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騒音トラブルで起きた最も悲惨な事件とは? ちなみに、ピアノ殺人事件ではありません

橋本典久騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授
(写真:アフロ)

 1983年(昭和58年)の警察白書では、初めて騒音を原因として発生した事件について言及しています。それによれば、「過去3年間に検挙した騒音殺人事件(傷害致死を含む)は57件」であると報告されています。40年程前のデーターですが、そのとき既に、騒音トラブルで1年に約20件の殺人事件が発生していたのです。

現在、騒音殺傷事件は毎年何件ぐらい発生しているのか

 では、最近はどうだろうかと思い警察庁資料課に情報開示請求を行ったことがあります。しかし、その後はこのような集計は一切行われていないということでした。上記のデーターについても、当時の担当者が個人的に興味を抱いて行った一時的な調査であっただろうとの見解でした。確かに、毎年出版されている犯罪統計書(警察庁)にも、これらに関する統計データーの記載は全くみられません。

 そこで自分で調査することにしました。報道されやすい騒音殺人事件について、新聞記事の検索により年代別の件数を拾い出し、1983年の警察白書の件数をもとに比例倍数を求めると、最近では騒音による殺人事件が年間約60~70件発生しているのではないかと推定されました。これは今から10年前の調査結果ですから、現在はもっと増えているかもしれません。

 上記の警察白書には傷害事件数についての記載はありませんでしたが、犯罪統計書によれば、殺人事件数に対して傷害事件の数は約20倍、暴行事件まで含めると約50倍ですから、騒音によって毎年千数百件の傷害事件、暴行事件は3000件以上発生している計算となります。騒音トラブルが一つの社会問題であることが、これらの数値からも確認できます。この他、警察沙汰にまではならなかった事件や、事件の一歩手前のトラブルまで含めると、とんでもない数字になるのではないでしょうか。また、直接の暴行や傷害でなくとも、騒音トラブルによるノイローゼ、自律神経失調症、不眠による体調不良など、様々な生理的障害もあります。騒音の影響が社会的に極めて大きいことは歴然であり、誰が騒音トラブルの当事者になってもおかしくない状況だといえます。

ピアノ殺人事件が社会の騒音意識を変えた

 多くの騒音殺人事件が発生していますが、表題に掲げたピアノ殺人事件はとくに有名です。昭和49年(1974年)の夏、神奈川県平塚市の県営住宅団地で、4階に住む無職の男性(当時46歳)が階下のピアノの音がうるさいと、33歳の母親と8歳、4歳の2人の娘の計3人を包丁で刺し殺した事件です。被害者の部屋には真新しいアップライトピアノが黒光りしており、その隣の部屋の襖には、「迷惑かけるんだから、スミマセンの一言位言え、気分の問題だ、・・・」との、犯人が残した鉛筆の走り書きがあったといいます。犯人は、犯行後バイクで逃走を続けましたが、3日後に自ら警察に出頭し逮捕されました。事件翌年の横浜地方裁判所・小田原支部で行われた第1審で死刑判決が下され、その2年後の東京高裁での第2審では、裁判途中に被告自らが控訴を取り下げて死刑判決が確定しました。死刑が執行されたという報道は現在まだありません。

 ピアノ殺人事件が当時の社会に与えた衝撃は大変に大きなものでした。ピアノ殺人事件は突発的な事件ではなく、事前に包丁を購入し、周到に殺害の機会を狙っていたという確信犯であり、しかも、母娘3人を殺害するという凶行です。騒音がこのような残忍な事件の原因になるということは、当時の人々にとって信じがたいことでした。音が聞こえるのはお互い様で当たり前、そんな時代に起こった凄惨な事件だったのです。騒音にそこまでの力があったのかと世間が驚愕したのです。「騒音は時として、人を狂気に追いやる」、当時の人々はこれを受け入れ、これなら、だれでも同じような状況に追い込まれることがあるかもしれないと考えました。まさに、騒音事件の幕開けを告げる事件となったのです。

