樋口尚文の千夜千本 第137夜「ラストレター」(岩井俊二監督)

(C)2020「ラストレター」製作委員会

青春の箱庭で夢かたりに呑まれる

前作『リップヴァンウィンクルの花嫁』もひじょうに意欲的な作品だったが、今回の『ラストレター』は『Love Letter』や『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の頃の、いわゆる岩井ワールドの原点に遡行するような設定や雰囲気で、とりわけ長年のファンには嬉しいことだろう。ただかつてと違うのは、『打ち上げ花火~』のように青春の渦中にいる人物を描いたり、『Love Letter』のようにまだそんなに青春との距離がない若い世代からの追憶を描いたり、ということではなく、はるか青春を通過し親世代になった人物たちを主人公にしていることだ。

青春が大過去になると、人びとはかつての岩井ワールド的な甘美で繊細な青春とはかなり隔たった世界を生きている。主人公である裕里(松たか子)とマンガ家の夫(庵野秀明)の平和でややコミカルな家庭は、ちょっとした同窓会恋愛疑惑で大騒動になるくらいのほほんと凪いでいる。いやそんなことならもう文句なしの「その後」なのだが、『ラストレター』の一見何気ない静かな冒頭は、実はあの淡い思慕と夢に彩られた青春の(かなり悲劇的な)挫折と敗北から始まっている。

というのも、この物語の始まりは自死した裕里の姉・未咲の葬儀の場面なのだ(にもかかわらず広瀬すず扮する遺された娘・鮎美が一貫して泰然としているのが逆に紙背の劇を感じさせていい)。淡々と描かれているものの、これは言わばあのユートピアのような青春の「なれのはて」である。岩井が痛ましく描く青春の「なれのはて」はこれに留まらず、なんと『Love Letter』の清き主人公たちに扮した俳優が再登場して青春の腐りきった「その後」を演じ(このシークエンスの青春の夢の片鱗もない豊川悦司と中山美穂の終わった感じはちょっと諧謔的でもあってアイディア賞)、青春の記憶を大切にしている純情な作家・鏡史郎(福山雅治)はげっそりうなだれるばかりだ。

こうして青春の「なれのはて」に対峙して、岩井ワールドを召喚し伝道する司祭のような鏡史郎は、いとしの未咲を悪魔的に翻弄し苦しませた阿藤(豊川悦司)を軽蔑嫌悪する一方、裕里に純な青春をフラッシュバックさせる手紙を送り続ける。穏健な日常の人となった裕里は大型犬を二頭も飼えるくらいの立派な一戸建てに住んでいるが、鏡史郎はもういい年なのに独身で家庭も持たず、売れない小説家として古いアパートに暮らしている、というディテールの描きこみがいい。福山雅治が演じているのでやや天使ふうに見えるこの小説家とて、こんなしがない暮らし向きを正視すれば青春に引きずられていくぶん皆からはぐれていった「なれのはて」かもしれない。ただ、同じ「なれのはて」でも鏡史郎が腐れ外道なオトナになってしまった阿藤と違うのは、大過去の青春を不器用なまでに捨てきれず、世間一般で言うとことろのオトナになりきれていない純な中年に留まっているところである。

そしてこの鏡史郎がまさにいささか大人げない恋文を書き出したことによって、裕里はもとより、その娘・颯香(森七菜)、未咲の娘・鮎美(広瀬すず)の次世代の少女までもが彼の青春の巡礼に巻き込まれてゆく。そこで軸になるのはコトバであって、手紙、書籍、課題の添削文、はては卒業式の答辞まで、数々のコトバとその裏にあるものがドラマの芽となって、人びとを結い合わせてゆく(本来読まれるべき相手に読まれえない手紙がひときわ大きく人物たちの運命に影響をあたえる)。だが、この人物たちの思いが伝播してゆく本題のドラマは、ごく冷静に眺めていると、さまざまな飛躍や偶然の連鎖から成っていることに気づく。その最たるものは、鏡史郎の前に大過去の瑞々しい青春がそのまま現前するような某シーンなのだが、ここは冗談めかして言うならば『砂の器』でたまたま紙吹雪の女と出会った新聞記者の記事をたまたま吉村刑事が読んだり、『犬神家の一族』で佐清が松子の殺人現場に何度も居合わせたり……というケースと同じくらい都合のいい偶然のなせるわざだろう。

ところが、である。面白いのは、こういう偶然を丸腰の演出で見せられたら笑ってしまうかもしれないのに、岩井俊二の手にかかると、もはやこの偶然さえもがフィクショナルな味のうち、という感じになって、ついついいい気分で見せられてしまうのだ。きっと岩井監督は「とにかくこの場面をやりたい」という気持ちが先立っていたはずで、それにまつわる無理や不都合は持ち前の技巧を動員してねじ伏せてみせよう、という感じではなかったか。そういう衝動と作戦が、整然とした模範解答のような作品よりも本作をずっと面白いものにしている。岩井監督は、映画デビュー前夜から一貫して「語り口」の人であるが、本作は事ほどさように少女マンガ的な独自のゲームの規則からなる箱庭のような世界であるだけに、その特殊な設定に観客を巻き込んでゆく「語り口」の妙技がいつも以上に試されたと言えるだろう。

本作では要所要所にドローンが使用されるのだが、こんなに猫も杓子もドローン撮影に走って似たり寄ったりの空撮が飽和している今どき、岩井の「語り口」にかかると、そんなドローン撮影からして何かひと味違うのであった。何が違うのだろうと思って、たまたま試写後に会った岩井監督に聞いてみたが、まあそこは言語化の難しいトーン・アンド・マナーへのこだわりのなせるわざである。手垢のついたただのドローン撮影にすらそういう岩井印のハンコが見えるほどの「岩井節」ゆえに、このロマンティックで多々無理もある物語が成立しているばかりでなく、まさにその無理さ加減あってこその「岩井節」という逆張りが起こっているのであった(というか、そもそも岩井作品らしさというのはそういう部分にこそ降ってきたわけだが、自己言及的な岩井作品である本作の静謐な山場がそのことに改めて気づかせてくれた)。

この岩井ワールドを成立させるマテリアルとして選ばれた出演者は、主演の松たか子、福山雅治をはじめ皆はまっていたが、往年の撮影所のスタア女優のような華やかさを発散させる広瀬すずに対して、生成りの魅力で惹きつける森七菜は裕里と颯香(要は母娘)をなにげない表情や挙動で演じわけていて天才感あった。『リップヴァンウィンクルの花嫁』で力演したりりィに続いて、本作でも小室等と水越けいこという狙いに狙ったシンガー縛りのコムビが職業的俳優では絶対無理な素朴で風味ある演技を見せてくれた。そして機嫌よき演技を見せる庵野秀明はなんとコメディリリーフなのだが、最初に仕事場でマンガの執筆に熱中している時のBGM(芥川也寸志の某楽曲)には爆笑した。