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感覚フィルター機能を鍛えて、騒音問題からの“飛び去り”を可能にすることはできないか!

橋本典久騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授
(提供:イメージマート)

 以前のことですが、宮崎県にある高等学校の女子生徒からメールが届いたことがありました。彼女は放送部に所属しており、現在、NHK杯宮崎県高等学校新人放送コンテストに向けてラジオ番組を製作しているとのことで、その素材として利用するためにインタビューの依頼をしてきたものでした。テーマは「勉強中の騒音」でした。

 質問内容は、

1、作業や勉強中に望ましい音の環境とは?

2、勉強中に静かな音の環境を好む人と騒がしい環境を好む人の違いとは?

3、同じ音量でも騒音だと感じる音、感じない音があるのはどうしてか?

4、なぜ勉強中に好む音が人それぞれ違うのか?

というもので、どれもこれも大変に難しい問題で、音響技術者でもなかなか答えを提示することは困難ではないかと思わせるものでした。

 取りあえず、「自分はこう考えるが、如何でしょうか」という質問なら、インタビューに応じても良いと答えておきました。難しい問題ですから、これでインタビューを諦めてくれたらラッキーだなと思っていたのですが、女子高生もなかなかしぶとく、何とか答えらしいものを用意して再び連絡してきました。高校生なりに、真剣に考えていることは理解できましたので、仕方なく(笑)インタビューの約束をし、指定した日時に電話してくるのを待つことにしました。

 高校生は、勉強に適した音環境はどういうものかに興味があるのですが、この質問は、実は騒音トラブルの問題にもそのまま当てはまる大変に的確な問題提示です。勉強を生活に置き換えれば、今まさに起きている様々な騒音トラブルの本質に迫るものと言えるでしょう。

 インタビューでの私の主な回答は、これらの問題では心理的な要因と生理的な要因の二つに分けて考える必要があるということでした。まず、心理的な要因で重要なキーワードとなるのは、もちろん「煩音(ハンオン)」と「フラストレーション」です。音に関しては、例え音量はさほど大きくなくても「うるさい!」と感じることがあります。これを騒音と区別して「煩音」と呼んでいるのですが、騒音トラブルの主な原因は多かれ少なかれ煩音であることが殆どです。煩音は、騒音を出している相手との人間関係や自分自身の心理的状況が大きく係っており、その根本を突き詰めれば、高校生が回答してきたように「その人の性格や普段の生活、どんな環境に置かれているのかが大きく影響している」と言っていいでしょう。そのことが、どのような音に関してフラストレーションを感じるかを決定してくるのだといえます。結局、これは人それぞれというしかありません。

 生理的な要因でキーワードとなるのは「感覚フィルター機能」です。人間には、五感を通して常に様々な刺激が脳に集まってきます。これらの感覚刺激は信号として視床という所に集められ、そこから神経系の最高中枢である大脳皮質に送られます。聴覚からも様々な音の刺激が間断なく脳へ伝えられていますが、私たちは、それら全ての音を常に意識しているわけではありません。殆どが意識せずに篩い落とされているのです。これは、あまり意味のない信号が過剰に大脳皮質へ行かないように、刺激の集まる視床でフィルターにかけられているのです。自分に必要な感覚刺激だけが選択的に聴取されているのです。

 誰でも経験することですが、ある事に夢中になって取り組んでいると周りの音は殆ど聞こえておらず、ふと我に返ると初めて周りの音が耳に入ってくると言うことがよくあると思います。いわゆる「ながら族」と呼ばれる人たちは、このような機能をうまく活用しながら勉強などの精神作業を行っているのだろうと思います。これは通常の生活において大変に重要な機能です。すこし街を歩くだけでも様々な音が耳に入ってきます。道路を車が行き交う音、街頭スピーカーからの宣伝音、通り過ぎる人達の話し声、店から流れる音楽、人ごみの中の足音、傘に当たる雨音、仮にこれら全ての騒音が、人の話を注意して聞く時と同じ状態で常時頭の中に入ってきたら、これはたまったものではありません。残響過多の空間のように、頭の中で入り交ざった音が鳴り響くとんでもない感覚に陥ることでしょう。

