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樋口尚文の千夜千本 第94夜「砂の器」シネマ・コンサートによせて

樋口尚文映画評論家、映画監督。
『砂の器』シネマ・コンサート特設サイトより。『砂の器』子役の春田和秀氏と筆者。

シネマ・コンサートが炙り出す『砂の器』の特異な魅力

シネマ・コンサートというイベントが日本でも広く親しまれるようになってきた。念のため註釈をほどこすならば、映画の台詞や効果音はそのままにして音楽部分だけを消し、それをオーケストラがライブで演奏するというスタイルの公演である。わが国におけるシネマ・コンサートの嚆矢は『ゴジラ』全曲演奏だろう。

2014年に東京オペラシティで催された第4回伊福部昭祭では伊福部の生誕百年と映画『ゴジラ』公開60周年をダブルで記念して、第一部では「日本狂詩曲」「シンフォニア・タプカーラ」が演奏され、第二部では昭和29年の『ゴジラ』第一作のデジタルリマスター版を上映しながら高名なテーマ曲はもとより細部の劇中音楽(いわゆる「劇伴」)まで全ての楽曲が東京フィルハーモニー交響楽団によって演奏された。ここで最大の貢献をしたのが失われし楽譜を復元し、指揮も手がけた伊福部昭最後の門人である和田薫であったが、この全篇97分中の約39分を占める楽曲演奏の試みは圧巻だった。劇中ではカットされたハーモニカとギターの楽曲を全曲再現するなど種々マニア垂涎の試みもなされるのだが、とにかく古びたフィルムの鈍く籠ったサウンドトラックに沈んでいた、さまざまな音像が鮮明にサルベージされて、ああ伊福部昭はどれだけ高級な音楽をこの(当時としては)正体不明の怪獣映画に提供していたのだろうかと、その作り手としての偏見なき渾身の真摯さに打たれるのであった。あまりに感動して、翌2015年のNHKホールでの再演にも出かけてしまった(なんと2017年の東京国際映画祭でも再演されるという)。

この年は折しも公開30周年の『バック・トゥ・ザ・フューチャーinコンサート』も催され、これがシネマ・コンサートをぐんとポピュラーなものにしたことだろう。私もいくつかのシネマ・コンサートにお招きを頂いて鑑賞してみたが、映画によっては必ずしもこの形式が適さないこともわかった。たとえば『ゴッドファーザー』のような作品はそれほど音楽も多くないし、ニーノ・ロータの耳慣れた楽曲ばかりなのでどうかとも思うが、楽曲によってはこんな細部からなる曲だったのかという発見があって楽しめた。だが、『2001年宇宙の旅』のようにクラシックアルバムのようなサウンドトラックは、わざわざオーケストラで聴き直す必然性を欠いていてむしろ普通に映画として観ていたほうがいい感じであった。

逆に最もこの形式になじんでいる成功例と感じたのは、2017年のすみだトリフォニーホールで催された新日本フィルハーモニー交響楽団によるチャップリン『街の灯』公演だった。そもそもこの1931年の作品はサイレント映画がトーキー映画にとってかわられる端境期の産物で、音声としての台詞が無いという意味ではサイレント映画だが、音楽がついた通称「サウンド版」として公開されている。つまりは、規格としてはトーキーだが、様式としては画面の外で音楽が演奏されるサイレント映画のスタイルで作られているので、当たり前といえば当たり前なのだが、ひじょうにオーケストラの演奏に「必然性」むしろ「必要性」を感じるのであった。しかも指揮のティモシー・ブロックはシネマ・コンサートの分野の手練れで、公演の場所柄か下町のシニアの映画ファンが集って作品と演奏を堪能し、喝采を贈っているさまはなかなかいいものであった。

そこで急に思い出したが、1980年代にはこうしたサイレント映画の傑作のシネマ・コンサートが文字通り鳴り物入りのイベントとして催されていた。82年にNHKホールで鑑賞したアベル・ガンス『ナポレオン』はなんとフランシスの父、カーマイン・コッポラの作曲・指揮で、山場ではスクリーンがトリプルエクランになるなどド派手な演出であった。89年に日本武道館で催された新日本フィルハーモニー交響楽団によるD・W・グリフィス『イントレランス』も、この骨董的な傑作が本来は大正の時代に桁外れの入場料で公開された豪奢な大作映画であることを再確認させてくれた。これらのイベントはいささかバブル臭の香る「あだ花」感が気になったが、しかし作品がサイレント映画だったことでオーケストラ演奏が表現の重要な一部分をなして、わざわざイベントに仕立てているような違和感はなかった。

