樋口尚文の千夜千本 第146夜「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)

第72回カンヌ国際映画祭より。(写真:REX/アフロ)

『パラサイト』と『ジョーカー』を隔てる深い河

是枝裕和監督『万引き家族』に続いて、昨年のカンヌ国際映画祭のパルムドールをさらい、このたびなんとアカデミー賞の作品賞・監督賞受賞の快挙をなしとげた『パラサイト』は、『万引き家族』のように貧困層の犯罪ファミリーを描き、例によってポン・ジュノ監督らしい図太さでぐいぐい牽引されるしたたかに面白い作品だった。こうした社会的弱者の逆襲をめぐる物語といえば、これまた評判の『ジョーカー』を思い出すのだが、こちらも力作ながら正直言うと全く乗れなかった。その感想について考えると、『パラサイト』がなぜ面白いのかという理由も見えてくるので、少し『ジョーカー』についてふれてみたい。

『ジョーカー』はひじょうにテクニカルに丁寧に作られているので不誠実な映画だとは全く思わないのだが、観ているうちに募ってくる閉塞感にはいかんともしがたく肩が凝った。つまり、この白人の証券マンは邪悪で黒人のシングルマザーや身体にハンディキャップのある男性は善良だといった設定に始まり、貧しく差別されきったジョーカーの犯罪に共鳴したゴッサムシティの市民たちがピエロ姿で暴動に走るという善悪観のどえらい単純さに至るまでの「額面通り」の勢いが、もはや表現というよりスローガンに見えてしまったからだ。「これはまるで傾向映画ではないか」というのが観た直後の印象だった。「傾向映画」というのは、不景気が続き失業者も増えた昭和初期に作られた左翼的な映画群だが、その資産家は悪で下層プロレタリアートは正義だという物差しは、案外戦後の代々木系の監督たちがこしらえる商業映画にまで継承されている。

私は亡父が日教組の闘士だったせいで幼少期からこうした監督たちが資本主義を糾弾する映画をたくさん見せられていたが、それはそれは子どもが観ても面白く、けっこう熱中して観ていた。だってその金持ちは悪で貧乏人は善だというマンガチックな設定にもとづく映画は、ほとんど時代劇みたいに痛快だったから。それこそ全部「額面通り」の単純さという点ではみんな『ジョーカー』みたいに痛快だったのだが、しかしそれは所詮ませた子どもが喜ぶレベルのもので、思春期になって大島渚の『愛と希望の街』でも観た日には、そんなお子さまもたちどころに成長させられるのだった。なぜか?ブルジョワジーと下層プロレタリアートの向き合いをごくごく明晰に描いたこの映画は、当時の松竹の上層部からまさに「これでは傾向映画ではないか」と非難を浴びたはずではないか。だがそれはきわめて大雑把な印象論から出た感想で、『愛と希望の街』はそんな単純な映画ではない。

ごくごくわかりやすく言えば、『愛と希望の街』にはブルジョワ側にもイイモンとワルモンがいて、プロレタリア側にもイイモンとワルイモンがいる、という超絶フェアな人間の腑分けを突き詰めてゆく作品である。したがってここには歯切れのいいスローガンはないかわりに、やっかいで含み多き人間のありようが拝めるのだった。こういう玄妙な人間像を描くと、映画もおのずから開かれたものになってゆく。大括りに言えば、大島渚は常にこの面倒臭い次元に踏み込むがゆえに竹を割ったような娯楽映画を撮れなかったのであり、「なぜ『仁義なき戦い』のような作品を撮らないのですか」と問うた学生に激怒して「撮らないのではなくて撮れないんだ!」と答えたこともあった。同じ理由で大島は『ジョーカー』も撮れないであろう。

もっとも私は「傾向映画」を「痛快娯楽映画」と解して幼少時に面白がっていたのだから、『ジョーカー』を凝りに凝った当世ふう「傾向映画」と割り切って観ればけっこう愉しめたのだろうが、もしかするとなんとなく巷間の『ジョーカー』の感想にちらつく「この映画に共鳴できない者は裕福で負け組の気持ちがわからない輩だ」といったシンコクなムードの同調圧力が気持ち悪いのかもしれない。それを言うなら、『パラサイト』にはそういう勝ち組/負け組といった二分よりもっと底なしの怖さ、やっかいさが描かれている。すなわち、『パラサイト』のソン・ガンホ一家はいわゆる「負け組」ファミリーだが、別に「勝ち組」の金満一家が幸福だなどとも思っていない。そういう羨ましい対象をおとしめて不幸にしてやろうという怨念はなくて、ただ金に事欠いて生きていくために大胆不敵に利用しているだけだ。

私が『ジョーカー』に乗れず『パラサイト』にすんなり入っていけたのは、このソン・ガンホ一家の被害者意識のなさ、いやむしろ人をくった確信犯ぶりで、彼らはとにかく食うために寄生するしかないから堂々それをやっているまでだ。そして獲物となっているハイソな一家のことをやや不憫にさえ思っている。ところが、ここからは未見の方のために伏せるが、半地下の彼らを戦慄させる予期せぬ展開があって、これには彼らも事態の底なしぶりに茫然となる。それゆえに、ソン・ガンホが結果的にはジョーカーのような爆発を見せたとしても、それは怒りや復讐ではなく「義憤」に近いものなのだった。このひねりと苦味が、『パラサイト』をひじょうに含み多きものにしており、その部分を汲んだアカデミー賞は近来になく冴えていた。