 これを制御しているのが感覚フィルター機能であり、この働きの強弱も人によって差があることでしょう。高校生が聞きたかった、「勉強中に静かな音の環境を好む人と騒がしい環境を好む人の違いとは?」の理由も、多分、この感覚フィルター機能が関係しているのだと思います。仮にこの感覚フィルター機能が低下すれば、一体どうなるでしょうか。これまで篩いにかけられ聞き流していた騒音が、気になって仕方がないという状態になるのではないでしょうか。騒音トラブルの原因は生理的な機能低下、というつもりは更々ありませんが、同じ騒音でも気になる人もいれば、気にならない人もいるのは事実です。ながら勉強も騒音トラブルも同じメカニズムかもしれません。

 感覚フィルター機能は、PPI(prepulse inhibition、プレパルス抑制)という生理学的な検査で比較的簡単に評価できます。筆者も以前、脳科学の研究機関でPPIの測定を実際に体験させてもらったことがあります。PPIは、ヘッドフォンで音を聞いて検査します。人でも動物でも大きな音の刺激を与えると驚愕反射(パルス)というものが起きるのですが、その音の直前に小さな音の刺激(プレパルス)を与えると、驚愕反射が抑制されるそうです。これを目の横の筋肉の筋電図で測定し、プレパルスでどれだけ驚愕反応が抑えられたかをパーセントで表示します。一般の成人男子では65%程度と言われていますが、この数値が大きいほど、すなわち抑制が大きいほど、感覚フィルター機能がしっかりしているということになるそうです。

理化学研究所の資料を参照して筆者作成
理化学研究所の資料を参照して筆者作成

 この感覚フィルター機能を訓練により鍛えることはできないものだろうかと思うのです。筆者の研究所には様々な騒音問題の相談が寄せられますが、内容の殆どは、騒音を出している相手を何とかできないかというものです。勿論、相手を説得して騒音を出さないようにできれば一番の解決策だと言えますが、そんなことは殆ど出来ません。それどころか、その交渉の過程を通して相手との関係が悪化し、最悪の場合には殺傷事件も引き起こしかねません。もし仮に、相手の音をフィルターにかけて篩い落としてしまえれば、こんな素晴らしい騒音問題の解決策はありません。

 音響関係の学会でも、単に「音のうるささは主観的」というだけで終わっていますが、騒音問題の社会的重大性を考えれば、それだけで済まされるものではありません。騒音トラブルで人生を失ったり、殺傷事件の当事者になる人も大勢いるのです。騒音は、「気にするから気になる」、「気にしなければ気にならない」という側面があるのですが、実際は「気にしない」ということが出来ないのが現実です。これを感覚フィルター機能を鍛えることにより実現できないかということです。これは、騒音問題からの“飛び去り”を自らの力で可能とする能力を身に着けることです。

 PPIは簡単に測定ができ、驚愕パルスを測定する専用の測定器も販売されています。脳科学の分野にはなりますが、どこかの医療機関がこの問題に真剣に取り組んでくれれば、社会的に大変に大きな福音になると思います。感覚フィルター機能を鍛えるトレーニング手法の開発というのも臨床的な重要課題ではないかと思っています。

騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授

福井県生まれ。東京工業大学・建築学科を末席で卒業。東京大学より博士(工学)。建設会社技術研究所勤務の後、八戸工業大学大学院教授を経て、八戸工業大学名誉教授。現在は、騒音問題総合研究所代表。1級建築士、環境計量士の資格を有す。元民事調停委員。専門は音環境工学、特に騒音トラブル、建築音響、騒音振動、環境心理。著書に、「2階で子どもを走らせるな!」(光文社新書)、「苦情社会の騒音トラブル学」(新曜社)、「騒音トラブル防止のための近隣騒音訴訟および騒音事件の事例分析」(Amazon)他多数。日本建築学会・学会賞、著作賞、日本音響学会・技術開発賞、等受賞。近隣トラブル解決センターの設立を目指して活動中。

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