の弾圧、排除など強硬措置の後、戦闘集団化したのが、アルカイダである。

●「アラブの春」暗転で出現した「イスラム国」

ISは、イラク戦争後の2004年、イラクに駐留した米軍と戦う「イラク・アルカイダ」だったが、対米聖戦のためにサウジからも数千人の若者がイラクに入ったとされる。「イラク・アルカイダ」は、2006年にイラクでスンニ派・シーア派内戦が始まった後、「イラク・イスラム国(IIS)」を名乗った。その後、この「アラブの春」で始まったシリア内戦に介入して、2013年春、「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」となり、翌14年6月にバグダディを政教一致の最高指導者カリフとする「イスラム国(IS)」を宣言した。

ISは日本人殺害を含む暴力的な異教徒排斥策をとり、さらに支配地域ので「イスラム法」の厳格な実施による処刑、シーア派モスクの破壊やイスラム以前の遺跡や美術品の破壊など、大時代的なサラフィー運動を続けている。「戦闘的サラフィー主義」が、イラクやシリアでISISという形をとるのは、イラクとシリアでのシーア派の攻勢に対抗して、スンニ派地域を防衛するため、という理屈が成り立つ。しかし、「ISナジュド州」としてサウジで拠点を持ち、湾岸地域のシーア派を敵視しながら、サウド王家支配の正統性を否定するとなれば、サウジと湾岸の全域を不安定化させかねない危険な動きとなりかねない。

●治安対策だけでは問題は終わらない

アラブ世界で現状に不満を募らせる若者のエネルギーは、「アラブの春」では自由や民主化を目指して、強権独裁に対抗しようとした。しかし、それが内戦や軍のクーデターでつぶされた後、「イスラム国」が出現し、「反シーア派、反欧米、反民主主義」の過激で急進的なイスラム主義を掲げて、王家や首長家が牛耳る湾岸の伝統権威に対抗しようとする。

クウェートでシーア派モスクを標的にしたテロがあった金曜日に、チュニジアでは観光リゾートホテルのビーチで、銃乱射があり、英国人観客など38人が殺害された。これも「ISチュニス」から犯行声明が出た。唯一、「アラブの春」の民主化プロセスが命運を保っているチュニジアで、戦闘的サラフィー主義によるテロが起こるのは、ISの「反欧米、反民主主義」の傾向を示している。クウェートの実行犯も、チュニジアの実行犯も、ともに1992年生まれの23歳である。事件後に出た写真では、過激派とは思えないような柔和な表情を見せる二人の若者が、残忍な凶行に及ぶのをみると、アラブの若者たちが陥っている闇の深さを思わずにはおれない。

チュニジアで起こったIS支持者による外国人観光客襲撃テロは、サウジアラビアや湾岸産油国でも起こりうる。イラク戦争でのバグダッド陥落後の2003年5月には、リヤドの外国人住宅地域を狙った同時多発テロが起きた例もある。日本人を含む非イスラム教徒の外国人は、シーア派とともに戦闘的サラフィー主義の標的となりうる。

この問題に対応するには、サウジと湾岸諸国で、強力な治安対策でテロに走る若者たちを取り締まる必要はあるが、若者たちの不満の源泉となっている不公正な社会の在り方が変わらなければ、若者たちの不満と怒りがさらに増幅し、行動が過激化しかねないというむずかしさがある。産油国が集まるペルシャ湾岸の真ん中にISの拠点が出現し、サウジと湾岸諸国でテロと混乱が拡散する形を取り始めたことで、日本も、世界も、「イスラム国」の本当の脅威への対応を迫られることになる。