 世の中の人が、ピアノ殺人事件をなるほどと認めた時から、騒音事件が市民権を得ました。騒音で人が殺されることもあるんだ、騒音で人が殺されても仕方ないんだと納得することが騒音事件の発生を容認し、それ以後、騒音事件が多発してくることになります。もちろん、これがピアノ殺人事件だけに誘発されたわけではなく、都市化の進展や人間関係の希薄化などの社会環境の変化が急激に進んだ時期だったことも原因として挙げられます。しかし、もし仮にピアノ殺人事件が起こっていなかったら、騒音トラブルの現況は大きく変わっていたかもしれません。この事件は、日本人に突然変異的な騒音意識の変化をもたらしたのであり、その意味でピアノ殺人事件の社会的な意味は大変に大きいといえます。上記の警察白書の集計も、ピアノ殺人事件に触発されて行われたものかもしれません。

 このピアノ殺人事件はマスコミに大きく取り上げられ、その残虐さが社会を震撼させて大きな話題となりました。これに匹敵する騒音殺人事件はその後も見つかりませんが、筆者が表題に掲げた「最も悲惨な事件」とはこのピアノ殺人事件ではありません。

宇都宮猟銃殺傷事件とは

 著者が最も悲惨な騒音殺人事件と感じるのは、平成14年7月に起こった宇都宮猟銃殺傷事件です。発生事件としては、2階ベランダで布団たたきをしていた主婦を、隣家の男が「音がうるさい」と猟銃で射殺し、被害者の義理の妹にも発砲して重傷を負わせ、自分も猟銃で自殺したというものです。この事件は単に生活音に関するトラブルというものではなく、そこに至るまでにおよそ20年以上に亘る綿々とした近隣トラブルの経緯が存在していたのです。裁判資料をもとにトラブルの経緯を大まかに辿れば以下のようになります。

 加害者の男と被害者の主婦の夫は、同じ自動車関係の会社に勤務し、昭和53年(1978年)に、隣同士の分譲住宅を同時期に購入して住むようになりました。この頃は、近所でも仲がよいと評判になった程の近隣関係でしたが、数年後、加害者の妻が主婦の家の手紙を勝手に見たということで主婦が憤慨し、近所にもこのことを話したため、これをきっかけにお互いが付き合いを断り、険悪な関係になりました。この頃から、男は主婦に対して怒鳴ったり、犬猫の糞やゴミを投げる嫌がらせを始めました。その後、主婦の夫が他所へ単身赴任となり、主に夫の留守中に男の嫌がらせが続くこととなりました。主婦は様々なところに相談に行きましたが状況は改善しませんでした。

 平成8年になると男の妻がくも膜下出血で倒れ右半身不随になり、要介護2の認定を受けました。この頃から、主婦が正午頃に布団を叩くことに対し男がうるさいと文句をいうようになり、また、自宅敷地の主婦宅のベランダから見える所に棒を立て、ネズミの死骸を糸でつるすなどの嫌がらせを行いました。

 平成10年に主婦の家が屋根を瓦に変えたところ、男が3日間にわたり屋根に石を投げつけ、夜には電話をかけて主婦に騒音の苦情をいったといいいます。また、主婦が庭木に消毒薬を散布した折、男の家の芝が一部枯れたのを見て、主婦に毒物を撒かれたと男が110番通報して警察官10名が出動したこともありました(毒物事件)。

 その他、主婦の家で頼んだ大工職人が男の家の前の道路に2,3台駐車していたところ、男が110番通報してパトカーが来たり、男が主婦のところに回覧板を届けた際、チャイムを鳴らし続け、玄関先や庭で執拗に主婦に叫び続けたこともありました。平成12年には、男が会社を定年退職しましたが、再就職はせず妻の介護のため自宅で過ごすこととなりました。この年、主婦が布団を取り込んでいると、「お前は嘘つきだ」、「旦那は俺を馬鹿にしている」などと男が怒鳴りはじめる場面もあり、双方が警察に連絡し、パトカーが駆けつけ、近くの交番からも警察官2人が臨場するということもありました。この出来事は、警察官勤務日誌に「隣家とのいざこざ」を事案処理と記載されました。

 平成12年10月頃には、男が塀のそばに脚立を置き、主婦の家を度々覗き込むようになり、また、脚立に上って腕を伸ばし剪定鋏で威嚇することもありました。主婦の方は、夜中に男が敷地に侵入しているという不安からカーポートにセンサーつきのライトを設置し、地方法務局人権擁護係や民生委員にも相談しましたが、話し合いをするようにアドバイスを受けただけでした。男の方も民生委員に電話をかけトラブルについて相談しましたが、その折、「どうしても許せないので何とかしたい。その結果、刑務所に入ってもよい」などと話したといいます。

