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樋口尚文の千夜千本 第179夜『アレックスSTRAIGHT CUT』ギャスパー・ノエ監督インタビュー

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(C)太秦

再編集版はまるで私の予想を超えた衝撃性を生み出した

2002年の第55回カンヌ国映画祭に出品されたギャスパー・ノエ監督、モニカ・ベルッチ主演『アレックス』(原題『Irréversible』=不可逆)は、その衝撃的で陰惨きわまりない内容と時系列を逆行する挑戦的な手法により物議を醸したが、なんとこれを時間軸にそって再編集した『アレックス STRAIGHT CUT』が2019年の第76回ヴェネツィア国際画祭で公開され、新たな話題を呼んだ。

まさに最悪の悲劇から時間が遡行してゆくことにこそ『アレックス』最大の妙味があると思っていた筆者は、それを通常の時間軸に直すという発想には大いなる「謎」を感じ、ギャスパー・ノエ監督にその意図をぜひとも尋ねてみたいという気持ちをかき立てられた。そんな折に首尾よくフランス在住のノエ監督とZoomで会見する機会を得た。

――30年前の中篇『カルネ』の頃からノエ監督作品はほぼ全部、ひじょうに興味深く拝見しております。『アレックス』が2003年に公開された時は批評家からも観客からもおおかた顰蹙を買いましたが、あの途方もない描写力と、残虐極まりない表現の向こうに繊細な情感の漂うさまに感動し、映画雑誌のベスト・テン選考では一位に選ばせていただきました。

そんなあなたにはぜひ次回作を観てほしい。なぜならその『Vortex』という映画は、映画評論家が主人公なのです(笑)。しかも主演はダリオ・アルジェントです。

――なんとダリオ・アルジェントとジャン・ユスターシュ監督『ママと娼婦』のフランソワーズ・ルブランが主演する作品ですね。これは今から血が騒ぎます。ところで今回の『アレックスSTRAIGHT CUT』ですが、どうしてまたあの時間遡行が作品の決め手だった『アレックス』を通常の時間軸に直してみようと思われたのでしょうか。これが本作の唯一最大の「謎」です(笑)。

製作会社のスタジオカナルから『アレックス』のデジタル化を勧められた時に、ほんの思いつきで「時間軸を普通に直したらどんな感じだろう」と考えたんです。それはせいぜいソフト化の際の特典映像にできればというくらいの軽い気持ちだった。それで再編集してみたら、ここまで別の衝撃性が出たことに自分でも驚きました。

――なるほど。実はかつて日本でDVDがリリースされた際にも「時間軸再生機能」という特典がついていて、ごくラフなかたちではありますが、普通の時系列に置き換えることができました。ただそれはあくまでDVDの余興であって、まさかノエ監督自身が今回のようにある場面(『2001年宇宙の旅』のポスターでアレックスの妊娠を暗示する場面)や台詞をカットするなど本気の向き合いで再編集したヴァージョンが創られるとは思いもよらないことでした。『アレックス』のオリジナル版は、失われたものを悲しく見つめる「やさしさ」が最後に充満して感動的でしたが、『アレックス STRAIGHT CUT』は逆に失われたものはどうしようもないという絶望感と怒りがたちこめますね。

内容の変化については、全くあなたのおっしゃる通りだと思います。実は『アレックス』の撮影は時系列で行っていて、アパルトマンの平和な光景から始まり、最後は二人の男性主人公のクレージーな情況で終わった。今回の再編集では、時系列を撮影時と同じく元に戻してみたらどうなるのかというくらいの興味で始めたので、ここまで印象が変わるとは思いませんでした。特に最後の悲劇はいっそう救いようのないものになっています。作業を始めた段階では想像し得なかったことです。さらに驚いたことに、人物の性格までもが違ったものに見えて来た。オリジナルではやや存在感の薄かったアレックス(モニカ・ベルッチ)がSTRAIGHT CUTでは急に強い個性を発揮し始め、ピエール(アルベール・デュポンテル)は誠実で男気のある人物に見えだしたのに対して、マルキュス(ヴァンサン・カッセル)はむしろどうしようもなくダメな面が目立ってきた。全く同じ素材を使っているのにもかかわらず……。

――ノエ監督の作品では、特に『アレックス』や『エンター・ザ・ボイド』でよく見られるように、愚かさに憑かれる人間たちをちょっと浮遊したポジションから眺め続けます。あの天使なのか悪魔なのかわかりませんが、下界を見下ろすような視点はどこから生まれたのでしょう。

