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「夫が望んでいるから」と夫の死の翌日に出廷 他界した米最高裁判事ギンズバーグ “女の一生”と夫婦愛

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
ギンズバーグ氏追悼のため、たくさんの花が手向けられている米最高裁前。(写真:ロイター/アフロ)

 正義と平等のために闘ってきた“米司法界の女戦士”が他界した。

 9月18日(米国時間)、米最高裁女性判事のルース・ベーダー・ギンズバーグ氏が、ワシントンDCの自宅で、家族に見守られる中、すい臓癌による合併症のため87年の生涯を終えた。

 ワシントンDCの最高裁前にはたくさんの花が手向けられ、アメリカは深い悲しみに包まれている。

 ギンズバーグ氏をどう表現したらいいだろう。

 女権運動のアイコン、米司法界の歴史的判事、正義のチャンピオン、リベラルの活動家…。一言では表現しきれないほど、ギンズバーグ氏は人権のために多大な貢献をしてきた。何より、彼女は、女性の権利拡大のために女性差別と戦ってきた“フェミニストのヒーロー”だった。

妊娠により失職

 なぜ、ルース・ギンズバーグ氏(以下、ルース)は女権運動家になったのか? 背後には、彼女自身が女性差別に苦しんできたという過去があった。

 ルースは、1933年、ニューヨーク州ブルックリンでユダヤ系の両親の下に生まれた。公立学校を卒業後、奨学金を得てコーネル大学に進学、後に夫となるマーティン(マーティー)と出会う。「マーティーに魅かれたのは、彼が私の頭の良さをわかってくれたから」と彼女は話しているが、それだけ、当時は、女性の頭の良さが評価されていなかったのだ。

 卒業後、2人は結婚、ルースはマーティーの兵役のためオクラホマ州に移住。同地で公務員試験を受け高得点を獲得したものの、女性であることからタイピストの仕事しか得られなかった。また、妊娠すると、失職に追い込まれた。

 2年後、二人は東海岸に戻り、ともにハーバード大学のロー・スクールに入学。同学年の学生は500人以上もいたが、うち、女性はルースを含めたったの9人だけだった。彼女は学部長からきかれた。「なぜ、男の学び舎に来たのか?」。そんな質問をされるほど女性が法律を学ぶことに偏見を持たれた、そんな時代だった。しかし、ロー・スクールで夫よりも成績が優秀だった彼女は「アカデミック・スター」として注目を浴びた。

1957年12月、ルースとマーティーはニューヨークのプラザホテルで婚約パーティーを行なった後、マーティーの自宅でこの写真を撮影した。写真:archive.kuow.org
1957年12月、ルースとマーティーはニューヨークのプラザホテルで婚約パーティーを行なった後、マーティーの自宅でこの写真を撮影した。写真:archive.kuow.org

育児と夫の看病に追われたロー・スクール時代

 だが、やがてルースは、学業だけに専念することが困難になる。マーティーが精巣癌に冒されたからだ。ルースは、2歳の娘の育児に加え、手術や放射線治療を受ける夫の看護に忙殺されるようになった。

 睡眠時間を取ることもままならなくなった。マーティーが闘病中、ルースは、夕食にハンバーガーを作って一緒に食べた後、マーティーが読みあげる論文を書き取る作業に追われた。午前2時に夫が就寝後、翌日の授業のための予習を始めるという日々だった。

トップで卒業しても就職困難

 マーティーは癌を克服、ニューヨークの法律事務所に勤務することになったため、ルースもコロンビア大学に転学、ロー・スクールをトップの成績で卒業した。しかし、就職は困難だった。当時、法律事務所は女性への門戸を開いていなかったからだ。裁判所の書記官に推薦されたものの、インタビューさえ受けさせてもらえないという憂き目も見た。女性であることが問題視されたからだ。男性の判事たちは、母親でもあるルースが家事に気をとられることを懸念したという。

 しかし、ルースの師だった法学部の教授が、裁判所判事の説得にかかった。優秀な学生を判事に紹介してきたその教授は「ギンズバーグを書記官にしないなら、もう優秀な学生を紹介しない」とまでたんかをきって、彼女を推したという。判事も彼女の能力を買い、通常1年しか雇わない職に、彼女は2年間雇われた。

女性差別との闘い

 1963年、ルースは、ラトガース大学ロー・スクールの教授となる。第二子を身ごもったルースは、妊娠による失職を免れるため、義母の服を身につけて大きくなったお腹を隠した。それが奏功し、妊娠が気づかれることなく、雇用契約が更新されたという。

 同大学在籍中、ルースは、女性差別との戦いを始めた。アメリカ自由人権協会(ACLU)で、「女性の権利プロジェクト」を共同で立ち上げて、同協会の顧問弁護士に就任し、性差別を巡る数々の裁判を担当した。