そういう意味でシネマ・コンサートの成否は作品の選定によりけりだと思うのだが、たとえば洋画ならくだんのサイレント映画はもとより、近作でも『ラ・ラ・ランド』のような映画をイベント的に愉しむというのはあるかもしれないが、なかなか日本映画でこのスタイルにふさわしい作品は見当たらないという気がした。そんなところへ松竹映画『砂の器』の、本篇中にも登場した東京交響楽団の演奏によるシネマ・コンサートが企画されたというのには膝を打った。私は80年代前半にやはり東京交響楽団が『砂の器』の代名詞とも言うべきピアノと管弦楽のための組曲「宿命」を演奏する(その後に映画を上映というセットであった)のを聴いたし、2015年にも西本智実指揮による日本フィルハーモニー交響楽団の「宿命」を聴いた。後者は「宿命」に加えて、芥川也寸志「弦楽器のためのトリプティーク」、ラフマニノフ前奏曲作品「鐘」の演奏もあって、この楽曲の因って来るところを示す工夫もあった。「宿命」を作曲・演奏したのはジャズピアニストでもあった菅野光亮だが、そのオーケストレーションを音楽監督として監修したのが芥川也寸志であり、劇的でロマンティックな曲調は否応なくラフマニノフへのオマージュを感じさせるだろう。

『砂の器』の見せ場はとにもかくにもこの約38分超のピアノ協奏曲「宿命」が演奏され続けるクライマックスにあり、その日本映画では類を見ない構成が公開当時ひじょうに話題となって、やはり邦画の映画音楽としては異例の組曲コンサートが幾度も催されてきた。しかし、私としては映画とシンクロさせるかたちの全曲演奏がいつか聴けたらな(著しく手間を要するので無理だろうが)という思いがあった。それというのも、この製作と脚本を兼ねる橋本忍がこのクライマックスの原点が人形浄瑠璃にあると述懐していたからだ。つまり、人形浄瑠璃にいわゆる〈三業〉、まず太夫(浄瑠璃語り)が丹波哲郎の今西刑事、三味線が東京交響楽団、人形遣いの操る文楽人形が加藤嘉と春田和秀扮する流浪の父子・・・というわけである。橋本忍はこの発想のヒントを亡父から得たと語っていたが、ことほどさように橋本にはあらかじめ後半のクライマックスを映画前半と分断してライブ的に「上演」する、という気分があったように思う。

実際、これはもう忘れ去られているかもしれないが、1974年に洋画系劇場でロードショー公開された時、『砂の器』は〈第一部 紙吹雪の女〉〈第二部 宿命〉の二部構成で上映され、第一部の野村芳太郎らしいセミ・ドキュメンタリータッチの謎解き行脚のあと、インターミッションをはさんで、がらりと構えがかわって合同捜査会議+コンサート+父子の旅路が「宿命」の楽曲とともにごくドラマティックに、ロマンティックに同時進行するのだった。この力技ともいうべき転調ぶりは映画としての賛否を呼ぶところでもあるのだが、しかし多くのファンにとってドラマからライブに遮二無二なだれこむ語りの強引さが何より『砂の器』という映画の魅力なのだ。

今回の『砂の器』シネマ・コンサートでは、期せずして初公開時の二部構成も再現されるので、その橋本忍の狙った破格のライブ感がくっきり見えてくることだろう。また、本作では〈第一部〉で今西刑事が現在の亀嵩駅に立ち寄って観客に刷り込んだ風景が〈第二部〉の過去の回想シークエンスを形づくってゆくように、〈第一部〉の捜査の旅路の随所に聴こえてきた楽曲のモチーフが〈第二部〉の「宿命」で一本に結い合わされていく。『ゴジラ』全曲復元を成功させた和田薫が今回も細部の楽曲を含めた復元に注力し、その〈第一部〉と〈第二部〉の関係性を際立たせてくれることだろう。

それにしても映画の構成のおさまりのよさを吹き飛ばして、このラフマニノフ的なピアノコンチェルトを伴う人間人形浄瑠璃がいったいどれほどの日本人を泣かせてきたことか。このニッポン的な心性とはいったい何であろうか。これは欧米では理解されにくい感覚かもしれないが、モスクワでは大いに評価されたという(それこそラフマニノフ風味ゆえか?)。そんな事どもを考えながら、このまさかの実現を見たコンサートを聴いてみようと思う。そしてもしこの『砂の器』コンサートの成功が次の企画に道を開くなら、ぜひ同じ野村芳太郎監督の『八つ墓村』をお願いしたいところだ。あの作品でも橋本忍の強引な時空構成の妙味横溢するが、音楽的には芥川也寸志のさまざまな美しいモチーフが散りばめられた芥川サウンドトラックの集大成と言える作品である。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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