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「なんでも軍事研究」〜読売新聞「千人計画批判本」が損なう「国益」

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

新聞協会賞は断念

 私はこれまで、読売新聞がさかんに報道する中国の「千人計画」に関する報道の問題点を指摘してきた。

 これらの記事のなかで、私は以下の点を指摘した。

  1. 日本が先端技術の中国への流出に警戒を高めているが、千人計画採択者を含め、中国へと渡る日本人研究者の多くは基礎研究者が多い。その背景には、中国が引き抜いているという理由もさることながら、国立大学法人化後の運営交付金削減や「選択と集中」政策等の結果、日本の大学の環境悪化が進行したため、日本側が積極的に海外流出を後押ししている現状がある。これは世界的に起きている「頭脳流出」「ブレインドレイン」の一つとして見るべき現象であり、日本にとって不都合な現実といえる。
  2. 読売新聞の取材の中では、軍事や応用技術流出の懸念の対象からは比較的距離がある分野を研究している日本人基礎科学研究者を無理やり、「高給と引き換えに軍事技術流出」という記事の方向性にあてはめている。この目的のため、「事実誤認」「発言捏造」まがいのことまで行っている。さらには、そういった問題点を抱えた取材をしているにもかかわらず、新聞協会賞や書籍化を狙っているという批判が内部からもあがっていた。
  3. このような一連の在中日本人研究者バッシング報道に対し、日本から中国の大学への応募が減るという抑止効果を期待する一部の声もあったものの、実際にはそのような効果はなく、むしろ日本からの応募が増えているという。皮肉な逆効果となっている。

 その後、新聞協会賞のエントリーについては、社内選考の段階でアウトになったという。実際、今年の協会賞応募作品の中に「千人計画」特集は含まれていない。良識ある社内判断を歓迎したい。

書籍化はなぜか新潮社

 協会賞と並んで「ゴール」とされた書籍化は達成された。

 8月18日発売のこの本は、新潮社の新潮新書として刊行された(以下本書と記載することがある)。

 ここでおや、と思った人もいるだろう。読売新聞社には傘下に中央公論新社があり、読売新聞の特集記事が書籍化されるときはここから書籍化されることが多い。

 聞くところによれば、中央公論新社からは刊行を断られたという。

 もともとは別の会社であった中央公論新社の方針とは異なる内容であったということだろうか。

 早速読んでみた。

 予想通りというべきか、残念ながらというべきか、読売紙面掲載時よりもさらに陰謀論色が強い内容だった。ツッコミどころがあまりに多いため、頭を抱えてしまったが、こうした現実離れした記載が事実や根拠として広がってしまうことを心から憂う。以下に問題点を記載したい。

日本の科学技術が中国に対し劣勢であることを無視

 科学技術分野における日本の大幅な衰退と、それとは対照的に中国が伸びていることは近年一般にもよく知られるようになってきている。科学技術・学術政策研究所の調査では、今年は論文の数だけではなく、被引用回数ベースの「質」ランキングでも、中国がアメリカを抜いて1位(日本は10位)となったことが明らかになった。

 これらは大手メディアでも報道された。

 今の中国にとってライバルはアメリカであり、10位の日本はライバルと呼べる立ち位置ではない。AIについても世界トップは中国だ。だが書籍版でも読売新聞は進んだ日本の科学技術を中国が狙っている、日本のAI研究を中国が狙っているといったような話を繰り返し強調している。

 同書のなかで、中国の研究者が千人計画を通じてアメリカの技術を盗んだ事例を日本に当てはめている。しかし、世界覇権を競う米中の事例を、世界10位の日本に当てはめるのは現実的ではない。

 流出警戒を言うのであれば、日本が弱い分野ではなく日本が強い分野について丁寧に調査、取材をし、それに対して技術流出の警鐘を鳴らすべきだろう。

 同書では、AIのみならず、CPU等のプロセス技術について、中国に先行し、中国への技術流出の懸念がある国として、台湾、韓国、アメリカ、日本を並列に語っている。前者三カ国については私も同意であるが、今の日本はプロセス技術において先進国ではない。

世界最先端のファウンドリーは、台湾のTSMC(台湾積体電路)だ。5nm以下の生産は、台湾でしかできない。日本の半導体メーカー、ルネサスの最先端製品は40nmであり、大きな差がある。