 ルースは「米国憲法修正第14条の平等保護条項」に注目し、この条項が人種的マイノリティーだけではなく女性にも採用されるよう訴えた。

 アイダホ州で起きた「リード対リード」裁判では、サリー・リードという女性の代理人として、初めて、最高裁上訴趣意書を書く。息子を失くしたサリーは、彼女の前夫ではなく自分が亡くなった息子の財産の管理人になるべきだと考えていた。しかし、アイダホ州の州法では、当時、男性を財産の管理人としていた。そのため、ルースは州法は憲法修正第14条の平等保護条項に違反しているとし、州法はジェンダー差別をすべきではないと訴えた。判事は全員男性だったが、彼らも全会一致で州法が自動的に男性を財産の管理人にすることに反対。この裁判は、最高裁が、初めて、憲法修正第14条の平等保護条項を女性差別に適用した歴史的裁判となった。

 ルースは、あえて、男性が差別されたと訴えている裁判も選んで担当した。男性が差別に苦しんでいる実態を判事に知らしめれば、彼らは女性の差別の苦しみも理解できるのではないかと考えたからだ。例えば、出産中に妻が亡くなった男性が、福利厚生の支給を拒否されたケースを担当した。当時は、未を失くした女性しか福利厚生の支給を受けられなかったからだが、彼女はそこにはジェンダー差別があると訴えた。最高裁も最終的に、妻に先立たれた夫や残された子供たちの苦しみを理解し、ルースの考えに同意した。

夫がロビー活動

 ルースの功績は、大統領たちからも認められることとなる。

 1980年、当時のジミー・カーター大統領はルースをコロンビア特別区連邦控訴裁判所の判事候補に指名した。

 1993年には、クリントン大統領(当時)が、ルースを最高裁判事候補にあげた。クリントン大統領は他の候補者にも目を向けていたのだが、最終的にはルースが指名され、米史上2番目の女性判事となった。背後には、夫マーティーの献身があった。マーティーはルースを判事にすべく、一生懸命ロビー活動をしていたのだ。

 女性やマイノリティーの平等を求めて闘う中、ルースは、ロー・スクール時代のように深夜まで働いた。そんなルースを支えたのも夫マーティーだった。料理下手だと自認するルースに代わって、家ではマーティーが料理をした。

2016年、大統領選を前に「トランプが大統領になる可能性なんて考えたくないわ」とトランプ批判をしたギンズバーグ氏。写真:cbsnews.com
2016年、大統領選を前に「トランプが大統領になる可能性なんて考えたくないわ」とトランプ批判をしたギンズバーグ氏。写真:cbsnews.com

不屈の精神

 後年、ルースは癌との闘いに入る。

 1999年に大腸癌に冒され、その後、すい臓癌、肺癌、再度のすい臓癌、肝臓癌と5つの癌と闘った。化学治療や放射線治療を受け、この5年は、帯状疱疹の痛みにも襲われていた。

 それでも、ルースは不屈の精神を見せた。2009年、2回にわたって癌の大手術をした直後も、一般教書演説の会場に姿を現し、人々を驚かせた。

 最高裁の席にも戻ってきた。ルースの背中を押したのは夫マーティーだった。もう戻れないと自信をなくしていたルースを励ました。「戻れるよ」。

夫が望んでいるから

 その1年後、マーティーは癌に冒される。死期が近づいた夫を病院から自宅に戻そうと、病室にある持ち物を片付けていた時、ルースは1枚の書き置きに気づいた。そこにはこう記されていた。

「親愛なるルース、私が愛したのは君だけだ。コーネル大学で初めてあった時から、君のことを賞賛し、愛してきた。お別れの時がきたね」

 2010年、56年間添い遂げたマーティーは自宅で他界した。

 しかし、その翌日、最高裁の席にはルースの姿があった。

「私はここにいるの。マーティーは、私がここにいることを望んでいると思うから」と言って。

 マーティーの死後も、差別との闘いは続いた。2013年、米最高裁は、南部の一部の州に残る投票の人種差別禁止を目的とした投票権法の条項が憲法に違反するという判決を下す。同法を制定した1960年代と比べて人種差別は減っているという理由からだが、当時のオバマ大統領同様、そうとは考えなかったルースは「判決は、自分は濡れてないから大丈夫だといって、嵐の中で傘を投げ出すようなものだ」と言って反対した。

民主党に4600万ドルの寄付金

 マーティーの元に旅立ったルース。

 死を前に、ルースは「私の最大の願いは、新しい大統領が決まるまで、自分の後任が選ばれないことだ」と話したという。

 しかし、トランプ氏は早速、後任選びに乗り出し、任期中に保守派の女性を判事に任命しようと動いている。

 一方、民主党は、ルースの遺志通り、後任選びは新しい大統領に委ねるべきだと主張しており、その民主党を支援する選挙基金サイトには、ルースの死後、約4600万ドルもの寄付金が集まり、寄付金は今も増え続けている。

 大統領選まで残すところ50日足らず。

 正義と平等のために闘って来た亡きルースの下で結集しているリベラル派は、バイデン氏当選へと向かわせることができるのか。

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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