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最終予選真っ只中で指揮官交代。日本代表監督が唾を吐きかけられた――1997年10月4日

川端康生フリーライター
(写真:アフロ)

<極私的スポーツダイアリ―>

加茂監督が唾を吐きかけられた

 それは静かな事件だった。

 場所はカザフスタンの首都(当時)、アルマトイのオルタリク・スタジアム。

 そのメインエントランスから少し横にずれた通用口で、加茂周・日本代表監督は迎えの車を待っていた。

 フランス・ワールドカップのアジア最終予選。初戦ホームでのウズベキスタン戦をカズの4得点で快勝し、上々の滑り出しに見えた日本代表だったが、その後、UAEと引き分け、韓国にも逆転負けを喫し、暗転する。

 特に山口のループシュートで先制しながら、終了間際の連続失点で敗れた韓国戦のショックは大きく、サポーターからも不安と不信の声が強くなっていた。

 そんな中、迎えたのがこの日のカザフスタン戦だった。

 日本は秋田豊のゴールで先制した。しかし、ロスタイムに失点。またしてもリードを守り切れず、格下相手にドローゲームで試合を終えることになった。

 試合終了後、記者会見を終えて、加茂が通用口に立ったのは夕方の7時ごろだっただろうか。それでもまだ夕闇の気配はなく、周囲は明るかった気がする。

 車が到着するまでの数分間、加茂のそばには3、4人の記者がいるだけで(もしかしたら協会広報がいたかもしれない)、かといってショッキングな試合直後にどう話しかければいいのか図りかね、所在なげに佇んでいるしかない、そんなわずかな時間だった。

 少し離れたところには遠路はるばる駆けつけた日本のサポーターが数人いた。それでも遠巻きに眺めているだけで、そんなサポーターと加茂の間をカザフスタン人たちが通り過ぎていた。

 何かが起きそうな、不穏な様子などまったくなかった。

 一人のサポーターが近づいてきたのはそのときだった。

 向かってきたという感じでも、走り寄ってきたわけでもなかった。まるで通りすぎるように、淡々と歩いて近づいてきたのだ。だから制する者もいなかった。

 そして、日本代表監督の顔に唾をかけた。

 それは静かな事件だった。一人の男がすっと近寄って、唾を吐きかけ、またすっと離れていった。ただ、それだけ。

 だから、怒声が飛び交うことも、警備員が飛びかかることもなかった。そばにいた僕らも、想像もしない出来事と、そのあまりに自然な顛末に、呆然と立ち尽くしていた。

 それでも、あのとき加茂監督の掌が握り締められていたのを僕は見た。

 それが自分に唾をかけた若い男に立ち向かおうとした拳だったのか、その怒りを堪えるための拳だったのかはわからない。

 でも、感情を表に出すことこそなかったが、あのとき日本代表監督は確かに掌を固く握り締めていたのだ。

 そして――およそ4時間後、日付が変わる頃、加茂監督は解任される。日本代表史上初の大会中の監督交代だった。

 1997年10月4日、まだ日本がワールドカップに出場したことがなかった時代、ソ連から分離独立したばかりの中央アジアでのことである。

※森保日本代表監督の解任が取り沙汰されています。

 この<極私的スポーツダイアリ―>は、いつもは出来事が起きた日付に掲載しているのですが、そんな解任論の高まりに20年以上前の静かな事件を思い出したので、ダイアリー的には若干(と言っても1週間)ずれますが、綴ってみることにします。

 なお「唾吐き事件」を含め、ドーハからジョホールバルまでの事件簿はこちらを→「腐ったミカン騒動に加茂監督更迭」

あの頃

 フランス・ワールドカップ最終予選は「ジョホールバルの歓喜」で完結する戦いだ。

 その前のアメリカ・ワールドカップ予選が「ドーハの悲劇」。つまり、日本はまだアジア予選を突破したことがなく、もちろんワールドカップにも出場したことがない。

 1993年に「Jリーグ」ができてサッカーブームが起き、1996年に28年ぶりに「アトランタ五輪」に出場し、そればかりか2002年の「ワールドカップ開催」も決まり……日本サッカーがグランドの内でも、スタジアムの外でも急激に成長し、存在感を示し始めていた時期、それがこの1997年である。

 サッカーの外に視野を広げれば、現在につながるデジタルの時代が幕開けた頃でもあった。

 といっても「携帯電話」の普及率がまだ25%程度。Windows95をきっかけにコンピューターが「パソコン」になり(ノートではなく、デスクトップ型がメインだった)、「インターネット」も一般的になったが、接続は「ダイヤルアップ」(FAXのように「ピーヒャラヒャラ~」という音で変換されるやつです、念のため)だった頃。

 世界に目を向ければ、東西冷戦が終結し、ソ連が崩壊。この最終予選で対戦するカザフスタン、ウズベキスタンも独立直後でまだ情報が乏しく、寒いのか暑いのか、現地での移動や食事はどうなのか。そんなことさえよくわからない状況だった。

(ちなみに、知人のカメラマンはダウンジャケット持参だったが、実際にはTシャツで過ごせるくらい暑かった。食事は韓国料理屋で摂れたが、夜道は街灯がなく真っ暗で、しかも歩道には巨大な穴が陥没していたりして危険この上なかった)

 カザフスタンからの出国は農薬でも撒きそうな小型機だったし(しかも切れ端のような搭乗券には「12」と手書きで席番号が書いてあった)、辿り着いたウズベキスタンでの両替相手はタクシーの運転手だった。