 私が中国の日本人研究者から聞いた話もこれを裏付ける。

中国の学生をみていても、優秀な層は日本には留学しなくなっている。日本に留学するのは、そこまで優秀ではないけど、親が裕福な層が子供をのんびりさせたいというパターンが多い。優秀層の留学先のトップはやはりアメリカだ。また、教員の採用対象者のメインもアメリカ帰りの中国人。なので、アメリカが警戒するのは理解できる。ただし、昔と異なり日本帰りの中国人研究者は昨今とても少なくなっている。読売が問題視する「日本人シニア研究者が千人計画で中国の大学へ」というパターンは、昔日本に留学していた中国人研究者が当時の恩師に声をかけるというパターンが多く、10年くらい前にはそこそこある話だったが、そもそも日本と縁のある中国人研究者がどんどん減っているので、それとあわせて日本のシニア研究者が昔の教え子経由で中国の大学にわたるケースも減少傾向にある。現状、中国としては日本の研究を『狙う』という段階ではなく、そもそも日本に対して無関心になりつつあるのが実情だ。『狙う価値のあるものが日本からどんどんなくなりつつある』というこの現実こそ、中国を警戒する日本にとって本当の危機ではないのか。

(筆者の取材より発言を再構成)

 日本の安全保障にとって真に脅威であり危機感を覚えるべきなのは、こういった日本衰退の現実ではないのか。

取材対象者に対する「騙し討ち」「発言捏造」はそのまま

 本の帯には、ドローン兵器のことが書かれている。新聞紙面に引き続き、本書内でも、高額報酬で引き抜かれた日本人研究者が、ドローン兵器に転用可能と認めたいうことが述べられる。

 しかし下記記事で指摘した通り、ドローンに関する発言は、取材対象者となった日本人研究者本人が否定している。高額報酬についても同様だ。さらにいえば、AI同様、ドローンも今や中国のほうが強い分野だ。

 この発言は使いまわされており、本書で前書きを担当した読売新聞論説委員の小川聡氏(前政治部次長)は、他メディアでも「日本の大学の退職時を大きく上回る報酬」「応用すれば、無人機を使って自爆攻撃を行うことができる」(本人談)と書いている。

 本書では、千人計画を「研究インテグリティ」の問題、「研究不正」の問題であると批判するが、まずは自らの行為を改めていただきたい。

日本の研究環境の悪化と千人計画による中国への人材流出は関係が薄い?

 読売新聞も「千人計画」関連記事の評判がネット上、特に研究者には芳しくはないことを自覚しているようだ。以下のような記事も出している。

 本書中でも、読売新聞「千人計画」記事に対し、ツイッター上で日本の大学環境悪化に原因を求める反応があることについて触れている。研究環境の改善が必要としつつも「若手研究者の研究環境と千人計画の間に直接的な関連は少ない点に留意すべきだろう」とバッサリ切り捨てる。

 自社の記事をバッサリ切り捨てるとは…。書いた記者の方は千人計画に関する記事の取材班に属する方だった。記者さんに同情する。

 読売新聞は本書でも、以前の記事でも、千人計画について、シニアの研究者が元所属国の大学に所属しつつ、中国の大学も兼任という「シニア(ベテラン)研究者のパートタイム型千人計画」を前提にした記事構成にしている。だが、千人計画の採用は今や若手のフルタイム採用枠が主となっているのが現実だ。

 「若手は千人計画に関係ない」「日本の研究環境悪化は関係ない」というのは、読売自身の過去記事とも矛盾している。ネット上の批判の声の大きさに思わず反論したくなったのかもしれないが、自ら墓穴を掘った形だ。

「短期パートタイム型」の千人計画が廃止の方向を無視

 既に述べたように、読売が記事および本書で問題視する千人計画の典型は、シニアの研究者がもともとの所属国の大学に所属しつつ、中国の大学も兼任というシニアのパートタイム型千人計画だ。

 これに問題があることについては私も強く同意する。申告およびエフォート管理があいまいな場合は研究費や給与の二重取りにつながりかねない。特に後者については脱税というはっきりとした犯罪行為である。実際、アメリカで逮捕されているケースの多くもシニアのパートタイム型だ。

 しかし、中国側もその問題点を認識しているのだろう。パートタイム型の千人計画については今年から既に廃止となり、中国でのフルタイム勤務が必須となることが毎日新聞で報道されている。

