裸だらけの生きものの記録

三浦大輔といえば、大根仁監督が超低予算で制作して大きな反響を呼んでいる映画『恋の渦』の原作・脚本もつとめているが、『愛の渦』は岸田國士戯曲賞を得た同名戯曲を三浦自身が監督した映画作品である。今のところ題名の微差から混同されやすい二作だが、タッチは全く違うし、演出手法もひょっとすると真逆ではないかと思われる。

『恋の渦』は予算も相当限られていることもあって数日間で撮りあげた作品であり、またそのスタイルゆえのよさが横溢している作品だ。ワークショップで発掘した新人俳優たちは、必死で膨大な台詞を肉体化しようと奮闘しているが、しかし大根仁の半ばドキュメント的に観察するようなまなざしのなかでは、新人ゆえに避けられない随所のほころびや逸脱がむしろアジとして活かされている。それが、いわば『モテキ』でも大いに発揮された大根仁流の映画内「リアル」をかたちづくって、劇中のどうしようもないキャラクターのいちいちが「ああ、こんな奴いそうだなあ、アホだなあ!」と観客の共感を誘う人物造型を施され、彼らが節操なく絡み合うちゃちな日常の物語も自然な空気感ごと自在に切り取られる。こういう作品のタッチは本当に大根監督の独壇場という感じだ。

一方、三浦大輔自身が演出に打って出た『愛の渦』は、『恋の渦』の風通しのよさに比べると対極の、息苦しいまでの濃密な、いくぶん神経質にせっぱつまった感覚に貫かれている。関係者に尋ねたらこちらは数日ではなくせいぜいひと月足らずではあるものの、ロケセットにキャストがどっぷり浸かって三浦演出に追い詰められながら演じきった産物だといい、そういう意味では同じ原作者が同じような(大島渚ふうにいえば)「性欲的」な若者たちを描いた内容ながら、まるで違う持ち味を愉しむことができる。

そんな『愛の渦』の基調をつくるカップルが、門脇麦と池松壮亮という目下最も注目されるふたりのキャストだ。平穏ななかにもニヒルな大学生活からちょっと逸脱してひと暴れしようとやってきた女子学生に扮する門脇と、食うや食わずの浮草のような暮らしを送る男の子に扮する池松は、ともに寡黙でたどたどしい言葉しか発することがないにもかかわらず、彼らの抱える途方もない寂寥感を漂わせて出色だ。

『鉄人28号』の子役時代からして印象的だった池松壮亮は、新作の松居大悟監督『自分の事ばかりで情けなくなるよ』の後半でもまさにその生きていくことの寂寥感に押しつぶされてこわれゆく青年を、観ていてひりひりするような鮮烈さで演じてみせた。吉田大八監督演出による舞台「ぬるい毒」の軟体動物的な呪わしきキャラクターも、池松の感覚的な天分ゆえに意図通りの表現を見ていたという気がする。

そして今ひとりの主役・門脇麦は、まだ映画作品に顔を出すようになる前に出演した下北沢スズナリの舞台「黄色い月~レイラとリーのバラッド~」で何の予備知識もなくその圧倒的な存在感に瞠目させられ、全く無名のご本人に思わず賛辞と感謝の念を伝えたことがあった。以後、門脇麦は映画、ドラマ、CMとみごとに活躍の場を拡張していったが、今夏の三浦大輔の舞台「ストリッパー物語」でも天啓のごとき演技を特技のバレエとともに披露して強い印象を残した。そんな門脇麦が『愛の渦』で「性欲的」な女子学生を引き受けるにあたっては、周囲にはさまざまな逡巡があったに違いないが、本人の意志はきっぱりとしたものであっただろうと推測する。

伸び盛りの女優にとって、かつて「裸像」の演技はおおごとな関門だった。興行上の要請からも、表現コードの緩和化からも、女優に「脱ぐ」ことが求められるようになった70年代初頭以降、秋吉久美子、関根恵子、桃井かおり、原田美枝子の時代から吉高由里子、沢尻エリカの現在に至るまで、「脱ぐ」ことが女優のイメージを翻弄することには変わりはない。ただ、かつての女優たちの「裸体」を晒した官能的表現がネガティブな格落ち感との戦いであったのに対して、現在はもはや「裸体」は女優の武器であり、問題は「脱ぐか否か」ではなく、「いつ脱ぐか」にすりかわったという気がする。『蛇にピアス』の吉高由里子も『ヘルタースケルター』の沢尻エリカも、脱いだことによって全く損をしていないどころか、むしろその堂々たる(古式ゆかしい言い回しだが)「脱ぎっぷり」は女優としてのポジティブな、時として戦闘的な(?)オーラさえ約束するものとなった。壇蜜の、同性まで含めた広い人気や共感もまさにそこに由来するものだろう。

さて、その「いつ脱ぐか」、裏を返せば「女優としてダサくないかたちで裸という武器を行使できるか」という潮目にふさわしい作品として、成長安定株としてはいささか尚早という見方もあったことだろうが、門脇麦は『愛の渦』を選んだ。そしてその読みは、大正解だったといえるだろう。なぜなら門脇麦の裸体が露わにされる乱交部屋では、見た目によらず獰猛な性欲を発散させる彼女と情交しているというよりは『シェイム』のマイケル・ファスベンダー宜しく苦行僧のような表情で迎え撃っている池松壮亮の裸があり、かたわらには滝藤賢一や駒木根隆介といった面々の情けなく諧謔的な「裸像」がのたうっている。ここにある「裸像」の官能表現は甘く蠱惑的なものではなく、生けるもののやるせなさ、みっともなさ、みじめさを描き出すばかりだ。そんななか、門脇麦が惜しげもなくまる出しにしてやまない肢体は、その忽然と性的スイッチが入ったような豹変ぶりが、性に操られるにんげんに傷ましさのようなものさえ感じさせて圧巻だ。

もちろんそういった男女入り乱れての稀代の「裸像」の表現は、監督の三浦大輔の視点あっての賜物である。三浦はあたかも昆虫の生態か腸詰の燻し具合を観察するような怜悧なまなざしで、この哀しくもおかしい肉弾戦を見つめ続ける。というよりも、その視点は裸体や性表現に留まらず、本作全体に通底するものだ。ただゲームのように好みの異性とその場限りのセックスをすればいいと割り切っているつもりなのに、ついむきに自己主張したり深刻に悩んだりとダサいことになってぐずぐずしている男女の神経戦(実はこれが本作の大部分なのだが)を、三浦は意地悪なくらい終始淡々と眺めている。そこから漏れ出る悲しいまでの人臭さを、三浦は舞台でも映画でも最大の獲物として追いかけ続けているように見える。