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樋口尚文の千夜千本 第54夜「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」(J・J・エイブラムス監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:ロイター/アフロ)

レジスタンスの季節を遠く離れて

『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』が撮影開始されたのはなんとまる40年前の1976年3月、私が初めてその白黒スチールを見たのは確か同年末のキネマ旬報だった(これがスチールの日本初公開だったはず)のだが、そこにはタイトルが『惑星大戦争』と表記されていた。多くのファンが知っているように、この『惑星大戦争』というタイトルは翌1977年5月25日に同作が全米公開され、次いで1年後の78年7月1日に日本公開という報が流れても、しばらくは少年誌や男性誌に出回っていた。なんとなく77年の夏休みあたりを境に『スター・ウォーズ』に変わっていった記憶がある。

そして、この『惑星大戦争』時代からいち早く言及を開始し、やがてご当地で『スター・ウォーズ』を観た日本最速の観客として、その面白さを喧伝しまくっていたのが映画評論家の石上三登志で、それはもう「スター・ウォーズ評論家」と呼ばれるほどの熱気と量であった。石上三登志は映画評論の大先輩にして会社の上司でもあり(!)、家まで近所で最期は盟友の大林宣彦監督ともども私が追悼文を捧げることにまでなったのだが、まだ石上と知り合う前のティーンの頃の私は、77年8月に角川書店から創刊された「バラエティ」誌に載っていた「スター・ウォーズ観戦記」をすこぶる愉快に読んだ。これは全米公開直後の満員のチャイニーズ・シアターで石上が『スター・ウォーズ』を初見した際の興奮と感動がまさに文中にたぎっているレビューであり、今もって最良の『エピソード4』評ではないかと思っている。

そんなレビューにそそられながら、以後まる一年も『スター・ウォーズ』を待つのがどれほど辛かったことか。その冬に名前だけは継承した東宝の『惑星大戦争』、明くる春に東映の『宇宙からのメッセージ』という”竹槍スター・ウォーズ”と呼ばれた便乗企画(意外やこれらも非常に面白かったのだが!)をしこたま見せられた後に、ようやく『スター・ウォーズ』の夏が巡って来た。現在は真新しい歌舞伎町のTOHOシネマズに生まれ変わった新宿プラザの大画面で公開早々に観た『スター・ウォーズ』は、確かに石上にさんざ煽られた後でもちょっとビックリさせられる映画であった。

というのは、まさにそこにあったのは『惑星大戦争』という邦訳と『スター・ウォーズ』という原題の響きのギャップを映すような断層だったのだ。『スター・ウォーズ』から『未知との遭遇』、続く『エイリアン』『スター・トレック』『ブレードランナー』『遊星からの物体X』などのSFルネッサンスまたはSFリメイク以前の旧式SF映画といえば、われわれの世代がよく吹き替えのTV映画劇場でなじんでいた50年代の『宇宙戦争』『禁断の惑星』『地球の静止する日』『地球最後の日』のようなおっとりとした未来ビジュアルであって、オールドファンのSF論者が「SFは絵だ」と言ったこともよく頷ける。たぶん日本の配給会社も、この作品の設定や意匠だけ見ている段階では、『エピソード4』も後者の範疇のものと踏んで『惑星大戦争』と呼んでいたのではなかろうか。ところが、この『スター・ウォーズ』公開第一作における星間戦争は、うららかな「絵」ではなく本気でハラハラさせる臨場感、迫真性で勝負するんだという意気込みをもって、あの余りにも有名な冒頭の帝国軍戦艦の表現からして堂々宣戦布告しているではないか。

そう言えば、SF的な見せ場の描写というのは概ね「客観的」な「絵」としてのパノラミックなものであるのがお定まりで、たとえばあたかも自らがスペースシップに乗って本気で戦闘しているような描写は記憶に無い。ところが、『エピソード4』では冒頭に続いて中盤のファルコン号の銃座からタイファイターを砲撃するくだりや終盤のXウィング編隊がデス・スターを爆撃するくだりなど、後のゲーム画面のように「主観ショット」が主要部分を占めるようになっている。石上はくだんのレビューの中で登場する兵器群の「汚し」や戦闘の「速度」について感心しまくっていたが、こうした虚構内のリアリズムは、全て作品の臨場感、迫真性につながってゆくものである。