『アレックス』の場合、人物たちが存在するさまざまな場所を、浮遊するキャメラの不思議な動きが結び合わせるとともに、時おりキャメラが不審に揺れたり震えたりするんですね。あのフローティング・キャメラとでも言うべきキャメラの位置や動きを観て、「アレックスの亡霊のなせるわざですか?」と聞いてくる人さえいました。でもこれは『アレックス』の前から『エンター・ザ・ボイド』の脚本を書いて企画を進めていたため、東京のさまざまな部屋を浮遊しながら往還する『エンター・ザ・ボイド』の手法を、試しに『アレックス』でやってみたというのが真相なんです。撮影は私自身もやっていたのですが、あのキャメラの異様な動きや震えで、人物たちの怒り、焦り、いらだちといった感情をどこまで表現できるか試してみたかった。もっとも、あの視点の位置が悪魔なのか天使なのかはわかりませんが…‥(笑)。

――そのとんでもなくギャップのあるヒア・アンド・ゼアが、浮遊するキャメラで接合されてしまう。このたくらみに満ちた映像と話法は、もはやノエ監督作品の醍醐味と言えましょう。こういった極端なる幸福と残酷が常に隣り合わせているというノエ作品の感覚には、いつも不安や戦慄がつきまとってどきどきさせられます。たとえば『アレックス』の華やかなパーティーの直後に起こる地獄のようなレイプ、『エンター・ザ・ボイド』の家族みんなが幸せなドライブの途中で起こる悲惨な交通事故。日本にも「一寸先は闇」ということわざがありますが、こうした感覚はとても恐ろしく、でも魅力的です。ノエ監督をこうした表現に駆り立てるものは何なのでしょう。

こういう表現については、特に何かからインスピレーションを受けたのではなく、現実のなかであなたのおっしゃった「一寸先は闇」という言葉どおりの事態にさんざんみまわれてきたのです。たとえば子ども時代、6歳か7歳かの頃に母が運転をしていて交通事故に遭った。しかもそういう怖い出来事が何回もあったんです。最近では突然脳内出血で倒れて、生死の確率が半々だと言われたこともあります。そういうふうに近い未来に何が起こるのかわからないという現実にふれてきたので、思わずこういう表現が頻出するのでしょう。逆に言えば、私は現実をそのまま表現しているということかもしれません。

――そんなにたくさん怖い現実に遭遇されたのですか。

ええ、皆さんと同じように(笑)。

――それにしてもノエ監督は、人間のグロテスクで尊大で自己中心的で、時には破壊的、破滅的な部分を描き出すことがライフワークのようですね。

私は映画を通して大きな世界観とか大それたことを描く気はなくて、人間たちのこまごまとした感情などを手が届く範囲で描けたらと思っているんです。ただしそんな自分の映画に登場する人物と言えば、たとえば『アレックス』も然りですが、ついつい人生で間違った選択をしてしまうタイプが多いことは確かです。『カノン』も『アレックス』も『エンター・ザ・ボイド』も登場人物の心理や背景はそれぞれ違うわけですが、ほとんどが人生を誤った方向に歩んでしまう人間ばかりで、そんな連中の生きるありさまを眺めていたいという共通項はあるかもしれません。

――しかし一方で、そんな破壊的、破滅的な人間を描きながら、『カノン』の主人公を典型として、ノエ監督は「それでも人間には生まれながらの倫理、モラルがある」と信じているようにも思われます。そこがノエ監督の過激な作品に、特有の「やさしさ」を感じさせて好きなのですが……。

確かに私は、作家として人間の持つグロテスクな部分、残虐な部分を見つめてみたいという気持ちは強いです。ただし、人間の残虐な側面には、倫理によって正邪を決めつけられない複雑なものがあると思うんです。そこに走ってしまう愚かな人間の行いは肯定できないけれど、そこへ堕ちてゆく感情は理解できるかもしれない。私は倫理、モラルを信じているわけではありませんが、しかし性格的にそういう愚かな人物たちに感情移入しやすいセンチメンタルな部分はあるかもしれません。そこを「やさしさ」というふうに感じていただけたのかなと思います。

――とても踏み込んだご回答をしていただき、ありがとうございました。

しかしその「一寸先は闇」という日本のことわざは、『アレックスSTRAIGHT CUT』の根本を言い表していますね。これは宣伝に活かしたほうがいいのではないかな(笑)。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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