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震災から10年、小5で被災した彼女が語り部として現代の小学生に伝えたこと

平岩国泰放課後NPOアフタースクール代表理事
(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

東日本大震災から10年が経ちました。

現代の小学生は震災の記憶がないか、震災後に生まれた子どもたちです。

地震のこと津波のこと原発のこと、東北や日本全体で何があったのかを知りません。

何が起きたのか、何を学んだのかを次世代に語り継ぐべく、震災の語り部をしている21歳の藤本 和(のどか)さん~通称のんちゃん~に小学生向けにお話をしていただくオンラインイベントを実施しました。日本全国からまた海外からも全部で50名ほどが参加をしてくれました。

語り部:のどかさんの言葉

〇2011年東日本大震災、小学5年で被災

東日本大震災は、今からちょうど10年前の2011年3月11日に起きました。

日本では史上最大の地震、世界では当時4番目に大きい地震となりました。

宮城県だけで1万人が亡くなり、私の町では177人が亡くなり70人は未だ行方不明です。

私は宮城県雄勝町(おがつちょう)に住んでいます。リアス式海岸の海が大変きれいな町です。波も普段は穏やかでとても静かな海です。

2011年3月11日、その日は小学校にいました。きわめて普通の平和な1日でした。

午後2時46分、私は2階の教室で12人のクラスメイトと掃除をしていました。「今日の放課後なにしようかな?」とか考えながら。

最初に異変を感じたのは音です。

“ごぉぉぉおおお“と地鳴りがして、その後地面がグラグラ揺れました。

実は最初は落ち着いていました。雄勝町にはしょっちゅう地震が来るので慣れていたし、この日もすぐおさまると思っていました。

しかしこの日はいつもと違いました。なかなか地震がおさまらないのです。本が落ちてきたり、蛍光灯が割れたり、怖くなってみんなで机の下にもぐり、その後校庭に避難しました。慌てていたので、上履きのままジャンパーも着ないで外に出ました。雪が降っていて寒かったです。

〇避難場所の変更、また変更

校庭に逃げた子どもたちを前に先生が言いました。「避難訓練通り高台の神社に逃げましょう」。自分もその通りだと思いました。しかし、校長先生が言いました。「子どもたち全員で体育館に避難しよう」。外が寒いことを配慮しての発言だったかもしれません。避難場所が変更されました。

「海に水ねぇがら、早ぐ山さ上がれ!!」

叫んだのは同じ学校の子のお母さんです。子どもを迎えに来る途中で海に水がなく底まで見えるのを目にして危機を感じ、大きな声で叫びました。

その声をきっかけに避難場所が神社に再び変更されました。

体育館に逃げたらみんな確実に死んでいました。なぜなら震災後、体育館は建物の基礎ごと流されていたからです。あのお母さんの叫びが私たちを救いました。

〇家族との避難

私はその後お母さんが車で迎えに来てくれて、避難をしました。高台の船戸地区へ車を走らせました。10分ほど走り高台から下をのぞくと、海は黒い波が洗濯機の中の水のようにグルグル回りながら私たちのところへ迫ってきていました。すぐに車を降り、崖をかけ上りました。おばあちゃんを引っ張り上げながら山頂まで逃げました。眼下では家、電柱がプカプカと流されていて、まるで現実とは思えない光景でした。家がバキバキッと砕ける音、おばあちゃんの泣き叫ぶ声が今でも耳に残っています。

その後火葬場に避難して過ごしました。もちろん私たちが乗り捨てた車は流されてしまいました。

〇震災後の生活

火葬場での生活が3日続き、父が友人の車で迎えに来てくれて、叔母の家で2年間を過ごしました。あらゆるものがなくなってしまい、紙皿にラップを敷いてご飯を食べました。当時、毎日こんにゃくばかり食べていた思い出があります。ほどなく妹の誕生日が来て、大根を厚く切ってろうそくを立ててお祝いをしました。

〇震災から学んだこと

・海から遠く、高いところに逃げる

・命てんでんこ

・地域を知り、地域に教わる

この3つのことを学びました。てんでんこはそれぞれ・個々にという意味です。あの日、地震の後で位牌やお金を取りに家に戻り亡くなってしまった人がいました。命は一番大事なもので自分しか守れないので、何をおいても命を守ることが身にしみました。