 井原正巳は「(スタジアムの)トイレが汚すぎて用を足せない」と嘆いていたし、加茂監督が唾をかけられたカザフスタンのスタジアムにはシャワールームもなかったと思う。

 だから駆けつけたサポーターもわずか「数人」。中央アジアはそれほど未知で、「遠路はるばる」な国だったのだ。

 それが1997年であり、あのときの最終予選だった。

監督経験のない代表監督

 加茂の後任に岡田コーチが就いたのも、そんな時代と環境によるものだった。

 カザフスタン、ウズベキスタンのアウェイ2連戦の最中。新たな監督を日本から呼ぶことが難しい以上、選択肢は「内部昇格」しかなかったのである。

 誤解を恐れず言えば、あのとき岡田を名監督と思っていた人は一人もいなかったと思う。なんせあの時点では、代表どころか、クラブチームを率いた経験すらなかったのだ。評価のしようがなかった。

 事実、当初はあくまでも「暫定監督」だった。

 岡田自身「他の人を呼べないから、とりあえず(次の)ウズベキスタン戦はやる」と後任を引き受けた。最終予選の残り試合も継続して指揮を執ることを決めるのは、日本に帰国してからである。

 そして岡田新監督の下、日本代表が不死鳥のように……蘇ったわけでもなかった。

 初采配のウズベキスタン戦も、日本に帰ったUAE戦も引き分け(試合後に国立で暴動が起きた。日本とは思えない光景だった)。

 加茂が解任された時点の「1勝2分1敗」は、これで「1勝4分1敗」となり、ワールドカップ出場が決まる「1位抜け」はおろか、プレーオフに望みをつなぐ「2位」も自力での可能性が消えていた。

 もはやワールドカップは風前の灯火だったのだ。

 最終的にワールドカップ出場をつかみ取れたのは、これはもう岡田の胆力と言うしかない。

 初采配で中田英寿をスタメンから外したのに始まり、荒療治とも言える手法で選手に刺激を与え、チームを変えようとした。いや、選手とチームを変える前に、まず自分が変わった(本当に別人のように変わった。鬼のようだった)。

 そして韓国、カザフスタンと連勝して2位に浮上(韓国がすでに1位突破を決めていたことと、UAEが勝ち点を伸ばせなかった面も大きい)。

 最後、イランとのプレーオフ(3位決定戦)はもうミラクルだった。それまで一度も試合に出場させたことがなかった岡野雅行を、延長戦のピッチに送り込み、Vゴールで出場権を手繰り寄せたのだ。

(ジョホールバルの歓喜はこちらに→「真夜中のVゴール」

あれから24年……

 あれから24年が経った。

 2021年の日本代表はどうするのだろう。無論、1997年とは置かれている状況はかなり違う。

 まずスケジュール。あのときは9月から11月までの2ヶ月間に、ホーム&アウェイでの戦いがほぼ毎週続いた。

 試合順に記せば、東京、アブダビ(UAE)、東京、アルマトイ(カザフスタン)、タシケント(ウズベキスタン)、東京、ソウル、東京、そしてジョホールバル。

 具体的に言えば、国立でのゲームを終えると、そのまま成田へ向かい、中東や中央アジアに飛んで試合。終わるとまた機上の人となり、東京に戻って試合。それが終わればまた……。そんな行ったり来たりの慌ただしい日々だった。

 今回はそんなジェットコースターではない。試合と試合の間にインターバルがあるから、時間的には余裕がある。

 もちろん当時の中央アジアのような遠くて未知の国にいるわけでもないから後任の選択肢もある。

 そういえばジョホールバルの後、「名将」と持ち上げられるたびに、岡田は「自分はまだ5試合しか指揮をしたことがない監督なんです」と返していたが、監督経験がまったくなかった彼にとっては、確かにこれがすべて。

 結果的に成功したとはいえ、その決断が大きな賭けだったことは言うまでもない。

 しかし今回はそんな未経験者に代表チームを任せるようなギャンブルをする必要はない。

 一方で、1997年には一人もいなかった「海外組」が多数いる。あのとき最終予選中もJリーグを行っていたが、代表選手は除外。岡田も合宿を行ってチームを立て直すことができた。

「国内組」だけだった頃にはできたそんなチーム作りは、現在は望むべくもないだろう。

 また「出場枠」も違う。

 フランス大会は「3・5」で、今回は「4・5」。あのときの最終予選では5チーム中1位(2位はプレーオフ)にならなければならなかったが、今回は6チーム中2位(3位はプレーオフ)でいい。

 加茂から岡田へと監督交代したときは「1勝2分1敗」で残りは4試合しかなかった。しかし、いま森保監督は「1勝2敗」とはいえ、まだ7試合も残している。

 そんなふうに考えれば、まだ「崖っぷち」というほどの危機ではないようにも見えるし、いや、だからこそいまが監督を代えるチャンスのようにも思える。悩ましい。

吉と出るか、凶と出るか

 いずれにしても大きな決断だ。そして監督交代が吉と出るか、凶と出るかは、結果が出るまでわからない。そんな世界でもある。

 だから、最後にまともなことと、いい加減なことを言えば――大きな決断だからこそ「誰が決めたのか」は明確にしないといけない。「誰に任せるのか」の前に。

 カザフスタンでは長沼健会長(当時)が直接、加茂に解任を告げ、会見でも「更迭します」とはっきりと口にした。「ワールドカップに行けなければ私が辞めます」と発言したこともあった。その責任と覚悟が、胆力を生み、強運を導くための最低条件だと思う。

 そして、いい加減な方。カタールに出られなければ日本サッカーがおしまい、みたいなことを言う人がいるが、そんなことはない。

 4年後の2026年(アメリカ・カナダ・メキシコ共催)ワールドカップのアジア枠は「8」である。もし万が一今回……でも次は出られる。

 もしかしたらワールドカップは2年に1度になるかもしれないし(については→「W杯隔年開催案について」

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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