このようにかつては「客観」のピクチャーであったSF映画を「主観」のモーション・ピクチャーへと再構築した(しかもそこに登場する人物やクリーチャーの古めかしいミスマッチ感がいっそうこの作品のコンセプトを際立たせた)のが、『エピソード4』の変革意識であった。そもそもそれほど大きな予算をもって作られてはいない『エピソード4』のインパクトを保証していたのは、この革新性である。それはちょうどかつて非日常のアウトローを虚構的に描いていたギャング映画を、ドキュメント的な映像で日常の家族の物語として見つめなおした『ゴッドファーザー』の変革意識にもつながるもので、『スター・ウォーズ エピソード4』は『ゴッドファーザー』同様にアメリカン・ニューシネマの潮流の余韻のなかで語られるべきものだろう。若きルーカスもコッポラもスピルバーグも、いつか観た古めかしいジャンル映画に驚嘆すべき迫真性をもってルネッサンスを施したのが凄かった。しかしほぼ一年違いで評判を呼んだ『ロッキー』とその第二作以降が別物になってしまうように、当初の出所不明の野心作『スター・ウォーズ』もあまりの大ヒットゆえに、二作目以降は安定した普通の娯楽大作として再生産されてゆくことになる(それでも『エピソード5/帝国の逆襲』あたりはじゅうぶんに面白かったが)。

しかしやはり同時代的な『スター・ウォーズ』体験からすると、『エピソード4』における『惑星大戦争』と『スター・ウォーズ』の断層、「客観」から「主観」への変革意識が、何よりも鮮烈で、正直言って後のシリーズ作はどれも拡大再生産的オマケのような感じであった。では、そんな私が本国公開から言えば実に38年ごしで公開された続篇『エピソード7/フォースの覚醒』を観て何を感じたかといえば、これはもう新たな驚きと言うほかなかった。もっとも、それは粗削りで奔放な『エピソード4』のような革新性を見出してのことではない。むしろ真逆に、あの38年前の「客観」から「主観」への変革は各段に進化したデジタル技術によって精緻化され、本質的な驚きはないものの派手さを増し、またルーカスがディズニーに権利を売る前に『エピソード1~3』でさまざまに物語をこね回したけれども奏功せず、結局はかなり『エピソード4』に先祖返りするような内容が採用された・・・・と総じてきっぱりと保守化していることへの驚きだった。

そこへとどめをさすように、てっきりゲスト扱いかと思った『エピソード4』のメインキャストたちがすっかりシニアな風貌で大活躍するのだが、これには落涙を禁じ得ず困り果てた。この物語に、このキャストという安定感に、ファンは心地よく抱きとめられるだろう。試みの映画であったはずの『スター・ウォーズ』は、38年をかけてすっかりクラシックとして振り返るものになってしまった。悪戯っぽかったルークやハン・ソロやレイア姫がまるで円熟したシニアになってしまったように。あの『エピソード4』の本質的な映画のチャレンジはもはや困難なものであって、あれはやり出しっぺならではの特権であったということを今回の『エピソード7』は思い知らせてくれる。しからば、ということで、今作ではJ・J・エイブラムスもローレンス・カスダン(!)も、思いきり武装解除して物語もキャストも『エピソード4』的なるもの、はたまた『エピソード4』そのものへと進んで「帰還」してみせる。

そこにはもはや革新性へのニュー・ホープはないものの、とにかく甘美で郷愁に満ちた世界が待っている。その方向への振りきれ具合に、私はもう無いものねだりはやめて、ただ涙するばかりであった。『エピソード4』がレジスタンスなら『エピソード7』はファースト・オーダーではないかというぐらい真逆の精神で出来ている作品ながら、ヘンテコな言い方だがJ・J・エイブラムスの積極的な衰弱ぶりはあっぱれである。彼はライトサイドの父にたじろぐヤワなカイロ・レンよりもずっと確信犯的に、退嬰的で心地よいダークサイドに堕ちていった。なぜなら、それこそが今どきの観客の観たいものだからだ。・・・と言いながら、終盤にのぞんで涙いや増す私・・・嗚呼、なんたる快い堕落!

そう言えば、序盤にさりげなくマックス・フォン・シドーが出て来て嬉しかったが、あの『エクソシスト』だって悪魔祓いの怪奇映画のたぐいをドキュメンタリー的視点による臨場感、迫真性で真っ向から描きなおした試みの映画で、やはりアメリカン・ニューシネマの流れを汲むものであった。さまざまな古式ゆかしいジャンル映画が革新的に再構築されていったあの時代のそわそわ感は、今や甘い疼痛をいざなうよき思い出ではあるのだが、それはやはりもう思い出に終わるばかりなのだろうかと、『エピソード7』はなんだかんだと考えさせられる映画であった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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