繰り返される失言

 東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の女性差別発言が、世界中から批判を浴びています。さらに、それを受けての謝罪会見でも、開き直ったような不遜な態度が怒りに油を注ぐ形となっています。

 振り返れば、森氏がこのような差別発言をしたのは、今回が初めてのことではありません。呆れるほど同様の発言を繰り返しているのです。

 ハフポスト日本版がまとめたところによれば、以下のような発言があったそうです。

  • 2003年6月「子どもを一人も作らない女性を年取って税金で面倒を見るのはおかしい」
  • 2007年7月「女性は視野が狭い」

 なぜ、このような発言が繰り返されるのでしょうか。失言癖という言葉がありますが、それにはただ口が滑ったというニュアンスがあります。しかし、これだけ繰り返されると口が滑っただけでは説明がつきません。そこにはどんな心理が働いているのでしょうか。

コアビリーフという信念

 認知心理学の用語で、コアビリーフ(core belief)というものがあります。直訳すると、中核的信念となります。それを定義すると以下のとおりです。

 コアビリーフとは、人々が自分自身、他者、世界、そして未来について有する基本的で絶対的な信念のことである(Beck, 2011)。

 「人間は平等である」というコアビリーフを有していれば、その人から差別発言は生まれないでしょう。しかし、コアビリーフは適切なものばかりとは限りません。偏狭なコアビリーフ、不合理なコアビリーフ、非現実的なコアビリーフなど、人によってさまざまなものがあります。それが多くの問題の根源となるのです。

 森会長の繰り返される問題発言の根底にも、彼の不適切なコアビリーフがあると見ることができます。つまり、女性を下に見て、ともすれば邪魔だ、煩わしい存在だととらえるような偏狭な信念です。

 今回の森会長の発言を聞いて、なぜこのような無神経な差別発言を堂々とできるのだろうと不思議に思った人は多いはずです。しかし、彼には差別的なコアビリーフがあるからだと考えると不思議でも何でもないのです。それは彼の中核的で基本的な信念なのです。

コアビリーフが活性化されるとき

 コアビリーフのもう1つの特徴は、それが活性化されやすい特定の状況があるということです。たとえば、「自分は価値のない人間だ」というコアビリーフを持っている人は、対人場面でそれが活性化されやすく、極度に人見知りになったり、そっけない対応をしたりします。

 森会長の場合は、これまでの失言歴を見ると、講演会や気の置けない人々との会合などでのスピーチでコアビリーフが活性化されるようです。そうした場合、仲間内という気安さなのか、気が緩んで不適切な発言をしています。また、彼なりのサービス精神なのか、少しきわどいことを言って笑いを取ろうとしているのかもしれません。

 実際、今回の会合でも、発言のあとに笑い声が起こったと報じられています。その場では誰も諫める者はなく、笑いですんでしまったところに、この問題の根深さを見る思いがします。

コアビリーフが作られるプロセス

 コアビリーフは、子ども時代から今までの生活のなかで、家庭環境、友人関係、個人的体験、社会環境など、さまざまな要因が組み合わさって作られるものです。それは、コアというくらいですから、本人のあらゆる考え方や行動の基盤となります。非常に堅固なもので、ちょっとやそっとで修正されないことも特徴です。

 年配の男性であれば、小さいときから男性中心主義が身に染みているのかもしれません。偉そうな父親の姿や周囲の男性像をロールモデルとして取り入れ、自分もそのように振る舞うことで、「男らしい」などというポジティブな評価を受けてきたのかもしれません。

 さらに、森会長くらいの立場の人になると、周りも彼に迎合し、問題発言を繰り返しても直接批判する人はいないのでしょう。先ほど述べたように、今回も笑い声が上がり、直接彼を諫める人はいませんでした。

 もちろん、差別的なコアビリーフや発言の責任は、間違いなく本人にあります。しかし、これまで彼の発言を放置してきた人々にも、彼のコアビリーフを一層強めてしまった責任があります。

 コアビリーフはきわめて変化しづらいものですが、その一方で時代や社会情勢はめまぐるしく変化します。そのような変化に適応できずに、頑迷なコアビリーフに執着していると、時代の変化とともに批判を浴びたり、社会との間に摩擦が生じることになります。

 その場合も「批判をするほうがおかしい」「変な世の中になってきた」などと、悪いのは自分ではなく、相手であり社会であるととらえていると、コアビリーフは修正されないのです。それは、森会長の謝罪会見での言動を見ると明らかです。

コアビリーフの修正とわれわれの責任

 コアビリーフの修正には、認知行動療法という治療が効果的です。しかし、それは自らのコアビリーフゆえに不適応状態に陥ったり、うつ病などメンタルヘルスの問題に至ったりした人が自ら進んで受けるものです。

 謝罪会見の言動を見ていると、森会長が自らの問題を自覚し、そのコアビリーフの修正を求めるとはとても思えません。

 しかし、発言は今や彼一人の問題ではなくなっています。世界中から大きな批判を浴び、日本という国に対しても女性差別を放置している国という目が向けられています。

 森会長の「治療」はもはや絶望的だとしても、われわれはこの国の現状を変えることはできます。そして、その責任があります。

 まず、先にも述べたように、森会長のコアビリーフを増大させ堅固なものにした責任の一端は、取り巻きの人々にもあります。彼らは、明らかな差別発言を容認し、放置してきた責任を負うべきです。そして、自らのコアビリーフを点検し、修正が必要ならば修正をしたうえで、差別の解消に向けて努力すべきでしょう。

 森喜朗氏が日本ラグビーフットボール協会の会長を務めていたときに、ラグビー協会初の女性理事となった稲澤裕子氏は、テレビのニュース番組で「自分はこれまで男性社会のなかで何度も女性差別発言を聞いたが、批判をすると疎ましく思われると思って一緒になって笑ってしまっていた。それを変えていきたいと思っている」という趣旨の発言をしていました。これはとても勇気のある発言だと思います。稲澤理事を責めるのは酷ですが、このような認識はきわめて重要です。

 また、森会長の謝罪会見の場で、「組織委員会の会長として適任と思いますか」とインタビューした記者に対し、森会長は「あなたはどう思いますか」と不機嫌に問い返しました。すると記者は明確に「私は適任ではないと思います」と答えました。

 私はこの記者にも大きな敬意を表し、拍手を送りたい気持ちです。このように、森会長にはっきりと「ノー」を突き付けることこそが、われわれ一人ひとりの責任の取り方ではないかと思うのです。

 いま、森会長の処遇検討を求めた署名活動が始まっており、すでに5万筆の署名が集まっているとのことです。こうした地道な声を上げていくことが、わが国が「国際社会において、名誉ある地位」を占めるためには必要です。

 オリンピック憲章では、その根本原則の第4条において「スポーツをすることは人権の1つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない」と謳われています(太字引用者)。ほかにも「いかなる形態の差別にも反対し行動する」ことが使命だと述べられています。

 森会長は東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長として適任ではありません。