最も大事なことは、これは「雄勝の教訓でしかない」ということです。例えば東京だったらどのように逃げていいのか自分にはまったく分かりません。

自分が住んでいる場所ではどう行動したら良いか、皆さんぜひ確認してください。

〇新学期の授業

4月27日、6年生に進級し、久しぶりに学校に行けるようになりました。そこで自分の未来を変える授業を受けました。総合学習で「雄勝の未来の街をつくる」というテーマでした。自分はそこで未来の雄勝の模型を作り、桜並木を植える提案をしました。多くの人が来てくれる名物になると思ったのです。自分のような子どもでも町の未来が考えられることに希望を感じました。

〇雄勝の復興にかける

高校を卒業して、自分は雄勝に戻りました。今はMORIUMIUS(モリウミアス)という廃校になった小学校を改築した宿泊体験型の施設でスタッフとして働いています。自分が雄勝に戻ったのは小学校6年生でのあの授業の影響です。「小学6年でも雄勝の将来を考えられたのだから、大人になったらもっとできることがある」と感じたことが大きかったです。実はその時教えてくれた先生も今は雄勝で農業をしているんです。

4千人いた雄勝の人口は現在1千人弱に、さらに8割が高齢者です。震災直後、町に戻りたかった人は6割でしたが、実際戻ってきたのは1-2割です。このままだと町がなくなってしまう危機は10年経っても変わっていません。

しかし希望は持っています。

どれくらい時間がかかるかわかりませんが、たくさんの人が暮らしたいと思える町にしたいと思っています。ここがすごく美しい町だとを知ってほしい。

コロナが落ち着いたらぜひ遊びにきてください。

今はまだまだないものが多いけど、山と海はどこまでもきれいです。

(参加した保護者の感想)

〇子どもが真剣なまなざしでずっと聞き入っていました

〇自分と同じ小学生がそんな体験をしたのかと心に響いている様子でした

〇改めて家族で危機対応を話し合っておきたいです

〇次の震災の時に、のんちゃんのお話で、10人が、100人が助かるかもしれない。すごいことだと思います。そしてご自身を責めることはなさらないように

〇現在香港在住ですが、子どもに伝える・今後の防災を考える・毎年家族で約束ごとを決めるなどの時間を持つきっかけになりました。日本人学校の社会科でも、東日本大震災と津波についての調べ学習をしていましたのでより真剣に向き合えたようです

(参加した小学生の感想…保護者記入)

ぼくは小学2年生です。震災のときは、まだ生まれていませんでした。のんちゃんのお話を聞いて、のんちゃんは信じられないことが起こってすごく不安・心配で怖かったと思います。大きな地震や津波があったときは、「どうやって逃げたらいいか」・「どこに逃げたらいいか」ということが大事だと分かりました。ぼくは震度4しか経験したことがありません。のんちゃんが教えてくれた「自分の命は自分でしか守れない」「もどりたくてももどらない」「自分のまちに地震がきたときはどうすればいいかを知っておく」ということを忘れません。ありがとうございました。

こちらは本日参加してくれた東京の小学3年生のぞみちゃん(通称のんちゃん)が書いてくれました。東京にいるのんちゃんから東北にいるのんちゃんへのメッセージです。

東日本大震災から10年。

これからも次世代を担う子どもたちに語り継ぎ、未来を作っていきたいと心から願いました。

MORIUMIUS(モリウミアス)

http://moriumius.jp/

(文中の写真:放課後NPOアフタースクール提供)

放課後NPOアフタースクール代表理事

放課後NPOアフタースクール代表理事。1974年東京都生まれ。1996年慶應義塾大学経済学部卒業。株式会社丸井入社、人事、経営企画、海外事業など担当。2004年長女の誕生をきっかけに、“放課後NPOアフタースクール”の活動開始。グッドデザイン賞4回、他各種受賞。2011年会社を退職、教育の道に専念。子どもたちの「自己肯定感」を育み、保護者の「小1の壁」の解決を目指す。2013年~文部科学省中央教育審議会専門委員。2017年~渋谷区教育委員。2019年~新渡戸文化学園理事長。著書:子どもの「やってみたい」をぐいぐい引き出す! 「自己肯定感」育成入門(2019年発刊)

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