 実際、日本人研究者は、若手や定年後のシニアがフルタイムで中国に行く場合が多数である。読売新聞は、千人計画の参加そのものが研究不正であると断罪するが、フルタイム型、特に経済産業省による「安全保障貿易のリスト規制」の対象外であるような基礎分野の研究者が中国へフルタイムで異動するケースについては、千人計画の採択の有無を問わず、問題視することは筋が通らない。そして、中国に異動する基礎研究者の多くは現状そういったパターンである。

 こうした話は紙面、書籍ともに一切触れられていない。そもそも「フルタイム型」「パートタイム型」「若手型」「シニア型」といったような千人計画のパターン分類すらまともに紹介していない。読売新聞は、「パートタイム型」の千人計画のみを念頭に「海外研究費の申告義務化」を千人計画対策の切り札的に扱っている。明らかな不正行為に対する規制は大いに進めるべきと私も思う。だが、千人計画の多数を占めるフルタイム型に対しては、それらの規制は全く意味がない。

 非常に悪質なのが、記事の無理を補うためか、経産省の研究会で「想定事例」とされた事例を、あたかも事実かのように読める書き方で紹介している点だ。

内閣府研究インテグリティに係る調査・分析報告書より
内閣府研究インテグリティに係る調査・分析報告書より

 上記は内閣府研究インテグリティに関する検討の最終報告書「研究インテグリティに係る調査・分析報告書」の一部だ。どれもアメリカ等の事例を参考に書かれているはずなのに、本書ではぼやかされている。

アメリカでの千人計画関連の裁判において「FBIの虚偽申告」が問題視されていることを無視

 読売新聞の新刊では、アメリカでの逮捕事例を中国の日本人研究者バッシングの根拠にしている。が、逮捕者の多くは「脱税」といったような明らかな違法行為による。日本でも同様の事例があれば当然検挙すべきと思われるが、読売新聞も日本人研究者のケースは報じていない。

 また、アメリカで「スパイ」として逮捕された中国人研究者について、FBIの虚偽報告による逮捕であったことが最近の裁判で明らかになっている。しかしこの件については触れられていない。

 こうした証拠がないままの印象操作を「事実」として書き、人々を煽ることは極めて危険だ。

あらゆる研究が軍事応用可能、「軍民融合」だから軍事に使われる

 これまでの記事および本書の奇妙な点として、技術流出懸念を繰り返し挙げつつも、その話に具体性が非常に乏しいことが挙げられる。

 挙げられているのはAIといったような日本がむしろ弱い分野か、もしくは基礎研究を含め、非常に幅広い研究も「デュアルユース」として中国に利用されかねないという極論のどちらかである。技術研究も基礎研究も、企業の研究も大学の研究もさほど区別していない。

 本書は、中国版「デュアルユース研究」の軍民融合も、「軍民融合だから中国の研究は何でも軍事に関係している(だから中国で日本人が研究するのはダメだ)」という論調になっているが、これも事実と異なる。

 軍民融合の研究テーマは、アメリカのDARPA、日本の防衛省ファンド同様に特定の志向性のある形でテーマ設定がされている。また、その研究費申請には中国国籍が必要である。本来は、軍民融合の研究テーマに設定されているのは何か?ということを丁寧に中国語ソースにあたり、取材調査をすることで、「中国が狙っている技術」がみえてくるはずである。

 中国の大学サイト等で公表されている軍民融合関連の研究費公募を少し見た限りでも先端素材開発関係のテーマが多かったようにみえる。本来はそういった点を掘り下げ、「中国の狙い」を丁寧に探るべきではないのか。だが、そういった質の高い取材には至っておらず、中国だから何でも軍事に関わるという雑な話にとどまってしまっている。中国を脅威と思えばこそ、「敵の狙い」を正確に把握し、その上で守りをかためるべきであろう。

 それとあわせるかのように、中国で日本人研究者が論文を出すこと自体を問題視する。しかし、論文として公開されるのであれば、その成果を日本の側も享受することができる。荒唐無稽な批判であると言わざるを得ない。

