ほどよく、ぬかりなきエライザの謎

これはぬかりなき作品である。九州ののどかな町の、どこにでもありそうな青春の、精神的彷徨の時間。今さらこういう話に何か見るべきものが降ってくるものだろうかと油断させる。だが、ありがちと言えばありがちな同級生との齟齬や親への反発といった設定、展開を通して、演出の眼が天眼鏡で凝視するようにその単純さのなかに瑞々しい細部を探していることに気づくと、俄然観客は作品に惹かれ出すであろう。

その営みを乱れなく積み重ねる演出の姿勢は、実に据わった感じである。時として繊細に考え抜かれた映画的なショットがあって凛とするが、かと言って過度にストイックであったりすることもなく、方法的な緊張感と解放感が絶妙の間合いでブレンドされている。それは俳優の演技に対する距離感についても同じで、中心となる男子二人や謎めいた女子については演技の青写真を提示している感じがするが、彼らを囲むベテラン俳優たちについてはなるべく放牧気味にただリラックスしてそこにいることを求めているように見えて、作品の間口の広さを担保している。

青春のある一瞬の感情のうねりを描きながら、主人公男子のロン毛が感情の昂揚をすんでのところで見えなくするように、カットの切り際もくどい抒情を清潔にはぐらかす感じである。しかし常に観客の観たいものを禁欲的に隠すというのでもなく、男子たちが和太鼓に燃焼する見せ場は簡潔ながらばっちりと映す。

その途中でマルチスクリーンになって驚くが、それも盛り上げの意匠ではなくて、二人の表情をきちんと見せるための率直な手段として使われる。ここで二人を交互にカットバックしたら、むしろ陳腐な盛り上げになってしまったことだろう。なんとも細かい話だが、こういう繊細で慎重な技法の選択が随所に見てとれる。

その演出の細心さは、みだりに音楽を使わないという姿勢にも表れている。人物たちの背景には優れた台湾映画のように常に印象深い生活音、自然音が流れている。かといって、徹頭徹尾音楽を頑なに拒絶するわけでもない。最後にはある意味では誰もが期待している爽快な台詞とともにさらりとわかりやすい主題歌が流れる。そういうあんばい、バランスというのも、力んだアート作品ではない娯楽映画としての気安さを醸している。

『夏、至るころ』は、こんなふうにたくまざる周到さに満ちた作品なのだが、今や作品を超えて気になるのは、監督である池田エライザの「来し方」である。もちろんその女優やモデルとしての足跡のうわべはよくよく知っているが、いったい何を見て、何を吸収して、どんな生き方を経て来ると、この演出眼のぬかりなさに到達できるものだろうか。観ていて、この謎は深まるばかりであった。レオス・カラックスが好きだというが、まるでそういう映画でもない。