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夏目さんの引退表明、社会への影響は?

猪瀬聖ジャーナリスト/翻訳家
(写真:アフロ)

タレントの有吉弘行さんと結婚したフリーアナウンサーの夏目三久さんが、有吉さんと2ショットで出演したテレビ番組の中で、今秋、テレビの仕事から引退する考えを明らかにした。ネット上などでは、この2人の選択に賞賛の声が相次いでいるが、日本社会への影響という点では、一抹の不安もある。

夫をサポート

夏目さんは、23日に放送されたテレビ朝日系「マツコ&有吉かりそめ天国 2時間スペシャル」で、有吉さんと結婚後、初共演。司会のマツコ・デラックスさんから、今後のことを聞かれると、「2人で相談しまして」と切り出し、それを受けるように、有吉さんが「秋で仕事を全部辞めようかなと思いまして」と、夏目さんの引退を明かした。夏目さんも「この仕事から離れようかなと」と言葉を足した。

夏目さんの引退の理由を有吉さんは、「みんなの話を聞くと離婚の原因って、すれ違いか価値観の違い。価値観は仕方ないとしても、すれ違いの方はつぶしておくかみたいな」と独特の言い回しで説明した。

さらに夏目さんは、「表に出る仕事の緊張感とか重責とか分かっているつもりなので、微力ながら少し安らげる場所を作れればいいのかな」と、結婚後は家庭に入り、有吉さんの仕事のサポートに回る考えを示した。

百恵さんと聖子さん

筆者もこの番組を見ていたが、夏目さんの引退を耳にした瞬間、軽い衝撃を覚えた。と同時に、2人の女性の顔が脳裏に浮かんだ。山口百恵さんと松田聖子さんだ。

ご存じのように、山口百恵さんは歌手として人気絶頂だった21歳のとき、俳優の三浦友和さんと結婚し、ファンに惜しまれながら芸能界を完全引退した。1980年(昭和55年)のことだ。

当時の日本はまだ、女性は結婚したら仕事を辞めて家庭に入るのが当たり前とする価値観や空気が社会全体を支配しており、どんなに優秀でも仕事を続けたいと思っても、女性がそれに抗うことは簡単ではなかった。女性の中にも、就職は人生の伴侶を見つけるための「腰掛」であり、職場結婚して会社を円満退社することが幸せな人生と考える人は多かった。「寿退社」が誉め言葉として使われたり、東京・丸の内地区の一流企業で働く「丸の内OL」が一部の女性たちにとってステータスとなっていたりしていたのも、そのためだ。こうした社会的背景があったからこそ、百恵さんの「寿退社」に多くの日本人が共感し、拍手を送ったのである。

百恵さんの結婚・引退から5年後の1985年、やはり歌手として人気絶頂だった松田聖子さんが、23歳で俳優の神田正輝さんと結婚した。翌年には長女も出産。しかし、聖子さんは引退せず、結婚前と同様の活躍を続けて、「ママドル」の走りともなった。百恵さんとは正反対の聖子さんの選択は、「女性の新しい生き方」として当時、話題となった。

共働きが主流に

百恵さんの結婚から5年しかたっていなかったが、この間、日本社会の空気は急速に変化していた。聖子さんが結婚した1985年には、女性の働き方や人生設計に大きな影響を与えることになる「男女雇用機会均等法」が成立。同法は、職場での男女差別を禁止し、募集や採用、昇給・昇進、定年、退職などで男女を平等に扱うことを定めたもので、翌1986年に施行された。企業の間には男女を平等に扱うことに慎重な意見も多かったが、世論の後押しで法案の成立にこぎつけた。

「結婚しても働き続けるのが当たり前」とする新たな世論の台頭は、数字にも表れている。総務省の資料によると、百恵さんが引退して家庭に入った1980年の日本の「共働き世帯」は614万世帯だった。これに対し、夫婦のどちらか1人だけが働いている「片働き世帯」は、約2倍の1114万世帯。片働きの場合、働いているのはほとんど夫と推測されるので、当時、日本にはざっと1100万人程度の専業主婦がいたと考えられる。

ところが、共働き世帯と片働き世帯の差は、1980年代に急速に縮まっていく。聖子さんが結婚した1985年には、片働き世帯は1千万を割って952万世帯となり、逆に共働き世帯は722万世帯にまで増えた。1992年(平成4年)にはついに逆転し、その差は急速に拡大。2020年(令和2年)には、共働き世帯1240万に対し、片働き世帯は571万と、半分以下だ。女性が結婚したり子どもを産んだりしても、働き続けることが当たり前になっていることは、数字的にも裏付けられているのだ。

聖子さんの選択は当時の日本社会の変化を反映したものとも言えるが、逆に、超有名人で社会的な影響力も大きい聖子さんの選択が世論に影響を与え、社会の変化を加速させた可能性もある。

多様性を認める社会が大切

しかし、だからと言って、夏目さんが結婚しても今までのように働き続けることが、時代に合った正しい選択とは限らない。そもそも、共働きが増えている理由は、女性の社会進出を妨げてきた差別的な制度の撤廃や社会の価値観の変化という以外に、子どもの教育費や住宅コストの上昇などで、ダブルインカム(共働き)でないと望むような生活水準が維持できなくなったという、止むに止まれぬ事情もある。これは多かれ少なかれ世界的な傾向で、例えば、女性の社会進出が日本よりはるかに進んでいる米国では、高額所得層は片働き世帯の割合が多いというデータがある。日本でも、高給取りのタレントやプロスポーツ選手の妻は、専業主婦が珍しくない。

仕事が唯一の自己実現の手段という人もいれば、子育てに人生の価値を見出す人もいる。大切なのは、自分のやりたいことができる選択肢が与えられていることと、個人の多様な生き方を認める社会や文化の存在だ。

そうした点で、夏目さんの結婚・引退発表で懸念されるのは、女性の活躍を腹の中ではよく思わなかったり、無意識のうちに男女差別を是認したりする日本の中の一部の層が、著名人である夏目さんの結婚・引退発表を利用して、「やっぱり女性は家庭に入るのが幸せだ」などと言い出しかねないことだ。

森喜朗・東京五輪パラリンピック組織委員会会長(当時)の女性蔑視発言を機に繰り返し報道され一躍知れ渡ることとなったが、日本は、世界の中で男女平等が最も遅れている国の1つだ。先進国の中では断トツの最下位。森氏の失言以降もやまない政治家の問題発言や、選択的夫婦別姓の問題をめぐる与党議員の行動は、日本で男女平等が遅れている大きな原因の1つに、社会に根強く残る昭和的な価値観があることを示している。

おめでたい話が、水を差されることのないよう、願いたい。

ジャーナリスト/翻訳家

米コロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)修士課程修了。日本経済新聞生活情報部記者、同ロサンゼルス支局長などを経て、独立。食の安全、環境問題、マイノリティー、米国の社会問題、働き方を中心に幅広く取材。著書に『アメリカ人はなぜ肥るのか』(日経プレミアシリーズ、韓国語版も出版)、『仕事ができる人はなぜワインにはまるのか』(幻冬舎新書)など。

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