 ある時、主婦がゴミ置き場から自宅へ戻ろうとすると、男の運転する自動車がセンターラインを越えて主婦に向かい、すぐ脇で急停車しました。主婦は轢かれそうになったと交番に電話し、交番巡査が男の家に行き事情聴取を行いました。主婦は、男が殺意を持っているとして警察の捜査を依頼しましたが、その後、主婦は気分が悪くなり救急車で病院に運ばれ、結局そのままとなってしまいました(轢過事件)。

 その後も様々なトラブルが続きましたが、事件の3ヶ月前、男は射撃をやりたいと散弾銃の所持を警察に申請し、許可書の交付を受けて猟銃を購入しました。事件発生の前日には、男は自宅に戻っていた妻を介護施設に再び預けました。そして事件当日の午後1時8分、男は猟銃を持ち出し、ベランダで布団を取り込んでいた主婦に向けて発砲し、主婦は頭部左側面に被弾して転倒しました。男は、その後、主婦宅のベランダに行き、助けを求める主婦に至近距離から3発打ち込みました。物音を聞いて出てきた主婦の義理の妹にも2発発射し、その後、主婦宅2階の6畳間で自ら頭を撃ち自殺しました。主婦は死亡、義理の妹は一命を取り留めるも眼球摘出など重傷を負いました。

何が最も悲惨なのか

 この事件では、20年もの長い期間に亘って近隣間で争いが続き、この間、被害者の女性は考えられるありとあらゆる人や機関に問題解決の相談を行っています。相談先を挙げれば、市の市民相談課、地方法務局人権擁護係、精神保健相談センター、自治会長・副会長・市の福祉部長、交番、地元警察署、県警本部、勤務先総務課、公民館無料法律相談、裁判所、弁護士、民生委員、新聞社社会部などであり、いかに必死に助けを求めていたかがわかります。それにも拘らず、問題は解決しないどころか、遂には、当事者双方ともに最悪の結末を迎えてしまったのです。市役所や警察に相談しても効果がなく、地域の自治会長や勤務先の上司も何の役にも立たず、弁護士や裁判所への相談も解決には繋がりませんでした。近所の人は何時か大変なことになると言っていたそうです。20年もの長い間、助けを求め続けたのに助からなかった、こんな悲惨な状況は他にありません。騒音トラブルというより近隣トラブルといった方が良いと思いますが、多くの事件の中でもこれが「最も悲惨な事件」だといえる理由です。

 現在の我が国では、近隣間に泥沼の争いが起こった場合、これをうまく解決できる方法はありません。近年特に多くなっている近隣トラブルによる事件や騒音事件の殆どは、トラブルの有効な解決システムがあれば起こらなかったものと考えています。避けえない近隣トラブルや事件などないのです。では、どのような解決システムが有効かといえば、米国で普及しているNJC(Neighborhood Justice Center、直訳すれば近隣司法センター)のような組織と解決システムです。NJCとは具体的にどのような組織で、どの程度効果を挙げているのか、是非、その詳細を知りたくて米国へと飛んで、現地調査と担当者へのヒアリングを行いました。もう10年程前の話ですが、その調査の結果を次回の記事で紹介したいと思います。

騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授

福井県生まれ。東京工業大学・建築学科を末席で卒業。東京大学より博士(工学)。建設会社技術研究所勤務の後、八戸工業大学大学院教授を経て、八戸工業大学名誉教授。現在は、騒音問題総合研究所代表。1級建築士、環境計量士の資格を有す。元民事調停委員。専門は音環境工学、特に騒音トラブル、建築音響、騒音振動、環境心理。著書に、「2階で子どもを走らせるな!」(光文社新書)、「苦情社会の騒音トラブル学」(新曜社)、「騒音トラブル防止のための近隣騒音訴訟および騒音事件の事例分析」(Amazon)他多数。日本建築学会・学会賞、著作賞、日本音響学会・技術開発賞、等受賞。近隣トラブル解決センターの設立を目指して活動中。

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