樋口尚文の千夜千本 第168夜『愛のコリーダ』修復版

(C)大島渚プロダクション

阿部定もセリアズも自由の宇宙から来た使徒

1959年に劇場用映画の監督としてデビューして以来、大島渚は憎むべき権力や差別と闘いながらも自らの弱さや限界に悶々とする人間を描いてきた。その試みは、戦後四半世紀を総括する1971年の『儀式』の満州事変の年に生まれた満州男(大島とほぼ同年)という主人公において極まった。満州男は挫折と痛覚に生きるパセティックな大島的アンチヒーローだった。

『儀式』は絶賛をもって迎えられたものの、ここで大島の作風も制作方法も煮詰まったかに見えた。そこで心機一転、大島はそれまで制作のベースとしてきた独立プロ・創造社を解散して、彼の才能に期待する海外のプロデューサーと今までとは違うスタイルでの作品づくりに打って出ようとする。『愛のコリーダ』はごくジャパネスクな世界の物語だが、実はアラン・レネ『夜と霧』『二十四時間の情事』を手がけ、後にはヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』『ベルリン天使の詩』などを製作したアナトール・ドーマンがプロデュースした日仏合作映画である。

ドーマンには当初から大島とポルノ作品をやりたいというもくろみがあり、大島は題材として「阿部定事件」と永井荷風作と言われる「四畳半襖の下張り」を提案した。ちょうどこの頃、「四畳半襖の下張り」を編集長として雑誌に掲載した野坂昭如が猥褻文書販売のかどで起訴されており、これはにわかに話題の書となっていた。結果、ドーマンは「阿部定事件」を採択したが、しかし大島は当時評価を集めていた日活ロマンポルノの異才・神代辰巳監督の作品などを観るにつけ、こうした演技としての性表現の演出においては、なかなか自分は勝ち目がないと思っていた。あまつさえ日活ロマンポルノの俊英・田中登監督がまさに「阿部定事件」を扱った『実録 阿部定』を発表して好評を得ていた。

だが、折も折、フランスではハードコア・ポルノが解禁され、大島はこれを勝機とにらんだ。日本の法規制下にあっては日活ロマンポルノといえども本当の性交を撮ることはできないし、その限界内における演技による性表現ですら摘発され、裁判が起こっているありさまだった。そこでフランスから生フィルムを輸入し、国内で撮影したフィルムを未現像のまま送り返し、フランスで仕上げ作業を行えば、日本の法的な縛りにとらわれることなく自由な性表現を実現できるのでは、というアイディアを思いつく。もちろんその作品が日本に「逆輸入」された時にはとてつもない修正を加えられるであろうが、少なくともフランス及びポルノが解禁された諸国では、ありのままの作品を見せることができる。

こうして1975年の初冬に京都の大映撮影所にて、部外者出入り厳禁の厳戒態勢で撮影されたのが『愛のコリーダ』である。果敢に難役を引き受けた藤竜也とこの時発掘された逸材の松田英子が、もはや修行僧か修道士のように打ち込む性愛の求道ぶりには、実際の性交を見ていることへの好奇や顰蹙などすぐに濾過されて、ちょっと荘厳な感じすら漂ってくる。そしてどこまでも性愛を突き詰めんとする定と、それを全許容する吉蔵の「共犯関係」(コリーダとは持ちつ持たれつで盛り上げる「闘牛」の謂である)によって、この稀代のカップルは性=生の極致に行き着く。

この「個」に沈潜したアナーキーな自由さこそ権力が畏怖し、忌み嫌うものである。軍隊の隊列が示唆する2.26事件直後のファシズム台頭の空気のなかで、定と吉はその真反対の途方もない自由さを実践、完遂してみせた。「阿部定事件」は定が逃走中は猟奇殺人事件として巷間を震撼させたが、逮捕された定のすがすがしい笑顔(つられて警官たちまで笑っている写真が印象的だ)が報道され、その人となりが報じられるにつけ、不思議な同情と共感が集まった。先述したように『愛のコリーダ』以前の大島は、権力に対峙しながらも思いを果たせず煩悶するアンチヒーローを描いてきたが、この阿部定は違った。『愛のコリーダ』の攻めるヒロイン・定は、自らを縛るものに勝った人間、やりきった人間なのである。

60年代を通してスタッフも作品内容も男性主体で、日本という国の権力と抑圧に向き合って挫折するアンチヒーローを描いてきた大島は、70年代は女性文化人たちと積極的に交流し、国際的な舞台で活躍する感性的なアーティストたちとも大いにつきあうようになった。大島は、この女たち、芸術家たちの知性のしなやかさ、軽やかさに学び、自分もかくありたいと思ったに違いない。そこに産み落とされたのが『愛のコリーダ』の確信犯的な自由人、阿部定であった。彼女はなぜと問うこともなく、自らの生のありかたを断定し、愛のしるしを決然と切断する。

この生まれ変わった大島映画の新たなヒロインの思想は、続く合作大作『戦場のメリークリスマス』の重要な人物によっても継承されていよう。それは制度と因習の囚われ人であるヨノイ大尉(坂本龍一)を、不意の接吻によって生のこわばりから解放するセリアズ少佐(デヴィッド・ボウイ)である。彼もまた自らの命を賭して、自由の伝道者を実践してみせた確信犯で、権力が恐れをなし、抹殺に走らざるを得ない存在だ。セリアズ少佐は、阿部定と同じ宇宙から来た自由の使徒である。

こうしてみると『愛のコリーダ』も『戦場のメリークリスマス』も、満州事変の頃の生まれで軍国少年であった大島が、戦後に遺り続ける「日本」の権力と差別の病いをようやくグローバルな場所で蹴飛ばすことができた快作と言えるのかもしれない。その試みは、後の「LGBTQ」という社会的な批判意識の先駆だったと言えるだろうが、大島がそれを痛烈に意識した時代から幾星霜、社会は故なき不自由さとこわばりからどれほど解き放たれたであろうか。