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科学者バッシングで失う「国益」 在中国科学者と検証、読売報道のどこがおかしいのか?

石戸諭記者 / ノンフィクションライター
(写真:ロイター/アフロ)

 2020年秋、自民党の大物政治家、甘利明氏のブログ記事がもとになり「中国の軍事研究『千人計画』に日本学術会議が積極的に関わっている」という誤りだらけのニュースが広がった。

 損を被ったのは、バッシングが続いた中国の大学に就職した中堅科学者だった。医師の榎木英介氏、そして多くのメディアの検証によってバッシングはやがて沈静化したが、誤解を助長するような報道を続けたメディアがある。読売新聞だ。

読売新聞の論理

 読売新聞のロジックは「千人計画」とは中国の軍事研究もしくは軍事研究につながりかねない科学技術研究であり、日本人の優秀な科学者が参加することによって、結果的に中国の軍事研究に加担している—ーということになる。

 2021年に入っても精力的な報道を続けており、ついに新潮新書から『中国「見えない侵略」を可視化する』と題された書籍が出版された。

 この一冊をどう読むか。中国の大学に勤務し、自身も青年版「千人計画」に参加している日本人科学者(男性)が匿名を条件に取材に応じた。まず、千人計画の現実から整理しよう。

千人計画とは?

《千人計画の実態は、研究支援政策です。中国では、優秀な若手がアメリカの有力大学に留学したまま帰ってこないことが、長年問題視されてきました。

 分野にもよりますが、基礎科学を中心にアメリカの大学でも中国やインドからの留学生がポストを得て、研究室の主力となり論文を大量に出しています。

 読売新聞の報道では千人計画で、研究費が5年で2億円出ることが、「手厚い待遇」であると書かれていましたが、世界を見渡せば標準に過ぎません。シンガポールなど新興国では、すぐには役に立たないような基礎研究にまずは3億円を出すというところも珍しくありません。

 「千人計画」の実態は、一時期中国のトップ大学が事実上、アメリカの大学の人材輩出拠点となったことに危機感を抱いた中国政府がとった、科学者の呼び戻し政策です。彼らの狙いは中国の大学からもアメリカのようにノーベル賞を取る研究を出したい、ということに尽きます。

 研究費の助成に加えて、高騰する住宅費の手当もつけて、基礎科学を中心として優秀な研究者に中国へ帰ってきてほしいという意図があった。中国だからといって、なんでも軍事研究というのはイメージにすぎないのです。》

 ノーベル賞を狙うため、グローバルに門戸を開いた「千人計画」には、アメリカや日本からもシニアの研究者も参加したことがあった。一部で給料の二重取りなどの問題も起きたことは事実だが、それを踏まえての改革もスタートしている。

「千人計画に関連して米国内で最も問題視されたのは、米国と中国の研究機関に二重に所属し、それにより両国から補助金を受け取って研究するという問題だった。若手対象の『青年千人計画』の後継事業とされる『優秀青年科学基金項目(海外)』は、海外での仕事は辞めて帰国することを条件としている。」(毎日新聞オンライン版、2021年3月22日付

中国で国防研究に関われるのか?

読売新聞だけでなく、甘利氏周辺も問題視していたのは、千人計画に参加した科学者の中に「中国軍に近い『国防七校』と呼ばれる大学に所属していた研究者」がいたことだ。「国防七校とは、中国の軍需企業を管理する国家国防科学技術工業局に直属する北京航空航天大、北京理工大、ハルビン工業大、ハルビン工程大、南京航空航天大、南京理工大、西北工業大の七大学を指す」(読売新聞取材班、前掲書)

実態はどうなっているのか。

《当たり前の話ですが、軍事研究として予算が割かれる研究は国防上の理由から中国国籍の有無、そしてバックグラウンドの調査は入ります。

 日本人の研究者はまず予算申請の資格から問われます。そもそも研究にすら関われないのが現実です。国防七校に所属していることと、そこで何を研究しているかは別の問題です。