 それを言うなら、日本の大学で研究している日本人研究者が公開論文を発表するのも、「中国で軍事転用されかねない」のでアウトになってしまう。

 さらに、軍事技術に直接関係がない分野でさえ、「軍民融合」なので、日本人研究者が育てた中国人研究者がいずれ軍事研究をして日本に害を与えるという。

 そういった極論は日本の基礎研究を死に追いやるのではないか。

 どこからセーフでどこからアウトなのかという「切り分け論」ではなく、いかなる形でも中国に関わるのが問題であるという読売の論調は、アメリカの保守派であるトランプ政権当時の政府高官の論調よりも強硬だ。セーフとアウトのラインの切り分けが重要であり、極端な対応は国益を損なうものであることは、対中強硬派のトランプ政権高官(当時)ですら主張しているのだ

千人計画の採択者の圧倒的多数が中国人であることをぼやかす

 千人計画採択者の約95%は中国人である。これは、千人計画が「海外流出した中国人研究者の呼び戻し政策」として始まっていることを考えたら自然なことであるが、この点について本書はぼかしている。このため、読売の特集を読んだ人の多くは、「外国人を狙ったもの」と思うはずだ。

 だが、実際には日本人は全体の1パーセント以下に過ぎない。この点を無視し、日本人が千人計画で中国に行かなければ日本の安全保障は守られるというような姿勢は非常に雑だ。

 日本が真に恐れるべきは、中国のサイエンスの担い手の多数は中国人であり、中国のサイエンスが既に中国人自身による自律的、自己充足的なステージに入ってきているという現実であろう。様々な分野の現役研究者の多くはそのことを既に論文等から日常的に感じているはずだ。千人計画で帰国した中国人研究者、特に若手研究者らがレベルの高い研究成果を次々と発表している。日本もそれに倣い、海外研究者の招致のため「日本版千人計画」ともいえる科研費の「帰国発展研究」を始めているが、その規模はまだまだ小さい。

国際共同研究加速基金(帰国発展研究)

 中国が自分たちで勝手に伸びていっているとなれば、日本の側で止めるのは難しい話だ。となると、問題は日本自身、日本自身のサイエンスの再生が必要ということになるはずだ。実際、論文の数や質のランキングでも、「中国が伸びたから日本が落ちた」というよりは中国以外の国と比較しても日本の凋落は「一人負け」的である。

現実的な対応を

 読売新聞は本書で、日本学術会議を強く批判し、デュアルユース研究に日本学術会議が否定的であることを批判している。アメリカにおけるデュアルユース研究「DAPRA」等と同様、日本でもデュアルユース研究について全否定ではない議論があるべきであることは同意する。日本の研究機関に問題があるとする本書の指摘には同意する部分もある。

 ただ、読売新聞も極論、全否定という点では同じなのではないだろうか。

 戦後、日本では安全保障に関する議論がタブー視される状況が長く続いてきた。そのためなのか、政権に近い立場とされる読売新聞が、中国の方が優位の技術を日本から盗もうとしている、基礎研究や技術は分野に関係なく幅広く軍事転用される、千人計画は日本の技術を盗むためのものといったような的外れもしくは極論を書く憂慮すべき状態となっている。

 台頭する隣国中国とどのように関係していくかは、日本がかかえる大きな課題だ。確かに甘い対応は問題点があるが、何かを敵として単純化しても問題は解決しない。私自身「売国奴」という罵りを受けるようになっているが、私を排除しても課題はそのまま残るだけだ。

 読売新聞の記事の後、中国にいる若手日本人研究者が誹謗中傷や脅迫に晒され、日本の学会でのオンラインセミナーが中止に追い込まれる事件も発生している。

 千人計画に多々の問題があったことは事実だが、問題を切り分けることなく論じているために、正当な手段で、日本での所属なくフルタイムで中国に渡った基礎研究者を、千人計画だと言うだけで、現状なんら「技術」流出した証拠も根拠もないにもかかわらず、将来害が及ぶ「かもしれない」からとバッシングし、ある種の「ヘイト」を煽ることにさえなりかねない危険性を読売新聞は理解しているのだろうか。

 理想だけでも、陰謀論だけでも道を誤る。日本を代表する大手新聞である読売新聞が、雑な認識で人々の憎悪を煽るような記事、書籍を書く現状は、国益を毀損することにつながるのではないか。

 まさか政府がこんな雑な認識をしていると思わないが、くれぐれも現実的な対応がなされることを願いたい。そして、優れた科学記者を多く抱える読売新聞が、日本の科学研究の問題点を明らかにする調査報道をこれからも行うことを期待したい。

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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