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樋口尚文の千夜千本 第206夜『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(C)2023 TOHO CO., LTD.

ゴジラの花道にそぼ降るブラック・レイン

今度のゴジラは戦後間もない、ようやく復興が始まった頃の東京を蹂躙するらしいと聞いて、それは紛らわしいのではないか、初代ゴジラは昭和29年に出現したのだから、いっそ同じ年のパラレルワールド的な話でもいいのではないかと思ったのだが、実際に本作を観てみると、映画を面白くするためにはゴジラはどうしても戦後ほどなくして現れなくてはならず、厳密に言えば昭和26年にサンフランシスコ平和条約が批准され、同時に日米安保条約が発効する以前に出現してもらいたい、おそらくそんな作り手の意図になるほどと思った。

なぜそうなのかはあまり詳しく記さないが、要はでかい軍隊が出てきて抽象的な戦争の画が始まるよりも、それこそ『白鯨』や『ジョーズ』のようなレベルでの具体的な戦闘のディテールが描かれたほうが映画はだんぜん面白くなるだろう。事ほどさように前作『シン・ゴジラ』のゴジラはどこか生物的な設定を超えてとことん無敵な、動く原子炉のメタファーに変貌していったが、本作のゴジラはあくまで具体性を帯びた怪獣そのものであり、『シン・ゴジラ』が狂人的なマニアによる壮大で異色な二次創作だとすれば、本作は真摯な名うての職人による原典の王道アダプテーションというべきだろう。

つとに知られることだが、山崎貴監督はあたかも本作のパイロット・フィルムのようなゴジラ描写を2007年の『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の冒頭でやってのけていた。ここでは「鈴木オート」に近い竹芝からゴジラは上陸し、都電を次々に吹っ飛ばして三田付近を残骸にしたあげく、白熱光でお約束の東京タワーまでへし折ってしまう。おまけに堀北真希の六ちゃんがおめかしして出かけるのは日劇で、山崎監督はもうここで「ゴジラ」「日劇」のVFX表現のレッスンを大変な精度で敢行していた。

私はてっきりこれで『ゴジラ』次回作は山崎監督に決定かと思いこんでいたのだが、意外や16年を経て山崎監督が日進月歩のVFX技術をもってのぞんだ「ゴジラ」と「日劇」の場面は音楽も含めて圧倒的な原典愛が炸裂する名場面となった。日劇前の晴海通りという花道を歩く破壊神の威風堂々。さまざまな初代『ゴジラ』の細部にもオマージュを捧げつつ、技術的にブラッシュアップされたこの場面の王道表現を観ていると、おそらくこういう迫力とダイナミックさを構想しつつも、当時の技術ではかなわなかった円谷英二特技監督や本多猪四郎監督の夢を、孫の世代が最新技術で実現してみせているように思われた。

それは特撮面に留まらず、いわゆる本篇=ドラマ部分における神木隆之介の元日本兵の表現についても言えるのではなかろうか。私は本多猪四郎監督の批評的評伝を生前の本多監督への長いインタビューをもとに上梓したことがあるが(1992年筑摩書房刊/2010年国書刊行会復刊『グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代』)、本多監督は『ゴジラ』を決して反戦・反核の主題のために撮ったのではなく、かつて観た『キングコング』のような娯楽スペクタクル映画を撮りたかった、と私に語った。三度も召集されて大陸の戦地に赴き苦労した本多監督にとって戦争などというものは商業的な映画で到底描き得ないものであろうし、また熱心な映画少年であった本多監督にとっては、狭量なテーマ主義よりも映画の娯楽性こそが何よりも豊かな宝物であったに違いない。

実際『ゴジラ』をテーマ主義で見ようとするから「人間が描けていない」などという筋違いな批評を呼んでしまうことになるわけだが、本多監督の言うように『ゴジラ』は純然たるエンタテインメント作品なので、人物が大きな比重で深刻に描かれる必要はなく、その人物表現の匙加減は全く間違っていない。ただ『ゴジラ』の宝田明や河内桃子を見ていると、この娯楽映画としてのおさまりをはみ出ないかたちで、もう少し人物に陰翳を与えることができたのでは、といったうらみはあったのではないかと推察する(殺人兵器の発明を死で抹消した平田昭彦の芹沢博士にはある程度そういう工夫があった)。そして、『ゴジラ-1.0』の神木隆之介の表現には、そのことの解があったような気がする。

神木は戦時中の特攻とゴジラにまつわる深甚なトラウマを背負い、懊悩する生き残り組として荒廃した戦後を生きている。ところがこのずっとベトナム帰還兵のような虚無的な表情をしていた神木が焼跡のヒロインの浜辺美波と出会い、ゴジラに改めて立ち向かう展開のなかで変わってゆく。あくまで怪獣映画というジャンルにはまる範疇でこの特攻崩れの神木の扱いがうまく行っているのは、山崎監督が『永遠の0』というレッスンを通過しているからかもしれないが、これもまたVFX同様、「人間が描けていない」と揶揄された本多監督の孫世代が頑張って試みた怪獣映画なりの最適解かもしれない。事ほどさようにVFXと人物描写の両面で、山崎貴監督ははるか円谷英二特技監督と本多猪四郎監督からバトンタッチされた課題を誠実に打ち返している。

そしてゴジラのブレストがアメリカンな逞しさで、白熱光発射前の背びれのギミック(これは観てのお愉しみ)も今どきなテイストであるのに、美しいメカのフォルムの艦船や飛行機の雄姿にはあたかも往年の『日本海大海戦』のような趣がある。これはちょうど佐藤直紀と伊福部昭という異質な音楽の対比にも通ずるのだが、大枠の王道的な展開のなかで随所に、こうした自在なレファレンスも感じさせるところが好ましい。そう言えば、あの浜辺美波の包帯姿はまさか『愛と死をみつめて』だろうか。いやそれは東宝ではなく日活作品なので違うのではと思われるかもしれないが、山崎監督は『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の日劇の映画館の場面で東宝作品ではなくわざわざ日活の『嵐を呼ぶ男』を選んでいたではないか。と、そんなふうにさまざまな細部が愉しませてくれるわけだが、それにしても『黒い雨』や『ひろしま』ではなく『ゴジラ』に「黒い雨」が降ったのはエポックな瞬間であった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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