 例えばアメリカでは、最先端のAI研究のような競合する分野によっては中国人研究者にビザを発行しないこともあります。その点は非常にシビアです。ですが、アカデミズムのルールで動いている基礎科学の研究者はかなりの数を受け入れて、論文もばんばん発表しています。

 読売新聞や日本の政治家のように「あらゆる科学技術は軍事研究につながるから問題だ」などと短絡的な発想で判断はしていません。》

 あらゆる科学研究は軍事研究につながるという理屈は一面では正しい。例えば日本文学の研究も大衆の戦時動員に使える。心理学やSNS研究もいかにしてユーザーを戦争に協力させるかという観点から軍事に転用することが可能だ。これも当たり前のことだが、物事にはグラデーションがある。基礎科学を応用レベルにつなげるためには、いくつも超えるべき壁がある。

 世界中で研究が進んではいるものの、新型コロナウイルスの特効薬がいまだに開発されていないことを想起すればいい。これが科学のリアリズムだ。

日本の大学は競争に負けている

 《そもそも、基礎科学を知らない人たちが想像で語り過ぎていることに危機感があります。彼らの前提は日本の優秀な頭脳が中国に利用されている、というものですが、これすら事実に反しています。

 日本はもはや科学技術先進国ではありません。中国の方がはるかに先端を走っています。今やアメリカと二強といっていいでしょう。中国から出てくる論文の質が低かったというのは、もはや過去の話で、今や量も質も完全に圧倒しています。

自然科学分野では、日本は10位にまで沈みましたが、中国は1位です(参考記事: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210810/k10013192931000.html )。基礎科学研究の環境は圧倒的に中国のほうがいい。今でも成長しています。

 成長速度を野球で例えるなら、私が就職したときは日本のプロ野球で職を得て、試合をしていた。それが気がついたら、周囲のレベルも上がって、よりハイレベルなメジャーリーグ級の競争に参加している。そんな感覚です。》

 文科省が発表している「科学技術指標2021」によれば、2017年―19年にかけて自然科学系分野で中国の論文数はアメリカを抜いてトップだった。日本はすでに重要な論文を出せる国ではなく、イタリア、フランス、カナダ、インドといった国に追い抜かれている。現実的な競争相手はアジアの新興国、欧米の中堅国クラスだ。

立ち遅れる日本が直面する矛盾

《読売新聞によれば、アメリカ、韓国、日本といった国は中国よりも半導体技術が優れているとのことですが、これもすでに時代遅れの認識です。アメリカや韓国のメーカーは確かに先行していますが、日本は遅れています。中国では12nmのCPUを市販するなど、日本のCPUプロセス技術の先をいっています。日本は追い抜かれているのです。》

 彼のような科学者が中国に就職したのは、アメリカやヨーロッパの大学に日本人研究者が就職し、論文を発表していることと同じだ。グローバルに開かれたアカデミズムの世界では中国の大学で論文を書くことが「軍事転用の可能性があるからダメ」「欧米なら同じ論文でオッケー」という価値観は存在しない。

 現状、日本の科学技術政策は「選択と集中」路線に偏っている。この路線は、中国以上に国家主義的だという。前出の在中国科学者も指摘するように、中国の基礎研究はアメリカの研究環境を知る人々の提言もあって、アメリカ的な科学者に好きな研究に予算をつけ、徹底的に研究をさせるという自由路線を志向している。これに対し、日本の保守派はメディアも含めて中国以上の国家主義的な政策を取っていることを批判的に検証しない。ここには根本的な矛盾がある。

 仮に中国の大学との共同研究を規制されたとき、損をするのは日本の大学だ。リアリズムに基づく科学技術政策の議論が進まないばかりか、科学者バッシングの火種を放置する日本社会で、最終的に損なわれるのは「国益」ということになるのだろう。

記者 / ノンフィクションライター

1984年、東京都生まれ。2006年に立命館大学法学部を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。岡山支局、大阪社会部。デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍。2018年4月に独立し、フリーランスの記者、ノンフィクションライターとして活躍している。2011年3月11日からの歴史を生きる「個人」を記した著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)を出版する。デビュー作でありながら読売新聞「2017年の3冊」に選出されるなど各メディアで高い評価を得る。

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